「リズと青い鳥」を見たこと

ユジク阿佐ヶ谷で「リズと青い鳥」を見てきた。

主人公の少女ふたりは吹奏楽部に所属していて、二人は仲良しだと自他ともに認識している。けれどその関係はどこか危ういバランスの上に成立しており、その拮抗が崩れる瞬間が劇中劇の童話になぞらえて表現されている。

岩井俊二監督作品のような演出が散りばめられ、「花とアリス」の影響を感じたけれど、一方の少女が水槽前でぼんやりしている場面あたりから、確かに京アニのフィルムだと実感できた。

劇中に登場する童話「リズと青い鳥」のリズが、ノアの箱舟でしかありえないような割合で動物に囲まれている場面がある。ディズニー映画の主人公のように、童話であることを見るものに知らせるうまい演出だ。それは同時に主人公の少女のうち、一方の実像でもある。明るい、どこか謙虚な人気者。リズは聖人のように描かれる。そのリズを慕う少女が訪れる。それは青い鳥の化身で、それもまた奇跡のような存在だ。出会いの瞬間から、あまりに唐突な遭遇の瞬間から、既に別れが始まっているような切ない予感に満ちている。

京都アニメーションの仕事はすごい。メタ的な場面が一切ない。
比喩のなんたるかを理解して完全に取り込んでいる。
もう文学すら忘れてしまった、その手法を。
偉大なことだと思う。

一方の少女が一方の少女を全身で好き、という状態をあらわすための演出が丁寧で何度か悲鳴をあげそうになった。確かにそういう「好き」の感覚の実在することを思い出してしまった。なかなか、この感覚を呼び戻してくれるものには昨今巡りあえない。

もうまさに純真な「好き」が体現されていて、打算なんぞまったくなくて剥き出しで、泣きたくなるほど綺麗だった。一方で、もうひとりの子は無防備に見えるのに、ところどころで、相手に対してはけして見せないのに、どこか強引な欲深さを見せてくれる。もうひとつ大人になりきれずにいるために相手をふりまわしてしまう、その未熟さがたまらない。

学生のときのことを思い出した。
学校は未開封の缶詰のようなもので、成長して一度でも学校外の世界を知ってしまったら二度と戻れない苛烈な閉鎖された環境だ。学生の間からそれを自覚している子と、そうでない子がいる。
自分は自覚している側だった。良くない意味で。一言であらわせば家庭環境が原因だ。

自分が大人になったらこんな世界は壊してやると何度思ったか知れないが、友達はけろっと生活している。異星人に囲まれて生きているような気がしていた。

少女なら売春しなければならなかったり、少年なら少年兵になって友達をその場で殺すよう命じられたり、まだ二歳か三歳の子が時限爆弾をくくりつけられてそれを知っていて恐怖に泣きながら歩かされて建物に兵器として送り込まれたり、といったことは、この国では、起きない。

けれど、自分には、大人に搾取されているという感覚がかなり幼い頃から身についていた。幼稚園でも小学生でもその感覚について友達に共感を求めても同調を得ることができなかった。中学にあがる頃には家庭内でどんなことがあっても沈黙しておく技術が身についた。

この友達には絶対に私の家のことは話さないようにしよう、好きだから。
中学生になってから、そう感じさせるほどに明るい友達ができた。当然、彼女に共感を求めようとは思わなかった。
いつでも一緒にいたかったし、もう食事をしている間も、帰宅してからも、帰宅した先の家の中で何が起きても、眠れる時も眠れない時もいつもいつもその子のことを考えてしまう。そんなことが確かにあったな、と思い出してしまって震えがきた。あれってすごく幸せな感覚だったんだなあ。

郷愁めいた気持ちを覚えるかと思ったらそうでもない。むしろ、こんなに美しい感じだったのに失ってしまった…という喪失感がある。フィルムと客席の間に必要なのはこの隔絶なので、その意味では完璧だと思った。
うっとりさせてくれてありがとうと思いながら劇場を出た。

その実感と喪失感をまた味わいたい、また繰り返し見たいとも思う、癖になる感じが確かにあった。今では私を悩ませる原因の家族は年老いて静かになり、私自身がいやな大人になってしまったので、主人公のふたりに同調できないのが惜しくてならない。この無念な未練たらしい余韻もまた味わい深い。とにかく美しいアニメーションだった。


読んでくれてありがとうございます。諸経費(主にイラスト等の依頼や取材や書籍)に活用させていただきます。「ゆりがたり」の収益は一部取材対象の作家様に還元しています。