その男の名は、 ―ショートショート―

お久しぶりです、空音です。
心新たに活動開始ということで、ショートショートです。

 ジョーの名前は西山祐介というのだけれど、彼は小三の体育の授業で跳び箱をするとき、先生に「もしかしたら祐介くんは六段でも跳べるかもね」と言われたので、「え、僕って六段跳べるの? というか、跳んで当然なの? 失敗は許されないの? 絶対に跳ばなきゃいけないの?」と考えてしまい、それだというのに「わかりましたっ! 跳ばせてください!」と汗だくになりながら言ってしまった。もちろん彼はこれっぽっちも跳べるなんて信じてなかったし、できることなら「いやいや、実際に跳ばなくったっていいよ」という先生の返答を待っていたのだけれど、あまりに彼の「跳ばせてください!」が必死そうに聞こえたのか、先生は「……そ、そうだね、うん、じゃあ一回だけやってみよっか」と承諾したのだ。「なんてこったなんてこった!」彼の頭の中ではウンウンとサイレンが鳴り響き、今にも泣き出しそうだった。そうしている間も、徐々に積み上げられる跳び箱は、まるで東京タワーのようにそびえていて、「こんなの跳べるのは足にバネがついたバネ男くらいのものだよ!」と叫びたかった。やがて完成する六段。彼を除く他の生徒は体育座りで彼を見ていた。先生も「じゃあ、やってみて」と言う。壁で隔たった世界に立っているようだった。だれも助けてくれない。期待に満ちた目で彼を見ている。失敗は許されない。だというのに六段は相変わらず六段だった。ドクドクドクドク心臓が高鳴って、いやな汗が背中を伝って、足は震えて、目の前は真っ暗で、

 だから彼は、「ジョー」と、おしっこを漏らした。

 あまりの勢いの良さに、それをおしっこと思う者なんてひとりもいなかった。もしかすると彼のやる気が満ちあふれているのかな、くらいの感想をみんなは抱いていたのだけれど、おしっこを張り切って噴射する彼が「うがああああ!!」と顔を抱えてうずくまってから「おしっこだ!」とみんな一斉に言った。

 それ以来、彼の名前はジョーとなった。

 どこにでもいるはずの、見た目も性格も国籍も、それどころか本名すらも日本人である彼がジョーとなったのはこんないきさつがあったからだった。

 それから月日は流れてジョーは20歳になったけれども、相変わらず「ジョー」だった。彼の身の回りではもはや彼の放尿シーンを目撃した者は存在しなかったけれど、共通の友人などのせいもあり、彼が「ジョー」と呼ばれていることは波状的に知られている。中には彼の名前の由来すらしらず、どころか本名がジョーなのだと勘違いしている者すらいる。九歳のころの失態は、今も彼にとりついて離れない。

「ジョー、これコピーしといてくれ」

 ジョーもまた、自分がジョーであることには何も感じなくなっていた。違和感なくジョーとして溶け込んでいる彼は、どこにでもいるようなサラリーマンになっている。高校卒業と共に就職し、いまや社会人三年目となったジョー。緊張のあまり放尿してしまうといった心の病に陥ることもなく、はたまたおしっこをすることに恐怖を感じたりということもない、一介のモブキャラへと成り下がってしまっている。

 おそらくはこれから、どこかの女性と結婚し、子どもを作り、出世し、孫が生まれ、老後はのんびりした日々を過ごし、やがて彼をジョーと呼ぶ者は誰一人いなくなるのだろう。そんなことを、至極当然のこととして考えていた。

 だからまさか、自分の身にあんなことが降りかかろうとは、彼は考えもしなかった。

 その日の晩に、幽霊を見た。

 ジョーはジョーだけれど「ジョー」とするには流石に大人だ。20歳である彼だから、どれだけ怖かろうと放尿するには至らない。しかしながら全身の毛穴から何かが飛び出しそうなほどには驚いたし、「んぎゃ!」なんて哀れにも声を上げてしまった。頭の中では実にヘンテコな星が飛び回るくらいにはパニクっていた。何しろ生まれてこの方20年、一度として超常現象の類には遭遇しなかったジョーである。こっくりさんもスプーン曲げも仕組みは理解していたし、怪談もすべて嘘だと信じていたが、しかしこうして幽霊を目の当たりにしてしまっては、そういうあれこれを信じずにはいられなかった。

 ジョーは、ひとだまを見た。

 住宅街にポォっと火があるということは、それは間違いなくひとだまだ。そんなことはジョーでもわかっている。だが、こんなときにどうすればよいのかジョーにはわからなかった。

 もしかするとこのまま自分は取って食われるのではなかろうか。二十歳という年齢で死んでしまうことには随分と悔やまれるが、もし死ぬのであれば安らかに殺して欲しい。ひとだまが物理的にあれこれできるわけがないだろうから、きっと風船の空気が抜けるように死ぬのだろうけど、しかし自分に乗り移って、ビルから身を投げたりしたらどうしよう――などと考えながら、「げっ」という声を聞き、次いで、ぱち、ぱち、という音を聞いて、終いにはどこかへ駆け去る音を聞いて、そこでジョーは気がついた。

 よもや、ひとだまはひとだまではないのではなかろうか。

 見ればひとだまはぱちぱちと音を立てながらしだいに大きくなりつつある。ここは異なる力が宿りし場所なのだろうか――などと考えるまでもなく、これは間違いなく「放火」であった。

 火は一軒家の庭に新聞紙と共に燃えており、今にも家に燃え移らんとしていた。どうも家は留守のようで、ジョーの他には誰もいない。今も火は大きくなる。

 そしてジョーは、ズボンを脱いだ。

 自分の息子を火へと向け、息子を支えるのとはもう一方の手でスマホを操作すると「火事です!火事ですから!」と叫んだ。自分がいる場所を伝えるとスマホを放り投げる。今はそれどころではないのだ。

「みんなああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 まわりの家に聞こえるようにと、彼は叫ぶ。するといくつかの家のカーテンが開き、下半身が剥き出しのジョーに悲鳴を上げる者もいた。しかし彼の前で燃えている火を見ると、異常を察したようである。

「みんなもおしっこをかけろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」

 そしてジョーは、おしっこを張り切って噴射した。


 やがて火が消えると、騒ぎを聞きつけたマスコミがとある男を取材し始めた。男は放火を見つけると、すぐさま自分のおしっこをかけ、消火しようとしたようである。とっさの行動ではあったが、驚くほどのおしっこの量であり、ほとんどそのおしっこによって火が消えたといっても過言ではなかった。やがて彼に追随するように近所の男がだめ押しのおしっこを浴びせ、消防車が来る頃には火はあとかたもなく消え去っていた。その後、放火犯は自首したという。

 あるインタビュアーは

「もしよろしければ、あなたのお名前をお伺いしたいのですが……」

 と尋ねた。

 するとマイクを向けられているかの男は照れくさそうに頭を掻くと、

「ジョーです」

 と答えた。


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