独りでいると、独りでいられなくなる

毎日自室での生活が続くと、ふと、自分は存在しているのか、していないのか、わからなくなることがある。自分自身では確かにここに居ることを認識できているのだが、他人から見れば私は存在していないのも言えるのではないか。シュレーデンガーの猫の思考実験を知ってからというもの、あらゆる物事の存在の不明瞭さ、不確かさを感じるようになった。

日々のニュースや人々のつぶやき、多くの情報を毎時摂取しては何かを思う。映画やドラマ、小説などに感情を動かされる。そのたびに、自分の思いは溢れ、時に叫ぶ。心の中で。それは、私から見れば今ここで思考に形を見出そうとした瞬間だったのかもしれないけれど、おそらくそれは空気を浮遊したと思えばパチンと割れて瞬時に消えるシャボン玉以上に現実味のないものなのだろう。

つまり、声に出さなければ、実体として誰かが受け取る形でなければ、存在していないのと同じ。今息をしていても、生きているのかわからない。
だから人は絶え間なく声を出し、自己を表明するのだと思う。
「このパン美味しい」「今日はいい天気だ」「今仕事終わった」
なんでもいい。ただ伝えたい。そして自分が生きていることを知る。
お互いに知る。

自己表現なんていうとたいそうなものに感じるけれど、自分の内側にあるものを打ち明けることは必要なことだと自粛を余儀なくされたここ二年くらいでわかるようになってきた。

大学の授業をすべて終わり、あとは個人で勉強するのみ、なにか話すことがあればzoomでオンライン会話なんてことを続けていたら、出不精な性分だったとしても人に会いたくなるし会話をしたくなるし事務的な要件ではなくて、個人的な話をしたくなる。そして事務的であることは必ずしも自分として対応する必要はない。自分らしさが不要な会話を続けていくうちに、この人は誰を見て話をしているんだろうという顔に霧がかかったような感覚に陥る。
自分とは何か、それに興味があるのは内省力の強さが表れているのか、はたまた環境がそうさせているのか。

そんな答えの出せない頭の中を整理し、また新しく生まれた思考の行き場をつくるために結局自分できることは書くだけなのだ。3月に入り、頭の中で決意した言葉の数々が夜な夜な泡となって意気込みが消えていく様を何十回と見つめながら、エンドレスループを断ち切るが如く、ここに記す。

ありがとうございます!