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くりでん

【この作品は、2007年と2008年の現地確認の記録をベースに、2023年に加筆修正したものです。】

「くりはら田園鉄道」(以下「くりでん」と略して記す)との出会いは東北道の駅スタンプラリー(以下スタンプラリーと略して記す)中に撮ったこの1枚の写真でした。秋田新幹線、由里高原鉄道、五能線、JR常磐線、JR大船渡線、JR羽越本線、フラワー長井線など、踏切で目の前を通過する車両や、並走する姿などをスタンプラリーの合間に撮っていました。その中の1枚が「くりでん」のKD95が三迫川の鉄橋を渡る写真でした。
2007年(平成19年)3月31日に廃線となるというニュースが流れました。週末は名残を惜しむファンで盛況という話を聞きました。当時はスタンプラリーに夢中でした。その目的以外のお出掛けは考えられませんでした。
2007年(平成19年)4月28日、スタンプラリーの途中に「栗駒駅」付近を通りかかりました。単調になりがちなスタンプラリーのスパイスとして「廃なもの」にも目が向くようになっていました。3月で廃止になったことを思い出し、廃なもの探索の気分で駅とその周辺の鉄橋やトンネルを見て歩きました。
帰宅後、ネットで調べてみると「若柳駅」に車両基地が併設されていて、たくさんの車両が今でも保存されているという情報を発見しました。「廃なもの」の中でも特に各地にある「保存車両」がマイブームでドンピシャで大当りでした。すぐにでも飛んで行きたくなりました。
ところが、なかなか機会を作れません。そうしているうちに、のど元過ぎればなんとやらの言葉どおり、日に日に別なことに興味が移っていき、「くりでん」への思いは薄れていきました。
春から秋にかけてはスタンプラリーに夢中になって過ごしました。その途中途中にあった廃なものや保存車両は、一服の清涼剤として気持ちにゆとりをくれました。
2008年(平成20年)のスタンプラリーシーズンが終わりました。出かける当てもなく、休日に身体をもてあまして、ネット三昧で時間を浪費していました。ちょうどそんなとき、廃線系のサイトで「くりでん」を見つけました。そういえばここに行こうと考えた時があったなと思い出してしました。
「くりでん」こと「くりはら田園鉄道」は、「細倉鉱山」から産出される鉛や亜鉛の搬出を目的として、1918年(大正7年)に「栗原軌道」として設立され、1921年(大正10年)に石越~沢辺間が開通しました。
1922年(大正11年)に、設立当初の特許取得区間である、沢辺~岩ヶ崎(現・栗駒)間を開業させ、営業キロは16.6㎞になり、1940年(昭和15年)には、岩ヶ崎~細倉鉱山間の免許を取得、1942年(昭和17年)岩ヶ崎~細倉鉱山間が開通しました。同時に鉄道線として免許を取得した事から、地方鉄道に衣替えし、社名も「栗原鉄道」となりました。
1950年(昭和25)、には、全線を電化し、5年後の1955年(昭和30年)には、国鉄(現・JR)との貨物輸送を直通運転化する為に、軌間を1067㎜に改軌しました。
最盛期には、石越から東北本線に乗り入れ、仙台まで直通する旅客列車があったそうです。また、細倉鉱山から先、秋田県の湯沢まで延長する構想も存在したようです。
1987年(昭和62年)細倉鉱山の閉山に伴い貨物営業が廃止され、大きな収入源を失った「栗原電鉄」は経営状態が悪化してしまいました。
1993年(平成5年)に鉱山の経営母体だった三菱マテリアルの手を離れて、沿線5町(石越・若柳・金成・栗駒・鶯沢)を主体とする第3セクターに経営移管されました。
1995年(平成7年)在籍車両の経年劣化が著しく耐用年数を超えつつあった事から、電気鉄道から内燃動力に変更し、社名を「くりはら田園鉄道株式会社」路線名を「くりはら田園鉄道線」に改称し再スタートをしましたが、経営状態の改善は出来ず、2007年(平成18年)年3月31日を以て、「くりはら田園鉄道線」を廃止し、会社は解散となりました。
事前リサーチとして「くりでん」の起源となった細倉鉱山についても調べてみました。
細倉鉱山は、宮城県北西部、栗駒山南東麓に位置する栗原市鶯沢にある鉛・亜鉛鉱山です。今から約1200年前、平安時代の806年代~876年代(大同~貞観年間)に発見されたと伝えられており、江戸時代には仙台藩が開発、経営し、最初は銀を採掘していましたが、その後 鉛の生産が増加したようです。1688年~1704年の元禄期には銀・銅製錬の材料としての鉛の需要が増え、鉱山は隆盛期を迎えました。
明治に入り、政府の所有となった鉱山は、近代化が進められ、1895年(明治28年)には鉛の年間生産額が日本一となったそうです。
1898年(明治31年)に高田商會の所有となり「高田鉱山」、1928年(昭和3年)共立鉱業(株)に経営が移り「細倉鉱山」と改称され、1934年(昭和9年)に三菱鉱業(株)の経営になりました。資料の残っている1923年(大正12年)から、亜鉛85万トン・鉛31万トンを産出したそうですが、1987年(昭和62年)鉱量の枯渇と金属価格低迷により閉山となりました。
東北自動車道で60㎞あまり、岩手県境に近い若柳金成ICで高速を降り、一般道で「若柳駅」に向かいます。途中「くりでん」の踏切がありました。
遮断機、警報器などはすでに撤去されていました。近所の方なのか、通行する車が現役路線の踏切を渡る時のように一旦停止しているのが印象的でした。廃止線の踏切にありがちな、線路内に入れないように両側をバリケードなどで塞ぐようなことはなく、渡るときに確認した限り錆ついてはいますがレールが、敷かれたままになっていました。
踏切のすぐ横に、待合所や駅名票が撤去されたホームだけがあり、地図で調べてみると「谷地畑駅」でした。そういえば、途中に「大岡小学校前駅」という看板があったな、帰りに寄ってみよう。

「若柳駅」前は小さな広場になっていますが、何かの工事中でした。駅舎は施錠されていますので入ることはできません。また駅横にある、くりはら田園鉄道本社の2階にあるという資料を展示しているコーナーも、土日、祝祭日は閉まっているようです。ガラス越しに中をのぞいてみると「ありがとうくりでん」という、横断幕が残されていました。
ホームに出て留置線の方の目をやると、なるほど、たくさんの車両があります。現役時代に何度か見たことのあるKD95は、1両は木造の車庫に、2両編成がその横に保存されています。もともと全線電化された路線だったため、パンタグラフのついている車両も目につきます。かなり広い構内を1車両、1車両写真を撮りながら丹念に見ていきます。といっても所謂鉄道マニアではないので、全体の色や形が分かる程度の写真しか撮れません。
若柳駅線路配置図を書いてみました。赤い線が線路、ピンク色に塗られているのが、車庫やホームなどの関連施設です。線路上の数字(①②③・・・等)は、車両の写真と対応します。

若柳駅の車両たち。

M15型(①、②)
栗原鉄道時代、貨物輸送を国鉄と中継するため、軌道を狭軌に変更したときに導入した車両です。当時の地方鉄道の電車としては、最新式のデラックス仕様で、ノーシル・ノーヘッダーのボディ、(ウィンドウ・シル、ウィンドウ・ヘッダーが無いことで当時の木造車両は窓周りの強度を増すために金属で補強されていた)オイルダンバ使用の台車、蛍光灯照明などが採用されたそうです。
3両製造され、栗原鉄道ではM151、M152、M153という形式でディーゼル化までの長い間活躍したようです。廃止後はM151、M153が現在も「若柳駅」に留め置きされ、M152は「チャチャワールド石越」という遊園地で休憩室として第二の人生を送っているそうです。車体形式のM15は、M:電動車、全長15mから付けられたということです。

C15型(④)
前述の車体形式からすると、C:制御車で全長15mの車両となります。もともとは、M15型電車の制御車として、京阪81・86型の木造車体に西武鉄道の台車を組み合わせたもので2両造られたようです。
その後、車体が古くなったため鋼製化されC151,C152としてM15型と連結して使用されていたようです。廃止後はC151が現在も「若柳駅」に留め置きされ、C152はM152とともに「チャチャワールド石越」へ移動しました。写真は後述のKD11とC151。


M18型(③、⑥)
M18型は2系統あります。M181は、1926年(大正15年)の汽車会社で武蔵野鉄道(現 西武鉄道)向けに作られ、1955年(昭和30年)に栗原電鉄に入線したそうです。当時は木造16m級の車体でしたのでM161となりましたが、その後車体を鋼製化しM181となったようです。M182,M183は、1971年(昭和46年)に福島交通が日本車両に発注したもので、福島交通が電圧上昇に伴い廃車したものを譲り受け、18級の車両だったため、M181の追番としてM182、M183となったということです。
(写真上がM181、下の写真の手前がM182、奥がM183です)
M182、M183が入線するとM181は予備車となり、その後イベント用に転換していろいろなイベントで活躍したようです。また、M182とM183は変電設備の関係から同時に運転できなかったようです。廃止後はM181、M182、M183ともに「若柳駅」の留め置きされています。また、M17型という車両もあったようですが、電力の消費が大きいという理由で、廃車となり1996年(平成8年)頃に解体されてしまったようです。

KD10(⑤)
KD10形は元名鉄気動車です。1984年(昭和59年)に製造された軽快気動車で下回りはバスを流用した車両のようです。いわゆるレールバスです。名鉄が老朽化にともない新しい気動車キハ30形を導入開始することになったため、廃車になった2両を引き取ったそうです。主に鶯沢高校の通学する学生のために、開校日の朝夕のみに2連で運転されていたようで、2007年(平成19年)3月19日の午前中の1往復限り特別運行し、それをもってKD95形より一足早く運行終了したとのことです。

KD95(⑦、⑧)
1995年(平成7年)4月1日から、電化を廃止してディーゼル化へと変わることになり、富士重工で新規に3両が作られたようです。全長16.5mの軽快タイプ気動車で、室内はセミクロス仕様、カンテラ風の前照灯を取り付けているほか、床や腰掛けなどに木材を使用するなど全体がレトロ調になっています。

KD951形に"白鳥"、KD952形に"野菊"、KD953形に"栗駒山と馬"のエンブレムが取り付けられています。

2006年(平成18年)3月に廃線を1年残した期間に、「くりでん」をもりあげるため「ミヤギテレビ」と「NPOくりでん応援クラブ」合同企画で「OH!ハンデス号」を実行した。KD952にその時のエンブレムが残されていました。
「若柳駅」構内の保存車両を一通り撮影できました。

この2枚の写真は、同好の方からいただいた「石越駅」のゼロキロメートル票です。

こちらもいただいた写真です。「細倉マインパーク前駅」にワム71共に保存されているというED202です。
ED20型。
栗原電鉄時代の主力として活躍した、赤い凸形機関車です。新制されたのは1950年(昭和25年)で、栗原鉄道電化に伴い、中日本重工三原製作所(現三菱重工)で18トンの機関車として3両製造されたということです。
形式は機関車の重量が18トンであるため、ED18として付けられました。(機関車は機関車全重量を形式として付けられたようです。)
1955年(昭和30年)9月27日に国鉄(現JR)と貨物中継が必要になったことで、軌道幅を1067mmへ改軌し、ED18も車枠交換改造を行ったそうです。車枠交換した後、機関車全重量が20トンとなったことにより、ED20と改番されたようです。もとが軽便鉄道だったため、この機関車の主電動機は40kw×4と小型でした。また、直接制御で重連が不可能でした。これらの事情により、主役の座を後継のED351形に譲りました。やがて、細倉鉱山が閉山となり貨物輸送が全廃止されると、ED203とED351は、廃車となる予定でした。幸いにもED351は、鉄道マニアに引き取られました。ED203は「若柳駅」構内で保管されています。
ED202は、「細倉マインパーク前駅」で保存され、ED201は石越町にある「チャチャワールド石越」園内にあります。
この機関車はかつての軽便鉄道時代から栗原電鉄時代まで続けて使用されたので、栗原電鉄の歴史そのものと言われています。可能ならば、大切に保存して欲しいものです。

谷地畑駅・大岡小前駅・沢辺駅。
「大岡小前駅」は「くりでん」の中で一番新しい駅でした。近くに大岡小学校と大林工業団地があり、「谷地畑駅」と「大岡駅」の中間地点で不便だという地域住民による新駅設置の要望から2000年(平成12年)12月25日に請願駅として誕生しました。
この位置にホームと待合室があったようですが、2009年(平成21年)2月時点では、何も残されていませんでした。

「谷地畑駅」です。待合室があったようですが、2009年(平成21年)2月時点では、ホームが残っているだけでした。

「くりでん」の中では数少ない有人駅で、列車交換が行われていた「沢辺駅」。駅名の看板は、はずされていていました。駅舎はしっかりと施錠され入ることは出来ません。窓越しに中をのぞいて1枚。

2面3線のホームを持ち、駅前からは東北新幹線「くりこま高原駅」と連絡するシャトルバス「栗夢号しゃとる」がでていました。
「くりでん」では、石越駅~若柳駅間と、栗駒駅~細倉マインパーク前駅間が、スタフ閉塞式、若柳駅~栗駒駅間がタブレット閉塞式を採用していたようです。
若柳駅~栗駒駅間では、この「沢辺駅」だけが交換可能駅でしたので、KD95が2両ならびタブレットを交換する風景が見られたことでしょう。
沢辺駅の線路配置図。赤線が線路、ピンクに塗られた部分がホームと駅舎です。


無人の自動改札全盛時代に残された、木製の改札口。「くりでん」では最後まで硬券と呼ばれる切符が使われていました。

手動の転轍機もありました。廃線となるまでは、現役施設として使用されていたようです。

腕木式の信号機も、現役施設でした。

KD95もヘッドマークとして付けていた栗をイメージした「くりでん」のマークがステッカーになって入り口部分に残されていました。

身近にあった路線だから廃止になる前に1度乗っておけばよかったと、今更のように思ってしまった今回の「くりでん」探訪、その後ネットで「くりでん」を取り上げているサイトを見て、ますますその思いが強くなりました。宮城県内では「廃止」の噂は耳にしませんが、秋田県の「秋田内陸縦貫線」の噂は耳に入っています。
後悔しないように、乗りに行かなければ。というところで、今回の「くりでん遠征記」は終了です。

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