2019年学期末1万字

異質なワタシが地域をつくる
長谷部研究会2期目
熊谷明奈

1.CDPに入った理由
*幼少期*
 私は神奈川県川崎市の中野島で、3人兄妹の2番目で唯一の女の子として生まれた。保育士だったお母さんは幼い頃から、自然と触れ合う楽しさを沢山私に教えてくれた。私の家の近くには、多摩川や公園があり、小学校に入る前はよく母に連れられ、ある時は餌を持ってザリガニをとりに行ったり、またある時はカマキリの卵をとってきたりした。田んぼでおたまじゃくしを捕まえて水槽に入れ、カエルになるまでの成長をお母さんとお風呂で観察したり、セミの幼虫を捕まえてきて、家のカーテンでずっと育てていることもあった。カエルに足が生えたときは、「うおお!生えてる!」と盛り上がり、セミが羽化する時はみんなで「頑張れ!」って言いながら見守っていた。そんな自然や昆虫が身近にいた日常だったおかげで、夏休みは毎年のように私と弟で大きい箱を持って、大量にセミの抜け殻をコレクションしていた。また、私の父方の親戚が福岡の山奥にあり、一度おじちゃんの軽トラの後ろに乗って、竹やぶに行ったことがある。四方八方竹に囲まれていて、竹の世界にきたみたいだった。そこでまだ幼い手でノコギリを握りしめ、人生初の竹を切った。知らないことをやる時のワクワク感と知らない世界に来たワクワク感がたまらなく気持ちよかった。幼い頃から、生き物や自然に触れ、自然や命の成長を目の当たりにしながら生きてきた。そしてそれらは自分の近くに沢山存在しているということを知った。

 私の兄は小学生に入ると、地元のサッカーチームに入った。同時に父もコーチとして入った。その影響で土日は毎回のように練習や試合を家族みんなで行った。寒い日にお母さんたちがジャグからお湯を注意で作ってくれるインスタントのお味噌汁が私は大好きだった。兄の試合に目もくれず、同世代の友達と一緒に遊んだり、私より幼い子たちの面倒を見ていた。「みんながいるあの場所」が私にとって当たり前で、沢山のお兄ちゃんたち、お母さんお父さんたちに囲まれて育った。また平日は、保育園の同世代のお母さんたちが子どもを連れて、地元にある福祉施設や公民館の場所を借りて、月一程の頻度で集まってお話したり、イベントをしていた。私もよく母に連れられ、友達と一緒にお菓子を食べて走り回ったりしていた。「みんながいるあの場所」に行くのが私はいつもいつも楽しみだった。「みんな」がいる空間当たり前だったし、好きだった。そしてたくさんの人の温かさに囲まれて育ってきた。人と関わるのが好きなのはこの時からきているのかもしれない。

*小学校*
 地元の小学校に入ると、兄の背中を見て私もサッカーを始めた。近くに女子チームもあったが、私は保育園時代からずっとその場所にいたので、当たり前にようにこのチームを選んだ。当時は学年でもチームでも女子ひとりだった。試合でどこに行っても大人からは「女の子なのにサッカーやってるってすごいね」、相手チームからは「女なのにサッカーやってる」と言われきた。年々増していく「女」という悔しさの中で、でもどこか「自分は女で特別なんだ」という勘違いが徐々に生まれていった。

 私は放課後になると母がいる学童に通っていた。そこで母がやる工作タイムが好きだった。クリスマスになれば松ぼっくりに絵の具を塗りビーズを乗せてクリスマスツリーを作ったり、飛び出てくるポストカードのようなものを作ったりした。その影響もあり、学校の授業で一番好きな科目は図工だった。色紙を使って自分オリジナルの帽子を作ったり、花火を描いた版画を作ったりして、よくお昼の構内テレビ放送で表彰された。色紙と筆を持つとワクワクがこみ上げてくる自分がいた。小学校6年生の頃にはで手芸(工作)クラブまで作った(笑)。
心というより頭にある情景やイメージを形にすることが好きで、「つくる」ことに無我夢中だった。

*中学校*
 小学校からそれなりに勉強ができ成績もAが多かった私は地元の中学校に上がると、「頭いい女子サッカーの人」のようなポジションで、3年間クラス委員を任せられた。この時から完全に私は「自分は肩書きを持っているから強い」と思っていた。そんな学校生活とは裏腹に、全国5連覇するほどの名門女子クラブチームに通っていた私は周りのレベルの高さに圧倒された。小学校から当たり前のようについて回った「女の子なのにサッカーが上手い」は一切通用しなかったし、高校生もいて年上が多くいる中で自分の個性は一切発揮できなかった。学校では「文武両道で友達も多い私」で、クラブチームでは「自分に自信がなくて弱気な私」で2つの顔を持っていた。どっちが本当の自分がわからなかった。
 クラブチームがない日は、一人ボールを持ち近くの公園に行った。そこには大抵いつも家のお隣さんである幼稚園児のあーちゃんがいて、そのお友達6人くらいがいた。私はあーちゃん以外はみんな知り合いではなかったけど、一緒に遊んだ。遊んだと行っても私のボールをみんなが取りにきて、私がドリブルしながら逃げるっていうだけだが。毎週のように遊んでいたら、いつの間にかお母さんの間でもよく顔を覚えてもらい、帰る時には「いつもありがとうね」と声をかけられるようになった。中学校とクラブチームの2面生活で自分がわからなくなっていたが、子どもたちと遊んでいるとそんなことも忘れ、心から笑って楽しむことが出来た。

*高校*
 私の進学した高校は、高校女子サッカー界の中でも偏差値が高くてサッカーのレベルも高いと有名な所だ。私の強みであった文武両道を実践している人が沢山集まってきた。私はその中でも「文武両道を極めているすごい人、できる人」になりたくて毎日頑張っていた。クラスを一つ下げてまで、学年で1位、2位を取りにいった。「肩書きを得るために」全部を頑張っていた。

*大学*
 いつの間にか私は肩書きを得るために頑張る人間になっていた。気付いたらサッカーしか残ってなかった。「あれ、私がワクワクすることってなんだろう?」「私が好きなものはなんだろう?」それから私のワクワク探し冒険ライフは始まった。国際協力分野に行ってみたり、バックパッカーしてみたり、ヒッチハイクしてみたり、地域活性化のイベントに参加してみたり、青い鳥のように「幸せになれそうなもの」を追い求めていた。そんな中で体育会で知り合った長谷川倫太郎を通じて口永良部島という離島の研究会の存在を知り、ここなら「幸せになれそうなもの」がある気がするといつものように期待を寄せて長谷部研究会の門を叩いた。けど、聴講する直前にたまたまHPでCDPを見つけ、そこで竹をきっている写真を見て、私は一瞬で心が奪われた。久しぶりにドキドキとワクワクを、胸の高鳴りを感じた。HP見る前まではサブゼミはえらぶPに行こうと思っていたのに、直感で「ここがいい!CDPにしよう!」と決めた。そこには「幸せになれそうなもの」がある気がする、という今までと同じ思いは一切なくて、昔の「子ども心」が呼び起こされたんだと思う。気づけば小学校からずっとサッカーをやり、それを武器にとして生きてきたゆえにいつしか肩書きを求めるような人生になっていて、自分の子ども心に蓋をしていた。でもその中には幼少時代のワクワクしていた確かな思い出が沢山詰まっていて、あの頃のワクワクをもう一度味わいたいと思った。

これがCDPに入った最初の動機であり、最大の動機である。

 もう一つの動機がある。愛媛県の今治で行われるスポーツを通じた地域活性化のイベントに参加した際に、初めて今治FCというJリーグチームの存在を知った。まだ小さいチームにも関わらず、地域とともに作っていくというようなビジョンがある今治FCのその試合には、家族連れが沢山きたり、ファンが広報をやったり、まちの中心にスクリーンを設置してみんなでユニフォーム着てパブリックビューイングしていたり、今治FCが今治地域の人たちを集め、そして今治地域を作っている光景がそこにはあった。衝撃的だった。今まで自分がサッカーだけをやっていればいいと思っていた。でも今治FCは、サッカーを通して、地域のこどもたちに夢を与え、元気を与える、そしてサッカーから地域を一緒に作っていっている。私のいるソッカー部は日吉地域と全くといっていいほど関係がなく、むしろクレームがきてしまうほどの関係で、まさに真反対だった。私も今治FCのような地域との関係をこのチームでも作りたいと思った。最初は後付けだったものの、そうしたいという気持ちは強くあったし、この女子ソッカー部というチームを好きになればなるほど、その想いは強くなっていった。


2.大学生として地域の一員になる
*遠藤*
 1期目は、遠藤地域のいろんな場所やいろんな人の存在を知った。研究会の合格を受けてすぐ、味噌づくりに誘われた。通学の道である一本の道を、自転車でしか通ったことがなかった私は、いつもは曲がらない所を曲がり、奥に行き、歩いて冨田耕さんのお家に行った。大豆を煮るいい匂い。大きい釜に入っている大豆がそこにはあった。それをみんなで必死に潰して潰して潰して、味噌容器に敷き詰めた。蓋を閉め、自分たちの名前を書いた。このお味噌と出会うのは1年後。どんな味になっているか楽しみだ。味噌づくり後は、耕さんの奥さんが桜のピザを作ってくれた。桜のしょっぱさが少しあり、優しい味のそのピザはとてつもなく美味しかった。肌寒さが少しありながらも日光の下で、幸せを感じながら、幼少期の頃を少し思い出しながら、1年後のお味噌がどうなっているかな~というワクワクと、このプロジェクトへのワクワクをギュッと感じたCDP最初の日だった。それから、中学生交流事業に参加したり、いちょう児童クラブに行ったり、秋葉台小学校に行ったり、お餅つきに参加したりした。小学校や学童の子どもたちや先生、青少年育成協議会の方々、秋葉台サンシャインの方々、市民センターの方々、縁側事業もんのきの家の方々、様々な世代の方たちの存在を知った。そして、笹団子を作ったり、草履を作ったり、お餅つきをしたり、CDPを志望した当初の想いを存分に味わうことが出来た。自然と触れ、子どもたちと触れ合う時間は、密閉されていた子ども心の蓋を開けるきっかけになった。

*縁側事業もんのきの家*
 2期目になり、毎週水曜日にもんのきの家に通うようになった。飽き性で継続することが苦手な私だったけど出来る限り通ってみることにした。正直最初は「行かなきゃ」という使命感が少しあった。それに地域の人にとっての日常空間に入るのは少し勇気が必要で、最初の方は「お邪魔しに行っている」という感覚だった。それでも通っているうちに、今まで「ねねね、」と名前を呼ばずに話しかけられていたのが、気づけば「サッカー少女」になり、そこから「はるちゃん」「くまがいさん」と呼ばれるようになった。久しぶりに行くと、「おお~久しぶりだな!早く入れ入れ!」と声をかけてくれ、部活で途中で抜ける時には、「サッカー頑張れよ!」と声をかけてくれるようになった。またお手紙や手作りの本の詩織、ティッシュケースをいただき、1週間後に、「私も作ってきたのよ、あげる」と言って、手作りのアクセサリーなどをいただいた。「私たちがいる」ということがもんのきの家にとっての当たり前であり、日常になってきたのかなと感じた。同時に地域の仲間になれたのかなと初めて実感した。そして地域の一員になるということは簡単なことじゃないんだということも身をもって感じた。相手の日常にお邪魔させていただいて、何度も顔を合わせ、言葉を交わし、心を交わすということ。それは互いにとって最初は「他人」であり、「非日常」かもしれないが、共に時間を過ごすことでそれが「日常」になっていく。それはつまり、「互いがその場にいること」が当たり前になっていることであり、自然とそのコミュニティにおける一員になっている。私たちは学校と地域とのより良い関係を築いていくことがビジョンに活動している。でも、学校と地域の関係をつくる前に、まず学校の一人間である自分が地域との関係を構築することが重要で、それが土台になるんだと気づいた。そしてその関係を作るときに、「慶應生」なんていう肩書きはファーストインプレッションくらい、時にはむしろマイナスにもなりうる。大事なのはありのままの自分で、いかに時間を過ごしたか、心を通わせたかではないだろうか。けれど視点を変えると、大学生という取れぬ肩書きがあったことで、役割を与えてもらうことが出来えたし、私たちにしかできない出番があったと思う。

 今年の夏に「もんのきの夏休み」を開催したが、これも遠藤と大学の信頼という土台があったからこそ生まれた企画であり、まさに役割と出番が現れたものだったと思う。そもそももんのきの家は、「みんなが主役。みんなでつくる。みんなで楽しむ。」という理念をか掲げているが実際の所、開設されてから70歳以上の高齢者がほとんどでカラオケをするだけの場になってしまっている。この状況に対して、もっと子どもたちに来てもらいたい、今回夏休みを使ってそのきっかけを作りたいと、入澤さんをはじめ、高橋さんや重田さん、横山さんなど運営中心メンバーの方々が発案した。3週に分けて行ったその企画は、1週目は巨大流しそうめん、2週目はかるた作り、3週目は夏休みの宿題だ。私は流しそうめんとかるた作りに参加した。
 流しそうめんは流しそうめん台用の竹を切るところから始まった。車に乗り込み、入澤さんのご自宅にある竹林に行った。軍手をはめ、手渡されたノコギリを握りしめ、竹に刃を入れた。「いつぶりだろう!」とおじちゃんの竹林で竹を切ったあの頃を思い出した。切った竹をさらにコップくらいの大きさと1mほどの長さに切った。こういう風に切るんだぞと言って、手際よく竹を切っていく横山さん。まあいけるでしょと思い、いざ私もやってみるとなかなか思うように切れなかった。流しそうめん台の組み立ても紐で竹をくくりつけ、あっという間に組み立ててしまった。おじちゃんたちすごい!!!!!素直にそう感じた。竹を切るのも、竹を組み立てていくのも、きっとおじちゃんたちにとっては、これが当たり前の日常だし、当たり前のスキルだと思っていると思う。けれどこれは私たちには到底出来ないスキルであり、ここで長年経験してきたおじちゃんたちだからこそできることだと感じた。おじちゃんたちの知恵とスキルで、本当に立派な流しそうめん台ができた。今までもこの先ももう出会わないんじゃないかと思うくらい本当に立派な流しそうめん台だった。当日は子どもたちやおじいちゃんおばあちゃん、センターの方など50人を超える沢山の遠藤の方が来た。まっすぐと直線に伸びる流しそうめんを囲み、流れてくるそうめんやミニトマト、スーパーボールを今かいまかと待ち構え、笑い合っている姿がそこにはあった。温かかった。いつもはおじいちゃんおばあちゃんしかこない遠藤地域の小さな小さな一角が賑やかで温かい地域の居場所になっていた。そして私自身どこかホッとするような居心地の良さを感じていた。幼い頃から「みんながいる空間」にいたからなのかもしれない。でもその時とは違うのは、みんながいる空間にピョコっと入っていたが、今回私は初めてみんながいる空間を作った。自分が好きな空間を自分が作れたことがとても嬉しかった。
 2週目はかるた作りをした。ここでは役割と出番をさらに強く実感した。かるたの文言やイラストを地域の方々が考え、私たち大学生がそれを組み合わせ、印刷してカタチを作り、子どもたちが色ぬりと台紙に貼り、完成させた。遠藤の神社や川、野菜など、どんどん出しては文章にしていく姿を見て、到底私たちには真似しようにも出来ない経験があるなと感じた。
 また私はこの企画全体のチラシ作りを担当した。地域の人やセンターの方からもっとこうして欲しい、こういうのを入れたらいんじゃないか、という色んな声を聞いてはとにかく試行錯誤して作っていた。修正の所で大変さも多少あったが、それでも自分だけの役割があって嬉しかったし私にしか出来ないことだと思えて作ることができた。そしてそのチラシはセンターが配布をしてくれた。やはり私たち大学生も、もんのきの方々も大量の印刷、配布となると限界がある。でもセンターが印刷して、小学校に配布をしてくれたことで多くの人の元に届けることが出来た。知恵がある地域と知識がある私たち大学生が共に企画を作り、資金や拡散力があるセンターに支えてもらう。そしてそこに子どもたちを始めとする地域の方々が集まり、初めて、「みんなが集まる空間」ができる。地域、大学、センターどれかひとつでも欠けてたら成り立たなくて、それぞれが持つ役割と出番を存分に発揮したからこそできた企画だと思う。

*みんなの食堂*
 月1~2回のペースでみんなの食堂を行っている。遠藤のお野菜などを使い、子どもたちや大学生、耕さんが来てみんなでご飯を作り、みんなで一緒に食べた。夏には特別研究プロジェクトで手作りうどんを作り、12月にはクリスマスでお菓子の家とタコライスを作り、1月は先取りバレンタインデーでクッキーとジュースを作った。私は毎回、当日みんなの食堂を彩る装飾に手を挙げていた。そして当たり前のように大学生の装飾係で飾りを考えていた。でも12月に事件が起きた。2人で時間をかけて作った飾りを持った子が当日寝坊してこなかったのだ。飾りはなくてもいいかと私は諦めていたが、集合時間より早くきた子どもたちを見て、ないなら一緒にいま作っちゃおう!と思った。紙とクレヨンはあったので、それでクリスマスの絵を描いてもらった。楽しそうに絵を描き、窓に沢山貼ってくれた。当初想像していたクリスマスの飾りとは全然違かったし、決して綺麗な飾りつけではなかった。それでも私はこっちの方が素敵だと感じた。私たちが完璧に空間を準備して、あとは子どもたちが料理をするだけという形よりも、ある程度余白を残して、空間さえも一緒に作っていく形の方がいいなと思った。その方が子どもたちにとって「参加している」という受け身の状態ではなくて、「一緒につくっている」意識が自然と生まれるのではないかと思う。この体験をきっかけに1月のみんなの食堂ではもんのきの家の方々を巻き込んでみることにした。普段通りカラオケをやっている中で、私はバレンタイン用の飾りの材料を机に広げた。みんな興味深そうに何をしているの?と聞いてきて、私はみんなの食堂の説明をして、その飾りを作っているから一緒にどうですか?と誘った。その場にいて、よく洋服なども自分で作ってしまうくらい裁縫上手な冨田さんが、一緒に作ってくれた。冨田さんは来週は来る予定じゃなかったそうだが、「来週も飾り作りやるの?やるなら私いくよ!」と言って、1週間後、沢山の色紙と糸と針を持ってきてくれた。「私にはセンスがないからできないわよ」と言っていた方も、みんなの食堂の取り組みを聞いて、月の暦を切り取った紙を持ってきてくれて、もし使えそうだったら使ってみて!と渡してくれた。飾り作りをやることを楽しみに来てくれる人がいる、自分の持っている知恵を少しでも還元したい、もんのきの方々がそう思っていることがとても嬉しく感じた。冨田さんともう一人もんのきの家の方がみんなの食堂当日も来てくれ、一緒に窓へ飾りつけまで行った。普段は耕さんくらいしかいない場に、もんのきの家の方がいて、たった3人だけどそれでも地域の年配の方と子どもたちが繋がる機会がそこにはあった。そして偶然にもその日はコンゴのゴディやSFC中高生も来ていて、異世代、異文化での空間になっていて、これぞまさにみんなの食堂だ!と感じた。私の中でも、自分の小さなアクションで自分の願う空間が目の前で実現されていてとても自信になったし、私の描くみんなの食堂がイメージできた。
 遠藤は地域イベントが沢山ある。そのほとんどが小学生~中学生の子どもが対象になっている。みんなの食堂も遠藤の子どもたちが何かする場なら、とお野菜を提供していただいている。この遠藤という地域は「子ども」のために動いている。もっと言えば、子どもを育てることそのものが未来の地域をつくっていくことなのではないかと思った。遠藤を見ていると「子どもは宝だ」と感じる。

*日吉*
 研究会に入る前、慶應の男子部員と一緒に出張サッカースクールを行なっていた。1ヶ月に1回ほどのペースで同じチームに通っていた。子どもたちからも名前を覚えてもらえるくらいまでにはなっていた。でも、早慶戦に招待したときに練習があるから無理と断られてしまい、その時にまだまだ全然関係作れてなかったんだと落胆すると同時に、このままただ平然とサッカー教室をやっていても状況が変わらない気がした。それで私はサッカースクールは一旦やめることに決めた。そこから私は日吉で活動している人を調べに調べた。そこで出てきたのが南日吉商店街の会長さんである小嶋さん。私は早速6月にある夜店と呼ばれる商店街のお祭りに行き、会いに行った。そこで綿あめを売っていた小嶋さんに話しかけ、気付けばお手伝いしていたミニバスの子たちと小嶋さんと私で一緒に綿あめを売っていた。初対面とは思えないほどフランクな方で、また2週間後にも夜店でお手伝いをした。長年ミニバスの監督をする傍ら、日吉地区で様々な活動の中心にいる方で、子どもから大人までみんなから「監督」という愛称で親しまれていた。監督は日吉地区で行事があるたびに連絡を入れてくれて、中学生が職業体験でやる座布団作りをやらせていただり、お神輿に参加したり、協生館ホールで行われるコンサートのお手伝いをしたり、誘われたらとにかく行くようにした。いろんな所に顔を出していると、徐々に監督以外にの人にも顔と名前を覚えてもらえるようになってきた。もはやサッカーもしてないし、「なんでも屋」になっていたし、監督の知り合いからも、こき使われてるな~と笑われたけど、私にはそうは思わなかった。なぜなら、それが一見自分がやりたいことに直結してないように見えても、関係を作るという軸で見た時にそれらの行動は絶対に意味ない時間ではないと思う。それに何より、やっていて純粋に楽しい。「はるちゃんは3人目の孫だよ」と言ってくれて本当に色んなことを経験をさせてくれ、知らない世界を見せてくれるし、恋愛の相談にも乗ってくれる(笑)。最初、地域とソッカー部の関係を作るためにという目的のもと、監督に関わりを持ち始めた私だったけど、今はもうそんな目的よりも単純に私の大好きなおじいちゃんだ。こういう関係がいろんな所でもっともっと増えればいいなと思う。

*港北区駅伝大会*
 1月19日に港北の駅伝大会があった。私が監督と知り合ってすぐ、駅伝を走れる慶應生を8人集めてほしいとお願いされた。今まで日吉地区は慶應生をリレー選手に入れたくも、全くつながりがなかったため毎回下位の結果で終わっていたそうだ。私が知り合いの慶應生を集めると、小嶋さんはじめに、スポーツ推進委員の方々もとても喜び、今年は駅伝後に慰労会をやろうと非常に盛り上がっていた。当日私は駅伝には参加できなかったものの、入賞したという結果を聞き、慰労会に途中から参加した。そこで目にしたのは、お腹いっぱい食べて、持ちきれないくらいのご飯や飲み物をもらって嬉しそうな学生の姿に、ほんのりと赤いほっぺで「お前ら試合いつあるんだ。応援行くからな」と言っている地域の方たちの姿だった。この駅伝大会に参加してくれて陸上部とテニス部は4月と6月に試合があり、それに行くという約束をしていた。もちろん私のサッカー部も「はるちゃんっていう横断幕を作って応援絶対行くからな」と言っていただいた。「広報も連絡入れてくれれば、日吉全体に流せるからな」と言っていただき、持続的に関わる一つの方法もわかった。今まで監督だけとしか関係が築けていなかったけど、今回で地域の仲間になれたんじゃないかなと感じ、そう思うと素直に嬉しくて、さらに、応援しにいく!と言われ、私がしたかったのはこの光景だ!とまた嬉しくて、、嬉しさが溢れてにやけが止まらなかった。
 慶應生が「仮の」日吉地域の一員として走り始めたのが、一つの襷を日吉の子供から大人みんなでつなぎ、終わってみればその学生は間違いなく「地域の一員」になっていた。そしてその学生の存在がリレーを盛り上げていたし、地域を一つにしていた。それは私のビジョンでもある「慶應体育会が日吉地域をチームにする」をまさに体現していたと思う。


 日吉の慰労会の際に地域の方が、「本当はずっと慶應と繋がりたかったし、応援もしたかったんだけど、どこから繋がればいいのか分からなかったんだよね」という言葉をもらった。また遠藤地域の新年会では、「慶應生はチャラチャラしてるイメージがあってなんか嫌いだったけど、お前らはいいやつだ。イメージが変わった。」と言われた。SFCも慶應体育会も、地域側から見たら、地域という自分たちの社会の中に「異質で閉ざされた」社会ができていると感じているのかもしれない。そしてその「異質で閉ざされた」社会に自分たちから門を叩きに行くのは難しい。だからこそ私たちは自ら門を開け、怪しいものではありませんと、共に地域に住む一人であるんだと伝えることが大事だと私は思う。そして「大学生」という異質だからこそ、異なる役割を担い、共に社会を作っていくのだと思う。それを互いが理解し、一つの地域という社会の中の一員として、共につくっていく意識を持っていることが大事なのではないだろうか。