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行いと思考と書き言葉のバラバラ

ふと、大学のときに録っていた汚いミミズ走りのノートを見返す。
当時は何かを見つけようと必死だったんだなと思う。

分からないなりに何千文字も追っていく感覚は、朧の中にトリップしていくような、永遠と続く階段を降りていくような、不確かさが不確かさを生むストレスと、先がまだまだ続いていく高揚感が同時にあるような感覚だった。

思い返せば、日を経ることに、段々と授業には出なくなっていったような気がする。宛てのない苦しさを解明するための唯一の方法がどこか一点にあるという確信の下で、学部の課題はほったらかして、手当たり次第の物に触れていた。とにかく、俗物に囲まれた世界から抜け出したかった。仲間内の学内コンペとか、どうでもよかった。

当時は心の痛さとか、苛立ちとか、もっと瑞々しい感情が通っていたような気がする。全ての核心に触れたいという感触が確かにあった。

不明なままほったからかしのメモも大量にあった。本質を欠くメモも大量にあった。
ただ、分からないなりにも、全ての答えが1つに集約された点なるものは全く存在しないということだけは段々と理解するようになった。
1つの頂点を目指すほど、迷いこむほど、謎が謎をつくる。1つの核心が分裂して新しいものになる。参考文献が参考文献をつなぐ。注訳が注訳を注訳する。
情報に触れれば触れるほど、自身の中に、1つの核的な価値観ではなく、リゾーム的な世界観が自身の中に定着するようになった。
ただ、世界の大半は見せかけのパターナル(家父長)で出来ているのである。私に行き場はないことは明らかだった。


最近心の弾力を失い、どんどん鈍っているような気がする。
同じ場所で同じことをするという行為が窮屈で居心地が悪いという感覚が日に日に増すが、それすら単純にどうでもよくなっている。
自身が築いたつもりの世界観が生活に必要ないどうでもいいことなんだなという気づき。それが、渇望することや憔悴することを忘れさせている。文字も情報も見たくない。我は瀞の中だ。
こういう憂鬱さは多分乾布摩擦でもすれば治る。大体自律神経の乱れが原因。

まだ間に合うんだろうか?
点から点に飛び越えて行きたいという当てずっぽうな弾力を裏切らずにまだ応えてくれるだろうか?

諦めたという感覚すらどこかに行ってしまわないかという一歩手前の恐怖だけが微かに残っている


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