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(フォローされています)の関係

「Twitterのフォローを外したら外された。そんな程度の関係だったのか」とがっかりしてしまうことに対して思うことがある。

前提として、そもそもフォローフォロワーの関係は流動的でよい。フォローしてるかどうかに関わらず、自分が相手に価値を感じていれば繋がりはある。

「フォローの関係」はお互いの発信内容に関心があるという意思表示、第三者へ関係の認識をさせるくらいの意味。

それから、「フォローを外したら外された」には二通りある。

よくみられる考え方は、「相互フォローでなければ、自分だけがフォローしているのは嫌だ」という考えにもとづいて外されるというもの。これはちょっとかなしい。見返りとしてのフォローだったんだ、という感じ。

だけど、もう1つの場合がある。

それは、フォローを外されたとき相手のツイートを見にいき、発信内容に特に感じるものがなければ自分もフォローを外す、というものだ。

これは、単純に「フォローを外されたから外した」のではない。「フォローを外されたのをきっかけに相手の発信内容に対する自分の関心を見つめ直し、結果としてフォローを外した」ということだ。

前者は「フォローのお返しにフォロー」「外されたお返しに外す」って感じ。
後者は「発信内容に興味を持ってフォロー」「興味がなくなって外す」って感じ。

わたしだったら後者のほうが嬉しい。「お返し」じゃなくて「したい」気持ちで行動してほしい。

別にフォローを外したからといって人間関係が終了するわけではない。にも関わらず、そう思い込んでしまいがちな気がする。

「似た価値観をもっていればどこかでつながる」という考え方があれば、フォローの関係でなくなったときに必要以上にがっかりする必要はない。

Twitter等SNSの発信内容は、その人の一部分に過ぎない。もちろん大部分であるかもしれないけど、それに関心がないからといって人間関係終了にはならない。

「自分/相手は既に相手/自分の人生の登場人物である、という認識」があればフォローフォロワーの関係にあえてならなくともよいのだ。

ただわたしは記憶力が弱く、機会損失がこわいという情けない理由で相手へのフォローをなかなか外せないけれど

フォローの状態にかかわらず、意識の向く人と生きていきたい ね

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