君の置いていった木ベラは捨てた
僕にはどうやら、能力がなかった。
先ほど、30分かけて剥いたりんごの皮が
シンクに落ちているのを見つめながら、思った。
りんごの皮は厚く剥かれ、食べる部分はほとんどない。
昨日夕飯に作ったパスタも、麺は硬かったし、味もあまりしなかった。
そういえば、1週間前に作った炒飯でさえ、
レシピを見たのに変な味したっけか。
まさかここまで自分が、料理の能力に欠けているとは思わなかった。
実家にいる時は、母が作ってくれていたし、一人暮らしになってすぐに彼女と同棲したから、自分であまり作ったことはなかった。
彼女と別れてからは、しばらく死んだように過ごし、カップラーメンを啜る毎日だったが、
しばらくして、こりゃダメだ、節約のためにも自炊しなければ、とやり始めたのだ。
…が、この有り様である。
ほとんど食べるところのないりんごをキッチンでかじりながら、彼女がよく作ってくれたグラタンを思い出した。
あれ、すごく美味しかったんだよな。
マカロニが柔らかくて、ホワイトソースがなめらかに溶けて、粉チーズが心地よくて。
今日の夕飯はグラタンにしようか。
じゃあ、スーパーに買い出しに行かなければいけない。
しばらく死んだように生きてたから、スーパーに行くのも久しぶりだ。
Sは財布と携帯と、買うものリストを握りしめて家を出た。
________________________________________
玄関に向かう途中のキッチンで、
彼女が雑貨屋で買った木ベラが目に入った。
彼女はあれでよく、グラタンを作ってくれた。
Sは、その木ベラをゴミ箱に捨てた。
買った頃は綺麗な木目が見えていたのに、今では古びて先がボサボサになっていた。
買うものリストに、新たに木ベラを追加して、
Sは、新しい日々を思った。
(fiction)
_______________________________________
記事「オパール」より
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?