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ヴァイブス(夜をゆるやかに歩け) (cero『Obscure Ride』評)




生と死の間に横たわる夜。
そんな形容しがたい世界のBGMを、ceroは鳴らし続けている、境界の上で絶妙なステップを踏みながら。
同じ年にリリースされたKOHHの『DIRT』が「まだ死ねない」「明日なんていらない」と、激しく生と死の二項対立を往還していたのに対し、ceroは非常にゆるやかである。
しかし、そうあるためにcero、高城は鋭敏な感覚を持つことを忘れない。悲劇的な死の予感が迫り、果てしなく疲弊するための「努力」を課さなければ生きさせないこの現在に対して。
歌詞に散見される「別の世界」「巨大な影」はソーシャルネットワークへの暗喩としての一面もあるのだろう。が、もちろんそれが主たるものではない。今この世界において、この国において、奇跡のように死者の声を、別の世界の声を聞き取ろうと高城は試みている。聞こえるはずのない声を聞き取ることの意味を、ギリギリのラインで汲み取ろうとしている。
ただ、それはシャーマニズム的な厳粛な媒介としてではなく、むしろ子どものひとり遊びめいた喜び、ささやかな背徳として現れている。
子どもという曖昧で多感な時期を、高城は重要なモチーフにしている。回想的な「Orphans」では「2人は姉弟だったのかもね」とありえたかもしれない「別の世界」を歌い、「DRIFTIN'」で街を見下ろす「誰かの影」の正体に気づくのは「子どもたち」である。
「大人」たちは信じようとしない。子どもである自分たちの体験を。曖昧な言葉にできない情動を。「Yellow Magus」のような、忘れさられた航海の物語を。あったかもしれない世界の話を。自分たちには、「大人」たちの言うことこそ嘘のように聞こえる。そして無限に無が訪れるという死への畏れに震えて眠れない夜。
ceroは、高城はそんな感覚を忘れない。あくまで自分は「大人」たちの一部であることを認識しながら。「現実」に立ちながら、見つめ続ける。
高城は世界で一番楽しそうに、ステージで歌い続ける。日が暮れても帰らない子どものように。「遊ぼう 夜を越えて」と歌う。違う世界で、忘れられた世界で、見えないものを見つめながら、聞こえないものを聞き取りながら、Obscure = 曖昧な旅は続く。

(cero『Obscure Ride』2015年5月27日発売 2685円+税)

#cero #ObscureRide #レビュー #高城晶平

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