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分かち合いと奪い合い。人間は動物以下になりつつあるのかもしれない

争いの最たるものは戦争です。
小さな争いは奪い合いから始まり、その争いが戦争に拡大して、どちらも傷つき、どちらかが負けてあらゆるものを奪われます。
日本も原爆を二発浴び、大空襲により全国各地で国民が地獄を味わいました。
わたしたちはそのことを決して忘れてはいけない。そして今、世界のあちこちで起こっている争いにも深い注意を払わなければなりません。

争いは限りあるものの奪い合いから始まります。
敗戦から6年後にわたしは生まれました。
生まれた年の世界の人口は25億人でした。
日本経済は皮肉にもその頃勃発した朝鮮戦争で息を吹き返しますが、それまでは餓死寸前の国民もたくさんいたと聞きました。

今、世界の人口は78億人を超えました。
食料も石油も水も足りなくなるはずです。
SDGsは必然的に生まれた世界のルールです。
そのルールとともに『足るを知る』という日本古来の生き方もこれからは求められます。
欲望を小さくできるかどうかということではなく、
欲望を小さくしなければならないということです。
そうしていかない限り、そもそもが足りないのですから、争いは無くなりません。

日本に升(ます)というものがあります。
人間は自分の大きさの升をそれぞれに持っています。
自分の升に目一杯入っていないと不満になる人が増えています。もっともっと欲しいと思ってしまいます。
しかし、七〜八分目入っていれば(ああよかった)(たくさんもらった)と思えるようにすればその人は幸せになれます。
少食の人は大食の人と同じ大きさのお茶碗は要りませんから、これからは「少食の進め」が流行るかもしれません。

動物たちの世界にも戦いはあるけれど、獲ってきた獲物はみんなで分かち合っています。
それが生きるものの知恵ですが、そういう姿がこの頃の日本にはあまり見えません。
私が欲しいだけ私が取る、あなたのことは私は知らない、というような風潮が強くなっているようです。
島国日本では他人事のように受け止められている世界の難民、その姿を海外ニュースで見るたびに心が痛みます。
人間はまず動物であって動物の上に魂を持った霊的な存在であるはずですけど、その生きものの基本である動物の部分をすら忘れてしまったところがとても悲しいです。
分かち合いを忘れた奪い合いの生物は存在価値を失いつつあるやもしれません。

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