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瞬間的エッセイ5

時折、昔にひたすら読んだ本に再び会うことがある。
その瞬間はとても何気ない。
乾燥が酷いときに紙で指を切ったときのように痛痒い。
再会したその本の節々に残した走り書きに出会うたびに沸き立つ高揚感は、まさしく陶酔の如し…、なーんて言ってみるけれど結局、そこに刻まれていたのは、もはや今の私が知覚でき得ない、それでも私であるという単なる私の残像。

最終ページに書き込みがあった。
眠い、という文字とその右上に小さく100とある。そのしたに単体で眠いという文字がいくつか連なっている。
『眠い』を百乗したあとにまたソリストが『眠い』を組みなおしたらしい。
当時住んでいた狭い部屋の生乾きの匂いとともに思いおこされる生々しい浅はかい私の姿が、ある。
だけど、この走り書きをした瞬間の記憶が全く無い。
その時の私は私だったのであろうか?
旋律をどのように配置していくなんて、その頃は分からなかった。根津の豆腐屋さんが下町グルメの玄人店だということと、その近所にあり、16時で閉店する定食やさんの階段がとても急すぎてどうやらそこの店主は来るものを拒んでるかのようだ、という学生のからかいを耳にし笑っていたことくらいしか目新しい刺激は無かった。

上野の丘の上にある某大学に通い始めたての、とある1限授業のときだった。

2つ席の離れたとある学友がこの本を貸してくれた。後に共有し語りあったこの愛書はいまだに私と共にいるけれど、その物質と共にいた過ぎ去った時間はもはや私とは違う何かになっていることに気がついたときに、その過去は悲しみではなく美しい過去となった。
彼は今、どうしているのだろうか。

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