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世界の(未)公開映画

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東欧映画、ロシア映画以外の未公開映画についてまとめています。最近は公開された作品も掲載しています。全ての記事をどこかに帰属させてあげたいという親心です。見逃してください。
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2020年5月の記事一覧

シャンタル・アケルマン『オルメイヤーの阿房宮』その昔、東南アジアのどこかで...

圧倒的大傑作。東南アジア奥地の河畔にある小屋で暮らす白人男性オルメイヤー。"昔々どこかで"と場所も時代も明かされず、侮蔑的な意味での"マレーシア"という言及のみに留まるなど、絶妙な時代錯誤感が『地獄の黙示録』を思い起こさせるが、やはりどちらもジョセフ・コンラッドの作品を映画化しているという共通点がある。しかし、狂気の根源を心的世界の中に探し出す旅路を描いた『地獄の黙示録』とは異なり、どちらかと言えば時間が止まった空間における生と死の対立を扱っているように思える。その異様な空気

エリザ・ヒットマン『愛のように感じた』"大人"への憧れとその暴力性

砂浜で波を眺める少女。振り返ると、彼女の顔は日焼け止めで真っ白になっている。まるで仮面のように彼女の顔に貼り付いており、実際に仮面となって後に反復されるこの象徴的なシーンは、大人に憧れて駆け足で階段を登ろうとするライラの作り出した"顔"であり、同時に彼女を守る唯一の壁でもある。14歳のライラは夏の間、年上の親友キアラと常にべったりくっついているが、彼女の隣りには常に男がいて、ライラはそんなキアラに強い憧れを抱いている。キスをして抱き合って浜辺で遊ぶ二人を観察しながら、キアラと

ジョアン・セーザル・モンテイロ『ラスト・ダイビング』世界を肯定する圧巻のひまわり畑

人生ベスト。ジョアン・セーザル・モンテイロ長編六作目。あまりの素晴らしさにその場で二回観てしまった。タホ川の河口の港で、水面を2時間と12分眺めている青年サムエルに老人が近付く。青年は死のうとしていて、エロイという元水夫の老人はそれに続こうとしていたと言うが、"天国は待ってくれるさ"という後者の促しによって二人は最期の夜を酒を呑みながら過ごすことにする。ポルトガル映画界の巨星ジョアン・セザール・モンテイロの長編六本目は、こうして出会った"死に顔を向けた"二人の男が、三人の娼婦

オリヴィエ・アサイヤス『Disorder』虚無に堕ちた若者たち

アサイヤスマラソンの記念すべきスタートを飾るのは彼のデビュー作である本作品。楽器店に侵入した男女三人組が店主にバレたので殺してしまい、それを言えずに放置しておく罪悪感や気まずさから発生する虚無が周りの人間にも波及していき、人間関係が変質していく様を描いている。とは言ったものの、基本的には仲間内の惚れた腫れたの繰り返しで、秘密にしていた不倫関係が表面化してくるといった感じ。大きな間違いに対して誰からも責められないという地獄を味わう三人は、それぞれがバンドの主要メンバーでありなが

サタジット・レイ『音楽ホール』旧世代最期の輝きとその壮麗なる落日

大傑作。オプー三部作によって国際的名声を得たレイだったが、自国では全くヒットしなかったようで、ならば自国でヒットする映画を撮ろうと製作されたのが本作品。通算監督四作目。海外ではバカ受けしたらしいが、残念ながら本作品もそこまでヒットはしなかった。ここまでならば巨匠の失敗作ぽい流れなのだが、インドの古典音楽を初めて使った映画であり、オプー三部作で描かれた市井の人々の生活からかけ離れた地方地主の退廃した生活は、カルカッタの富裕層に生まれたレイの真骨頂とも言えるだろう。レイ大好きな友

ジョン・ジョスト『Last Chants for a Slow Dance』我々は目撃者か共犯者か

当時全米を賑わせたお騒がせ殺人犯ゲイリー・ギルモア事件を参考にジョストが撮った"イカれた青年が人を殺すまで"ものである。彼は死刑制度反対に傾いていたアメリカで積極的に死刑を望み、死刑にされる権利を勝ち取った殺人犯なのだ、本当にインスピレーションの発端だけっぽいのは内容からも明白。インディーズ系映画が90年代に漸く興味を示した殺人犯の物語(『ヘンリー ある連続殺人鬼の記録』『ありふれた事件」)や巧妙で印象的なサントラ(『レザボア・ドッグス』)などを15年近く先駆けてやっているく

ピエール・エテックス『大恋愛』可愛い秘書への恋と夢と妄想と

1969年製作の長編四作目にして、初カラー作品。テーマは"妄想"であり、男女様々な登場人物の様々な妄想が映像で語られていく。エテックス演じる主人公は勿論、彼の結婚生活があまりにも安定すぎるために不貞を疑う近所のオバチャンたちの噂話、新人秘書の女の子を口説く練習を手伝うエテックスの親友などの視点で妄想が広がっていき、実際にどこまでが現実でどこからが妄想なのかも分からなくなってくる。その点、矢継ぎ早にボケていた『ヨーヨー』に比べるとやや火力不足であるのは否めないが、平和と同値にあ

ナディーン・ラバキー『私たちはどこに行くの?』我らのレバノンどこへ行く?

息子たち夫たちの墓参りをする黒衣の女性たちの集団が、リズムに乗って同じ動きを始める冒頭から、本作品はコミカルかつファンタジックな作品であることは明示されている。しかし、映画はそれに甘えずフィクションとして許される最強かつ最狂の解決策を提示する。宗教/男女の対立と連帯はあまりにも単純化されすぎているが、それこそがラバキ流のファンタジー世界なのだ。戦争がようやく終結して平和が戻ってきた山間部の村で、些細な事件から男たちは何かに付けて宗教間の対立へ話を持っていき、女たちは団結して衝

マルコ・フェレーリ『デリンジャーは死んだ』赤い水玉のリボルバーと怠惰な革命行為

圧倒的大傑作。最初に言うべきは、全く以て意味不明な映画だと言うことだろう。製作されたのは1969年のイタリアで、ミシェル・ピコリ演じる主人公グラウコはその中産階級的な生活にうんざりしており、映画は彼の下らない日常が結晶化したようなある一夜を無言で観察し続ける。つまりは、前年に起きた五月革命に対するフェレーリなりの回答(ミシェル・ピコリはフランス人であるのも関連しているだろう)なんだと思う。だが、そんな政治的な意図を必至に汲み取ってフェレーリの思想を慮るための映画ではないことは