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くりはら田園鉄道 第2弾

天気予報は、金曜日の夜から土曜日の朝にかけて雪の予報だ。雪の中、出かけるのは億劫なので、土曜日の午後に車の点検の予約を入れ、のんびり休養する予定でした。ところが、ちょっと遅めに起きた土曜日、外はよく晴れて絶好のドライブ日和でした。こうなると、家でじっとしているのが勿体無く感じられ、予定を変更して急遽出かけることにしました。「くりでん若柳駅」で保存車両を見てすっかり魅了され、ネットで県内から東北各地の保存車両を検索して機会をうかがっていました。
福島県のJR磐越西線川桁駅から沼尻鉱山「沼尻駅」まで15.6kmを結んでいた日本硫黄沼尻鉄道(後の磐梯急行電鉄、1969年(昭和44年)廃止)では、猪苗代緑の村にDC12-1、ボサハ12、ボサハ13(1928年(昭和3年)丸山車輌製の木造ボギー客車。前所有者は栗原鉄道)が保存されている。
岩手県花巻市の国鉄(JR)東北本線花巻駅を中心に、花巻温泉郷へ向かう鉄道線と花巻南温泉郷へ向かう軌道線を運営していた花巻電鉄では、昭和初期に雨宮製作所で製造された、車体幅が約1.6mと極端に狭く「馬面電車」と呼ばれていたデハ3が保存されています。どちらもすぐにでも見てみたい車両ですが、今回は時間に制約があるため、比較的近くの大崎市内の保存車両をみながら「くりでん」の残り駅に行くことにしました。
岩出山城址のC58。

陸羽東線で活躍していたC58-114号機が、岩出山の城山公園で保存されています。ところどころ錆びや破損がありますが、屋根のない屋外保管なので状態は良いほうだと思います。
C58形蒸気機関車は、8620形、9600形共通の後継機として設計され、ローカル線用の客貨兼用過熱式テンダー機関車として427両製造されました。
C58-114号機は、1939年(昭和14年)汽車製造で製造され、1941年(昭和16年)紀伊田辺、1945年(昭和20年)仙台、1955年(昭和30年)小牛田と移動し、1973年(昭和48)年に廃車となり保存されたようです。同時期に廃車となったC58-19号機が、同じ大崎市内の「西古川駅」前で保存されています。
SLが保存されている城山公園は、伊達政宗が1603年(慶長8年)に仙台城に移るまでの12年間居城とし、25歳から37歳までの間過ごした岩出山城の跡です。元を岩手沢城といい、室町時代足利氏の一族で奥州探題であった大崎氏の軍監役、氏家氏の居城であったようです。1591年(天正19年)、豊臣秀吉の奥州仕置きによって、伊達政宗が伊達・信夫・田村・刈田・長井などの伊達氏代々の土地を没収され、米沢から旧大崎・葛西領へ移封となったとき、豊臣秀吉の命で大崎地方の検地をしていた徳川家康が伊達政宗のために40日間岩手沢に滞在し、榊原康政に命じて城を縄張り、修築し、伊達政宗に引き渡したといわれています。伊達政宗は岩手沢から岩出山と改め、仙台城移転後は、四男宗泰の居城となりました。
岩出山城には、SLの他「伊達政宗平和像」があります。もともと仙台城址にあった伊達政宗の騎馬像が、戦時中の金属供出で、軍に徴用されました。(騎馬や政宗公の下半身は溶かされてしまいました。)戦後に平服姿の像が作られましたが、仙台城址には騎馬像が再建されたため、1964年(昭和39年)に岩出山に移されました。仙台城址の像が武者姿の騎馬像であるのに対し、こちらは平服姿のため「伊達政宗平和像」と呼ばれています。

「くりでん」の探索は終着駅だった「細倉マインパーク前駅」からスタートします。もともとは200mほど石越よりに「細倉駅」があり旅客駅の終点で、細倉鉱山まで細倉鉱山線という貨物線がありました。貨物線は、1987年(昭和62年)の細倉鉱山閉鎖に伴い廃止されていましたが、1990年(平成2年)6月16日に「細倉マインパーク」がオープンし、廃止された細倉鉱山線を引き継いで、200mほど延長させて開業した「くりでん」で2番目に新しい駅です。駅前には大きな駐車場も整備されました。現在は当然のことながら駅舎は閉鎖され、駅前にあったお蕎麦屋さんも営業していませんでした。

「細倉マインパーク前駅」が出来るまでの旅客の終着駅だった「細倉駅跡」。廃止後の駅舎がそのまま別な会社へ譲渡され、つい最近までその会社の事務所として使われていました。2008年(平成20年)4月に解体されたようで「細倉駅」跡は更地となっていました。来るのが少し遅かった。
平安期の「前九年の役」の戦場だったという歴史があり、源頼義が苦戦していると、一羽の白い鶯が現れ、戦勝に導いたという白鶯(はくおう)伝説が、町名の起源となっている鴬沢町は、2005年(平成17年)の合併で栗原市となりました。
細倉鉱山により繁栄した町でしたが、すでに鉱山の前途が危惧された80年代からは、町の存亡をかけて、閉山を前提としたその後の資源利用の必要性が問われていたようです。その結果として、鉱山の跡を観光資源として再利用する計画が作られ、秋田県の尾去沢鉱山跡「マインランド尾去沢」を参考に、マインパーク化を計画しました。(マインパークというのは、鉱山・炭鉱等の遺構を利用した集客施設のことらしいです。)1990年(平成2年)に「細倉マインパーク」としてオープンし、それに合わせて鉱山の閉鎖によって貨物収入を失った「くりでん」も観光客の利便性のため駅を移動したようです。しかし、期待したほどの集客は出来ず、収支改善には至りませんでした。
細倉マインパーク前駅付近路線図。

地図の青のラインは、細倉鉱山線の線路跡の推測の位置です。

さて、今回の目玉 ED202です。駅から1段高いところに保存されていますが、この位置が嘗ての細倉鉱山線の跡のようです。上の写真は前回も掲載したいただき物です。見比べると塗装がすっかり褪めてしまっています。
「くりでん」の歴史そのものといったED202詳細は前回の遠征記で書いた通りです。

ED202と共に保存されている木造の有蓋緩急貨車ワフ71。詳細は不明です。ここから「石越駅」方面に向かって線路跡をたどります。

「くりでん」唯一のトンネル「秋法隧道」。上の写真は、2007年(平成19年)4月時点の写真です。まだ、架線が残っていました。2008年(平成20年)(写真中、下)になると架線は撤去されていました。上と中の写真が「細倉マインパーク前駅」側、下の写真が「石越駅」側です。

鴬沢工業高校前駅・鴬沢駅
「鴬沢工業高校前駅」は、いったん国道を離れ踏切を渡ったところにあります。もともとは「駒場」という駅名でしたが、社名が「くりはら田園鉄道」に変わったときに駅名も変わりました。廃線後、心無い高校生の悪戯でひどいことになっていた待合室も撤去され、駅犬(ロッキーという名前らしい)の小屋がポツンと残され、車を降りていくと尻尾を振って迎えてくれました。もし廃止されなかったら無人駅を守る駅犬有名になっていたかもしれません。

「鶯沢駅」手前の二迫川の鉄橋。この鉄橋も「くりでん」の撮影スポットのひとつでした。桜をバックに鉄橋を渡る車両の写真はいろいろなサイトで見られます。2007年(平成19年)は中央に架線を支える電柱がありました(写真上)。2008年(平成20年)になると撤去されていました。
「鴬沢駅」

この場所に駅舎があり、列車の交換も出来る2面2線の駅でした。
国道から入っていくと、いかにも駅前広場風なところがあって、ホーム沿いに立派な建物があるので、さすがに役場に近い町の真ん中の駅は違うな、と思ったのも束の間、まったく無関係の建物でした。ホームの跡が残るだけで、待合室も撤去されていました。

尾松駅・赤坂山隧道
「尾松駅」こちらも待合室、駅名票など全て撤去されていました。

「尾松駅」から「旧赤坂山隧道」の坑口を見ることができます。
「くりでん」が電化の際に狭隘な隧道を放棄し、勾配緩和も兼ねて深い切り通しの路線と切り替えました。その後は使われることなく放置された隧道です。

トンネル跡と反対側の「鴬沢駅」方面の築堤は線路2本分が残されています。1本は「くりでん」もう1本が軽便鉄道時代の線路跡のようです。昔の面影を残している場所です。

栗原田町駅・杉橋駅・津久毛駅
「栗原田町駅」。かつては大きな駅舎があった駅ですが、全て撤去され何も残されていませんでした。

「栗駒駅」は、廃線直後の2007年(平成19年)4月に訪問しました。2年たってどのように変わったのか、興味津々ですが時間の関係でスルーします。写真は2007年(平成19年)訪問時の撮影です。
また、「鳥矢崎駅」は国道とは離れていて、行きにくいので通過します。

「杉橋駅」。栗駒山をバックに田園地帯を走る「くりでん」の撮影ポイント。駅横の鉄橋も人気のスポットだったようです。

「津久毛駅」。
かつて有人駅で、交換設備のある駅でしたが、交換施設が撤去され、無人化されました。駅舎はそのまま残っていますが、「くりでん」とは無関係の所有者となっているようです。近くには、栗原電鉄時代に使われた変電所があり、変電所と本線の架線とを中継する架線電柱は、栗原電鉄の架線電柱の中で唯一のコンクリート製だったということです。「細倉マインパーク前駅」から、「石越駅」方面に駅跡を中心に辿ってきました。「津久毛駅」の次は前回訪問した「沢辺駅」となります。まだ、国鉄(JR)接続駅の「石越駅」、「荒町駅」、前回行けなかった「大岡駅」、今回通過してしまった「鳥矢崎駅」と未訪問の駅があります。ところが、ぜひ見ておきたかった「石越駅」の駅舎が解体されてしまいました。このニュースで、いっきにテンションがさがりました。
「くりでん」を巡る旅はここで終了にします。

一区切りしたつもりでしたが、未練な気持ちが残っていて、いわゆる隙間時間を使って、ピンポイントで「JR石越駅」に行ってみました。
前述の通り「くりでん」の「石越駅」は駅舎が取り壊されてしまいました。
写真は、いただきものです。かつては、「くりはら田園鉄道」での始発駅でした。また、国鉄(現JR東日本)との貨物列車等を中継するための大きなヤードもあったそうです。
国鉄(現JR東日本)が交流20000Vに対し栗原電鉄は直流750Vでしたので、ヤード内は非電化で、DB10型機関車が大活躍していたそうです。
また、「くりでん」の最盛期には、このヤードを使って仙台への直通列車があったそうです。
線路も取り外され「0キロ」の表示もなくなっていました。特徴ある駅舎はもう見られません。

スタンプラリーの合間、「チャチャワールド石越」園内の「くりでん」のM15、C15、ED202を見に行きました。
あわよくば入園しなくても写真撮影くらいは出来るだろうと思っていました。その期待は見事に裏切られました。入園料320円を払って入場しました。保存された車輌は休憩室として使用されているハズです。
車両は綺麗に塗装されていて、現役時代を彷彿とさせます。車内も綺麗に維持されていました。運転席の機器もそのままの状態で残されています。

未訪問の「荒町駅」まで足をのばしてみました。他の駅と同じように駅の看板や待合室が撤去されています。石越方面、若柳方面にレールは続いているように見えましたが、駅横の踏み切りは、レールがはずされ道路面が再舗装されてレールの痕跡はなくなっていました。
これで未練な気持ちが吹っ切れました。心残りなく「くりでん」から離れられそうです。やがて記憶も風化してしまうでしょう。その前に記録としてこの手記を残しておきます。

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