厭世主義

小説を読むと、その小説が与える影響はとても大きい。
自分自身、感受性は並程度なものだと思っているが、それでも小説を読めば、その小説の影響を大きく受ける。
先ほど、吉田修一の「怒り」を読み終わった。
凄い小説だった。本当に凄い。ただ、ただ、凄い。
そんな単純な感想しか出てこなかった。
人を信じることの難しさ、信じて裏切られること、裏切ってしまうこと。
人間の喜怒哀楽をこうも文学的に表現できるものなのかと、尊敬を越えて、恐怖を味わったといっても、過大ではない。
感情移入しすぎた、と思う。
村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読み終わった後もそうだったが、あまりにも感情を入れすぎてしまうと、翌日は体も気分も重くなるし、考えても答えがないようなことをぐるぐると考えてしまう。

結局、人は信じ信じられ生きているのだ。
私もそうであり、各国の大統領や殺人を犯したもの、カフェの店員だってそうなのだ。
信じるということは言葉で説明できない。
なにをすれば信じるということになるのか、信じられていると思うのかわからない。
信じることで、幸せになることもあるが、不幸な結末を迎えることの方が多いのではないか。その闇を暴くことが決して幸せになるとは限らない。
知らないほうが良かった、なんてことは腐るほどあるのだ。
だけど、信じてみたい。信じることで報われたい。
いつか、本当に信じるということができる日がくることを願う。

そして、自分を信じるということもだ。
「自分という人間を自分が疑っている」
これは常に私の中を巣食っている悪魔だ。先日は人からも指摘された。
誰かと比較して自分は劣っている、出来損ないだと考えていることは果たしてそのこと自体にメリットがあるのだろうか。
それではだめなのではないか。
胸を張って、自分らしく、自信をもってあなたの存在をあなたが認めてあげてはどうでしょうか。
こんなありきたりな言葉は大嫌いだが、恩師から貰った言葉は拗らせている私を救ってくれた。
私は変わった。
もっと前向きに自分を表現していきたい。
文字を打っていれば、荒れていた心も収まってきた。とりあえず吉田修一の本は全部読もうと思う。
自分らしく生きろ自分。

ps 文章を書くとき格好つける癖は嫌いだぞ自分

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