4.夢の中で

 誰かが呼んでいる。
 女の子が呼んでいる。
 大人の女性が呼んでいる。
 誰かが自分を呼んでいる。

 正弘はむっくりと起き上がって頭を掻いた。
「夢か…」
 このところ、毎晩。
 女性に呼ばれる夢を見る。
 ある時は子供だったり。
 ある時は大人だったり。
 それが誰なのかよくわからない。
「夢ってどんな夢?」
 隣で眠っていたはずの彼女、美佐子が目を開けて聞いてくる。
「言うと怒るからいい」
「怒るような夢なの?」
「美佐は嫉妬深いからきっと怒る」
「失礼ね」
 美佐子は身を起こすとじっとこちらを見た。
 もう怒ってるんだよなあ、ともう一度頭を掻く。視線に耐えかね白状した。
「最近、毎日のように女に呼ばれる夢を見るんだよ」
 次の瞬間、ひゅっと風を切る音がして美佐子の右手が正弘の左頬に当たる。
「浮気者」
「ほら怒った」
 頬に掌が当たったままの彼女の右手首を捕まえた。
「どこの誰よ。その女は」
「知らない」
「知らないのに毎日見るわけ?あたしがいるのに?」
「まあ、夢だし」
「夢は潜在意識の現れよ」
「普通はそうなんですがねえ」
 声は窓の外から。
 ピタリと正弘と美佐子は動きを止め、2人同時に恐る恐る窓の方を向く。
 眼鏡をかけたスーツ姿の若い男がベランダに立っていた。
 涼しい顔でにこやかに笑って言う。
「朝早くから失礼します。怪しい者ではありません。ここ、開けてもらえますか?」

 怪しい人間が果たして『自分は怪しい者です』と言うだろうか。
 とりあえず、ちょっと待ってくれとカーテンを引いた。手早く着替えをすませ顔を見合わせる。
「どうする?」
「どうするって言われても…」
「あたしとしてはこのカーテンを開けたら消えてるってのが希望なんだけど」
 美佐子はそっと、カーテンの隙間からベランダを覗いた。
「着替え、すみましたか?」
 いた。
 カーテンを限界まで引っ張って彼女は振り返る。
「警察を呼んだほうがいいかも」
「ここ5階だぜ。どうやって上ったんだろう」
「知らないわよ、そんなこと」
「仕方ありませんねえ」
 カラカラとベランダに通じる窓の開く音。そして、カーテンも開かれる。
「お邪魔します」
 丁寧に一礼し黒の革靴を脱いで、その男は家の中に上がってきた。脱いだ靴をちゃんと並べる。
「ちょ……」
 ベランダの窓には鍵がかかっていたはずだ。何か言いかけた美佐子を制するように、男は名刺を取り出した。
「私はこういう者です」
 とりあえず受け取る。
『夢売買人 漠』
 真っ白な名刺にそうとだけ記されていた。
「はあ、これはご丁寧に…」
「感心してる場合?」
 油断なく、美佐子は漠と名乗った男を眺める。
「あの、帰ってください。警察呼びますよ」
「少しだけお話を。私は夢の売買を仕事にしています」
「夢の、売買?」
 怪訝な顔で聞き返すと漠は頷いた。
「お望みの夢をご提供する商売です」
「その方が、何の御用ですか?」
 眉根を寄せた美佐子が睨む。一歩も引かない彼女の気迫にも漠は淡々としたものだ。見習いたい。
「本題に入った方がよさそうですね。正弘さん」
「え、あ、はい」
 名乗った覚えもないのだが、とりあえず返事をする。
「あなたに夢を見せているのは私です」
 思わず眉根を寄せた。
「夢を、見せる?」
「そんなこと可能なんですか?」
「不可能では商売は成り立ちませんよ」
「じゃあ、あたしブラビに会う夢が見たいんですけど、それも売っていただけるんですか?」
 試すように美佐子は言う。
「できますよ。一千万ぐらい積んでいただければね」
「一千万!?」
「『地獄の沙汰も金次第』と言うでしょう、お嬢さん。『あなたの夢も金次第』、夢をどうこうしようというのですからそれ相応の代金を頂かないと」
 まあ、と漠は肩をすくめた。
「それ相応の理由でもあれば話は別ですけどね」
 眉唾の男の話を咀嚼して、首を捻って考える。
「つまり、あなたがオレにあの女性の夢を見せたってことですか?」
 漠は薄く微笑んだ。
「女性に心当たりはありますか?」
「いいえ」
 美佐子の視線を感じながら首を横に振る。
「全くありません」
「あの女性は、霧子さんとおっしゃる方です」
 ドクリと心臓が鳴った。予想に反して、聞き覚えのあるその名前。
「霧子……工藤霧子………霧ちゃん?」
「ええ。あなたの幼馴染の霧子さんですよ」
 向こう脛を思いっきり蹴っ飛ばされて小さく呻く。
 ちょっと涙目になりながら隣を見ると美佐子の白い目がこちらを向いていた。
「女の幼馴染がいたなんて聞いたことない」
「…でも、霧ちゃんは確か小1か小2の頃に引っ越して、それ以来会ってないよ」
「じゃあ何でその人が?」
 美佐子は視線を漠に戻す。
「どうしてそんな人が、この人の夢に出てくるんですか?」
「それはですね」
 漠の目が少し笑みを含む。
「二人が愛し合ってるからですよ」

「悪ふざけが過ぎるぞ、あんた」
 右手で押さえる正弘の頬にはできたばかりの青痣がある。
 美佐子が怒って殴ったのだ。グーで。
 殴った彼女はそっぽを向いて、それでも話の行方が気になるのか少し離れた椅子の上からこちらの様子を伺っている。
「仲がよろしいんですねえ」
 真顔で言われて思わずため息がもれた。
「オレたちが…その、愛し合ってるって、霧ちゃんが言ったのか?」
「おや?違うんですか?」
 後ろから突き刺さる視線を感じながら頭を掻く。
「違うよ」
「まあ、正弘さんは23歳ですからねえ」
「年齢は関係ないだろ。何が言いたい」
 漠は意味ありげにこちらを見る。勘弁して欲しかった。後ろからの視線に射抜かれそうだ。
「確かに夢に出てくるなんて霧ちゃんらしいと言えばらしいけど…」
 幼馴染の工藤霧子は大人しい女の子だった。いつも控えめでクラスメートにからかわれては泣いていたのを覚えている。
 しかし、彼女に関する記憶は小学校低学年の頃、大きなランドセルを背負っていた頃で止まっている。同い年なので彼女も23歳になるはずなのだが。
 彼女の中の自分だって小学生のまま止まっているだろう。そんな彼女が、何故?
「全く、情けない」
 黙り込んだことに業を煮やした美佐子が立ち上がり、ツカツカと漠に詰め寄った。彼女はいつも押しの弱い自分のフォローにまわってくれる。
「この人と、その女が愛してるですって?こっちはそんな心当たりないの。思い込み女の言うこと聞いてこの人に女の夢を見せてるだなんて、どういう了見なんですか?」
「夢は本来、個人の意思が最も反映される理想郷。いくら私でも本人の意に添わない夢は見せられず、理想郷を無理に壊すこともできません」
「じゃあ、何?この人がその女の夢を望んでるって言うの?」
「まあ、何よりこちらも商売でして。代金をいただければ契約は成立するんです」
 涼しい顔で夢売買人の男は答える。
「今回お伺いした理由もそれです。代金分の夢はもうすぐ終わります。よって、正弘さん、あなたはもう夢を見れなくなります」
「……ということはつまり」
 美佐子はこちらを向いて笑みを見せる。
「もうその女が夢に出てくることはないってことね。よかったじゃない」
「いいんですか?」
「いいも、悪いも………」
 カリカリと頭を掻く。
「なあ、どうして霧ちゃんは大金払ってまでオレの夢の中に現れたんだ?あんたならその理由を知ってるんだろ」
 漠は口の端を上げた。
「霧子さんがあなたを呼んでいるのは、あなたに会いたいからですよ」
 会いたいと、言われても。
「何で?」
「それ以上はこちらからは言えません。残念ながらね」
 少し考え、尋ねる。
「……会えるのか?その、夢の中で」
「ちょっと!」
 美佐子がぐいっと肩を掴み彼女の方を向かされた。
「何でそんな女に会いたいのよ」
「いや、だって…」
「はっきりしなさいよ、情けない」
「だって…」
 彼女は夢の中で自分を呼んでいた。毎日毎日、何度も。幼馴染でしかない自分を。
 頭の隅をよぎるのはランドセルを背負った大人しい少女の姿。
「だって、霧ちゃんはオレの夢にまで現れて、ずっと毎日オレの事を呼んでるんだ。何か、あったんだと思う」
「…それは、そうかもしれないけど……」
 視線を外して美佐子は言葉を濁す。
「だったら一度、会ってみてもいいと思う。夢の中で会うくらいなら、いいだろ」
 肩を握っていた手から力が抜けた。
「…そうだね」
 言って美佐子はぎこちない笑みを浮かべる。
「気になるよね」
 胸が少し痛くなる。
 本質的に彼女は、美佐子は最終的にいつも自分を立ててくれる。気が強いから普段は隠れて見えないけれど。情けない男だと笑いながらも、いつもこちらがきちんと決めたことには頷いてくれる。
「ごめん」
「いいよ」
 今度の笑みは柔らかかった。
「では」
 話が終わったとみたのか、漠はベッドの方に視線を送る。
「あちらに横たわって、楽にして下さい」
「あの」
 美佐子が一歩前に出た。
「夢の中から帰ってこないなんてことは、ないですよね」
 思わず息を飲んで彼女を見る。
「そんなわけ、ないだろ」
「だって不安なんだもん。その人、幼馴染なんでしょ」
 気の強い美佐子の瞳が不安に揺れていた。そこまでの反応が返ってくるとは思わなかったので少し嬉しく少し辛い。ポンポンと彼女の頭を撫でる。
「気になるから少し会ってくるだけだって。何があろうと絶対に、美佐の所に帰ってくるから」
「夢は所詮、夢ですよ」
 呟くように漠が言う。
「正弘さんは夢に捕らわれることはありません。待っている人がいる限り」
 美佐子はこくんと頷いた。

「では、気持ちを落ち着けて、楽にしてください」
 ベッドに横たわり、声に頷いた。
「約束、だから」
「うん」
 彼女に笑いかけてから目を閉じる。
「それでは、霧子さんの所までご案内します」
 応えるように笑みを浮かべた美佐子の姿が瞼の裏に残って消えた。

 目を開けると白い天井が見えた。薬品の匂いが鼻をつく。ここは、どこだ?
「正弘……?」
 かすれた声に視線を動かすと40歳ぐらいの女性が呆然とこちらを見ていた。
「霧子…?」
 パチパチと何度か瞬きをする。体が酷くだるい。
「ここどこ……?」
 みるみるうちに霧子の目に涙があふれ、ポロポロと転がり落ちる。
「お母さん?」
 視線をめぐらせると5,6歳の女の子が霧子を心配そうに見上げていた。霞がかった記憶にあるよりも少し大きくなったその姿は小さい頃の霧子に瓜二つだ。
「お父さんが起きてくれたのよ、香苗」
 女の子、娘の香苗はじっとこちらを見てからにっこりと笑った。
「お医者さまも原因不明っておっしゃるし、半年も目を覚まさないからどうしようかと思った」
「半年…?」
 そんなに眠っていたのか、と呆然となる。
 気づいたように立ち上がり、お医者さまを呼んでくると霧子は病室を出て行った。
「ねえ、お父さん、カナの声聞こえた?お医者さんが『呼んだら起きるかもしれないよ』っていったから、お母さんといっしょに呼んでたの」
 無邪気に笑う香苗の頭をゆっくりと撫でた。
「聞こえてたよ」
 夢の中で。
 夢…長い夢を見ていた気がする。目覚めた後の常で、その内容までは思い出せないけれど。
 正弘は天井に視線を戻す。白いと思ったそこは少し薄汚れていた。
「何か……」
 大切なことを忘れてしまった気がする。
 不安そうな笑みを浮かべる若い女性。そんな姿が浮かんで消える。あれは、誰だったろうか。
 ノックの音がしてドアが開く。霧子の声がして正弘は視線をそちらに向けた。

「ここも、もう崩れますね」
 輪郭が曖昧になってきた部屋の中で漠は上を見上げた。
「崩れるって、どういうこと」
 不安げに美佐子は辺りを見回す。そして突然雷に打たれたかのように身を震わせた。
「あ……」
 ガタガタと震える体を宥めるように両腕で自らの身を抱きしめる。
「あたしは…」
「そうですよ、美佐子さん。あなたにはその自覚はなかったようですが、あなたはこの夢の世界の住人です。正弘さんの夢の、ね」
 ふるふると美佐子は首を横に振った。
「そんなこと…」
「正弘さんの本当の年齢は40歳。幼馴染の霧子さんと25歳の時に再会しその後結婚。6歳になる娘さんが1人います」
 ペタンと美佐子は座り込んだ。アパートの床が色を失う。
「私は正弘さんに夢をお売りしました。あの方は繰り返される平凡な日常が嫌だと、自分の最もよかった23歳の頃に戻った夢を見たいとおっしゃいました」
 ギュッと美佐子は自分の体を抱く力を強める。床はもうない。壁ももうない。家具ももうない。あるのは白くて暗い空間だけ。
「あなたは正弘さんの作り出した理想の女性なんですよ。気が強くて少し嫉妬深いけれど根は優しい。そんな人と出会い暮らしていたら…一言で言うと正弘さんが見たのはそんな夢です」
 美佐子は顔を上げた。その体が透けていく。
「頂いた金額は少ないですが、あの方の気持ちを考慮して夢をお売りしました。今日の分の夢で契約は終わりです。しかし正弘さんはここが夢だということを忘れてしまっていた。ここはあの方の世界。それを壊す異分子は排除される。自覚のない人間に自発的な目覚めを促すのは骨が折れます」
「ねえ……あたしは、何?」
 漠は薄れゆく彼女を見た。
「何だったの?彼にとってのあたしは。あたしはあの人のことがこんなに好きなのに。それはあの人がそう願ったからだって言うの?じゃあ、何?あたしは何なの?あたしは誰?」
「ここは正弘さんの夢の世界。あなたは正弘さんの夢の中の住人。そして、正弘さんは夢に捕らわれることはない」
 美佐子は漠を睨みつけた。その双眸からじわりと涙があふれる。
「待っている人が、いる限り?」
「ええ」
 ゆっくりと美佐子は目を閉じた。零れ落ちた涙も消えていく。
「…嘘つきだわ」
 目を開いた彼女は笑った。
「約束したのに。あの人は本当に、情けない人ね」
 立ち上がり美佐子は漠を見た。漠も美佐子を見る。
「あなたが永遠に来なければよかったのに」
 微笑んだ彼女の輪郭が揺れ、曖昧になり、やがて白い闇の中に溶けて消えた。
 漠は靴を履き、ポケットから取り出した手帳に首尾を書き込んだ。
「そういうわけにはいきませんよ。こっちも商売ですからね」

 残ったのは白くて暗い闇の世界。
 パタン、と手帳を閉じる音が辺りに響く。
 正弘の長い夢は終わりを迎えた。


『feelingⅡ』参加作品

2005/10/22サイト再録

#小説

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