見出し画像

70億の小さなサイコロ、1つしかない大きなサイコロ

最近、ふと感じるのは、人類は70億のサイコロであると言うこと。
そして、サイコロの大まかな形は、身体的な構造として、知識の構造を遺伝させつつ、環境・文化などの周辺状況によって、サイコロの出目それぞれの確率が変わってくるのだということ。

そう考えると、ヒトとは、初期化に30年かかる複雑なネットワーク構造でしかないのかもしれない。でも、だからこそ、人は、国境を超えて同じ音楽に感動できるし、笑いあい、そして、残念ながら憎しみ合うのかもしれない。

当たり前の話だけど。

一方で、GPT-3などの巨大なAIモデルを見ると、AIはどんどん一つの大きなサイコロとして進化していっているのだとも感じている。しかし、これは、世界のデータを集めて、一つの大きなサイコロの形を作っている最中で、人類のように複数のサイコロとして、存在しているわけではない。

では、AIは、どこまで大きくなれば良いのか。
もし仮に、ラプラスの悪魔のように、全てを観測し記述することができるようなことが有れば、それはたしかに全ての事柄に対応できるAIになるのかもしれない。しかし、余地がないことは、ただ人を追い詰めてしまうだけなのかも知れない。

この辺りまでくると、ヒトとAIの付き合い方が、知能の正しさという指標だけでは成り立たない。そこには、ヒトの弱さが浮き彫りになってくる。

この時よく思うことは、AIはポール・ゴーギャンが遺した以下の言葉に答える術を持ち合わせる事ができるのかという事だ。

D'où Venons Nous Que Sommes Nous Où Allons Nous
(我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへいくのか)

この言葉に、ただただ大きなAIは、どのように答えるのだろうか。

もし、我々は、我々の世界を持ちうるとしたら、その世界は、出発点なのだろうか、それとも、到達点なのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?