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数寄者が住んだ四君子苑

先日、京都の出町柳にある北村謹次郎の自邸、四君子苑(しくんしえん)の春の特別公開へ行ってきました。

家業の林業を営むかたわら北村氏は、幼少期から茶に親しみ、美術収集に励んだ近代の数寄者でした。数寄者とは、茶の湯を趣味とする人のことです。

北村氏の全身全霊が注がれた美意識がこの四君子苑には詰め込まれています。令和2年には、全ての建築物が国の登録有形文化財となりました。

建築は、京数寄屋の名工・北村捨次郎が手がけました。昭和19年に完成したものの程なく、進駐軍によって母屋が接収、改造されてしまう悲劇にみまわれました。のちに、サンフランシスコ講和条約締結後に返還されましたが、無残な姿になっていたそうです。親交のあった新興数寄屋の先駆者・吉田五十八が母屋の建て替えを請け負い、庭は鬼才といわれた作庭家・佐野越州より改修され、今の佇まいとなったのです。

内玄関から南側は、昭和19年に完成したままの状態で残っており、小間の「珍散蓮」(ちんちりれん)、広間の「看大」(かんだい)と名付けられた部屋があります。たびたび、人を招いては茶を楽しみました。「看大」では夏の風物詩、大文字を正面から望むこともでき、毎年8月16日の送り火にあわせて茶会を開いたそうです。

母屋は、北村夫婦の生活スペースでありました。鉄筋コンクリート造り平屋です。庭の眺めに重きをおいた空間は、天井が高く、柱をなくすなど、目線を遮るものが少なく設計され、外と内が一体化したように感じます。また、アルミサッシやアクリルパネルなど、当時では珍しく、新しい建築素材を試みています。和室には、回転する柱の仕掛けがあり、全ての襖を納められるようになっています。タイミングが合えばこのデモンストレーションが見られます。

庭には、花の好きな北村氏のために、春は紅枝垂、夏は槿に蓮、秋は芒に萩、冬は紅白梅に椿を植えたそうです。また、重要文化財3点を含めた約60点の石造美術品があります。敗戦後、名邸や名園が売りに出されたことにより、夢のような名品が集まったのです。当時の持ち主は、お金が必要だったため泣く泣く手放し、海外の収集家にも買われていったそうです。重要文化財3点のうち1点は1237年という日本最古の紀年銘が入っている六角形石燈籠、ほか2点は鎌倉時代の中期の作品、宝篋印塔「鶴の塔」と八角形石燈籠です。

四君子苑の名は、菊の高貴、竹の剛直、梅の清冽、蘭の芳香を四君子と讃える中国の風習から由来しています。菊竹梅蘭の頭文字をつなげると「きたむら」となり、その品位風格にあやかることを願って、自身で名付けられました。(梅=むめと読む)

四君子苑は、春と秋に1週間ほど公開されます。京都の数寄屋建築、モダニズム建築、庭園、美術品のそれぞれの巨匠がつくり上げたものが掛け合わされたこの空間はきれいに調和され、何度でも見たいと思わせてくれます。毎回、庭の表情も違い、できれば夏と冬も見て季節の移ろいを感じてみたいです。

私は今回で3度連続の訪れとなりました。以前は写真撮影ができたそうですが、今は禁止されています。この日は学生も多く来られていてスケッチをされていました。なかには、北海道から来た学生までもいました。記憶を写真に収めることに慣れてしまった今では、珍しい風景でもあり、新鮮でした。

茶を楽しむ生活は、洗練された人なのだと思います。この建築は、これから先も人々を魅了し、感動を与えてくれると思います。

余談ですが、土産には名菓子屋「出町ふたば」の名代豆餅をぜひ。(並ぶのであしからず)四君子苑から5分くらいの位置にあります。そして、鴨川の土手に座り、川の流れる音を聴きながら食べる豆餅は最高です。


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