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木芽ハルナ入門

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#考える

苦い抹茶ミルクティー

 最近世の中にあるのはお砂糖たっぷりの甘い甘いミルクティーばかり。まるで便利さに甘やかされてる人間みたい。甘やかされて、甘えてるうちに人間はそれがなくてはならないものになっていく。便利もお砂糖も中毒になる。  甘ったるい世界が存在することを知った。時間は守らなきゃいけない、なんて、当たり前のことすぎた。当たり前すぎて、意識してなかった。大学生になってから、時間を守る人のほうが偉い、みたいな価値観に出会った。レポートも〆切ギリギリ、間に合わなかったらメールで添付。バイト遅刻し

「期待」だけはしないほうがいい

 自分に少し、ため息をつく。また「期待」してしまった。私の持論だが、期待したことは大体起こりえない。起こりえることは、目標だ。期待の淡い他人任せのような気持ちがない、自分の意志が固くなって行動できたものだけが現実になって現れる。  「期待」したことが起こった結果が「思い通り」だった時、それほど単調で無感動で面白くないことはない、と思う。人間はそこに安心感を求めてしまうが、人生の醍醐味が無いなぁと私は思ってしまう。  やっぱり「期待」だけはしないほうがいい。他人にも、自分に

生きている意味、とは

 最近、無性に「生きている意味」を知りたい。何してるんだろう自分、って思うことが増えすぎた。  なんで目を覚まさなきゃいけないんだろう、なんでこれ食べてるんだろう、なんで勉強してるの、なんで就活就活ってストレス抱えなきゃいけないの、なんで睡眠してるんだろ、みたいに、根本的なところもごちゃごちゃに悩んでいる。もはや趣味、悩むこと、みたいな。  とにかく何か生きていなければいけない理由が欲しくて、生きているという証拠が欲しくて、noteをただただ書いている。これからこのnot

私とは何か

 非常に大きな問いである。生涯を費やしても答えにたどり着けるかはわからない。いや、むしろ人生をかけて知っていくものである。  フランスの哲学者、ルネ・デカルトは言った。 「我思う、故に我あり」  あらゆる存在を疑っても疑う自我があることは否定できない。ゆえに考え続ける限り、「自分の存在自体」を疑ったとしても、「疑っている自分」が存在していることになる。つまり「疑うという意識そのもの」が自分の存在を証明している、と彼はいった。  自分自身について語る。それは非常に難しい