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ミャンマーで見たリアル。

こんにちは。

18歳でタイとミャンマーの国境の町、メーソットまで行った、たなかかのんです。


なんでそんな年齢で、そんなところに行ったのか。


私が初めてミャンマーに行ったのは、中学1年生の12歳。地元にあったNGOの活動として、初めて海外に行きました。


当時の私は、ほんとうに海外にも興味がなく、中学ではそれなりに勉強して成績は上位にいたので、それなりに勉強して、それなりに働いていくんだろうなとしか思っていませんでした。


そんな私が、ミャンマーに行くのを決めたのは、ずっとミャンマーの話をNGOの方から聞いていたのと、地元に唯一のミャンマー人の方が近くにいたからです。


教科書の中のリアルを自分で見てみたいなーという好奇心だけでミャンマー行きを決めました。


正直、その時のミャンマーがどんな状況だったのか知るよしもないので、地雷とかあったらどうなるんだろうとかそういうよく分からないことを考えてしかいませんでした。
今思えば、2016年のミャンマーなんて、子どもがよく行けたなと思える場所です。


渡航が近づくたび、初めての海外へのわくわく感と、未知な世界への不安感で初めての感覚を覚えたのを今でもはっきり覚えています。


私の家族はほとんど海外経験もない(新婚旅行でハワイ、しかもしっかりツアーで英語も全く話せないくらい)ので、どんな話もあてにもならない。。



そして、顔は見たことあるようなないような、自分より年上の人たちと一緒に旅立ちました。クリスマスの夜を東京で過ごし、次の日成田からミャンマーのヤンゴンに飛びました✈️


不思議なクリスマスと年末年始が始まったのです。

でも、ミャンマーに着くと、飛行機を降りた瞬間の生暖かさから始まり、入国も機械などなく人しかいない入国ゲート、出会う人出会う人の肌の色や服装の違い。全ての目に入ってくるものが新しくて、バスに乗ってもずっと窓にくっついて、衝撃しかなかったのを今でもはっきり覚えています。


そして、道の脇に座り込んで物乞いをしているおばあさんや、物乞いをするために話しかけてくる自分と同じくらいの年の子どもたち、マーケットで働いていた4カ国語くらい話せる少女。

彼らは、自分たちが生きていくための術を身につけ、毎日生きているんだということを身をもって知りました。

都会の近くにあるスラム街も。

教育を受けられていない子どもたち、日本で当たり前のポリオワクチンも届けられていない子どもたち、医療を受けられていない子どもたち。

日本に住んでいれば、当たり前にできることが当たり前ではないということを12歳ながら気づかされました。


教科書にも載らないようなリアルがそこにはありました。


そして、10日間の滞在を終え、日本に戻っても、あれから1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月、1年、経ったのかと毎日ミャンマーのことを考えていました。


自分にできることは何なのか、と考えながら、毎日戦争や貧困や途上国に関係する本ばかり読んでいました。

そして、ミャンマーだけではなく、世界中で自分の知らない世界が広がっているということを知りました。



それからは、また機会があり2019年にもう一度ミャンマーを訪れ、3年間の間の発展のスピードに驚かされたのをはっきり覚えています。


その時から、今立ち会わなければならない場所が世界中にはたくさんあるということを知りました。


そして、コロナが広まりはじめ、1年後にはミャンマーでクーデターが起き、次いつ行けるのか分からない国になってしまいました。

自分がいた本当にその場所で、人の命が奪われてしまっているという感覚が、これまでにはない感覚で、本当に他の国の出来事ではなくなってしまったからです。

今も空爆等で亡くなってしまっている命があるということ。やっぱり許し難いことだと思います。


私はミャンマーで出会った人たちが大好きで、ミャンマーの文化も大好きです。だからこそ、ミャンマーが平和になることを心から祈っています。そして、私にできることは何でもやっていきたいと思っています。


高校生のとき、私は正直学校どころではなかったです。自分に何ができるかは分からなくても、何かやっていないと気が済みませんでした。

だから、ミャンマーの現状を少しでも知ってもらいたいと思い、周りの人が署名活動を始めたのに便乗して、署名活動を始めました。そして、結局は、外務省にも提出することができました。

署名活動の目的は、ミャンマーの人道的支援と人権保護でした。そして、少しでも多くの人に理解してもらいたいと思い、高校の校長先生に直談判しに行きました。

しかしながら、学校は政治とは独立した存在でなければならないと言われました。

正直そうなることは予測できていました。しかしながら、署名活動を許可されている学校もあったのです。それを知っていたからこそ、自分の学校に絶望しました。


それでも、何でそんなに絶望感を感じたのか。


それは、ミャンマーのことについて何も知らない。

そして、それでも、自分たち教員自身の名誉を守るために署名活動を拒絶しているようにしか見えなかったから。

さらに、自称進学校であったため、そんなことより勉強して将来その人たちのために勉強した方がいいと、説得させてきたことでした。


結局、人の命や人権は大切と言っても、政治と関わっていなくても関わっていると思われたくなくて、所詮何もしない。そして、命や人権の重要性を教える立場の教師が、ミャンマーの現状さえも知らない。

そして、学歴を求める、今の学校の在り方。

私は教育を受けられる環境にある責任として必死で勉強して、それなりの国立大学の大学生になった今だから分かることは、本当に高学歴であればあるほど学歴に依存して生きている人がバカほどいるということ。


で、このとき、本当に学校が大嫌いになりました。
それから一時期不登校にもなりました。最後の方は、学校も絡んできて面倒になってきたので、仕方なく学校には行っていましたが。

こんな日本社会と、そんな人材に税金を払っている国民と、そんな風潮を認めてきた環境に絶望しました。私もこんな社会を許容して今も生きているんだと思うと、ヘドが出そうです。


そんなこんなしているうちに、海外に行きやすくもなってきて、2022年の8月、インターンでタイに行きました。
この頃の日本はまだ帰国時にもPCR検査が必要で、海外に行くなど言えば叩かれそうな世の中だったので、家族と友人1人にしか言わないまま、タイに向かいました。



何気に海外は4回目でしたが、初めての1人海外で、ワクワク半分、不安半分で行きました。
この時、海外に1人で行くことを覚えはじめ、それからも1人旅を始めるようになります。


この時のタイ滞在は、日系企業のインターンでしたが、自分の中での裏計画では、そこでミャンマーを支援している起業家さんに出会って、次回あたりでそこについていかせてもらうことでした。


無事、その裏目標も達成して、インターン1ヶ月も終了して何も問題なく終わる予定が、帰国日にコロナが発覚するという事件が起きました。


そして、帰国が遅れたことにより大学にも連絡せざるを得ず、日本出国時に気にしていた日本人からの叩きが始まったのでした。


その当時、海外に渡航する際は学校への申請が必要だったらしく、学部の先生に相談はしていたものの、学校側に連絡がないとのことで怒られ(これに関しては、学部の先生に連絡していたので、その先生の連絡ミスで私に責任はないが、仕方なく自分が悪い設定にして、今でも気づかれていない)、誤解であるが謝罪もなく、目をつけられたようです。


この一連の流れに加え、保険申請のために何十回と同じことを聞かれ連絡をさせられ、地獄の帰国後1ヶ月を過ごしました。


自分は、日本が嫌いなんだと気づきました。

そして、できる限り日本にはいないでいようということで、春休みに、タイ、インド、ベトナムへの渡航を決めたのでした。


タイでは、その知り合った人にミャンマーとタイの国境の街、メーソートまで連れていってもらい、難民キャンプに行くこと。が目的でした。


半年越しの計画が実現する瞬間です。
次の投稿もご覧ください。


長くなりましたが、
これが私が海外、特にアジアに興味を持ったきっかけでした。
最後までお付き合い頂きありがとうございました!

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