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目黒競馬場とトゥルヌソル像

区報でみかけた明治40年に開設された目黒競馬場、昭和7年に第一回日本ダービーが開催され、翌昭和8年の第2回日本ダービーの後に府中へ移転した。跡地は公的機関、民間会社の社宅、民家や教育機関となっている。その後、その公的機関や社宅が売却され、現在は共同住宅や戸建て住宅に様変わりしている。住居表示でいうと下目黒五丁目、六丁目となる。目黒競馬場があったという痕跡は、バス停と信号機に元競馬場、また、渋72系統バスが通る元競馬場通りという名称、そして当時のトラック沿いの桜が数本残っている。

目黒区報2022年5月15日号16頁

目黒競馬場は明治40年(1907年)、政府の馬質改良奨励によりこの地に開設され昭和8年(1933年)に府中に移転するまで運営された。当時の写真などは以前、こちらにメモを残した。

名称以外に、元競馬場交差点、競馬場があった下目黒側に目黒競馬場跡の碑があり、その上に第一回日本ダービー優勝馬の種牡馬のトゥルヌソル(仏語でヒマワリ)像が建っている。これは1983年(昭和58年)に建てられた。

目黒通り元競馬場交差点脇に建つ目黒競馬場跡碑とトゥルヌソル像

トゥルヌソルはサラブレッド種、英国の競走馬として優良な血統を持つ馬で1927年(昭和2年)に種牡馬として日本にやってきた。祖父バヤルドはイギリス三冠馬となったゲイクルセイダーとゲインズバラの父で、1915年、ゲインズバラはイギリスで三冠を達成し1925年から1927年まで英国の種牡馬ランキング4位になっている。

トゥルヌソルはこの時期に活躍した馬で、1926年にプリンセスオブウェールズステークス等に勝ち、1927年のアスコットゴールドカップ4着のあと脚部故障により引退したのを機に、宮内省により購入され、千葉県三里塚の下総御料牧場に繋養された。

これだけの血統を持つ馬を、この時代の日本に輸入し、日本産サラブレッドの礎とすることができたのは、当時の競馬や馬産のみならず、後世の日本の馬畜産業にとっても最大級の幸運であったと言われている。

目黒通り元競馬場交差点脇に建つ目黒競馬場跡碑とトゥルヌソル像

目黒競馬場跡のことは何度か下記のとおり別サイトでメモを残している。今回、その跡地に建つトゥルヌソル像について補足を。

目黒競馬場跡は比較的良好な住宅地となっている。用途地域でいうと第一種住居専用地域、高さ制限が10m。しかし、大規模な土地が売却されると、事業主が東京都と交渉するのか、容積率や高さ制限が変更になっている。国立教育研究所はつくばへ移転して跡地に共同住宅が建った時は変わらずだったが、東京学園高校跡地の後に建った共同住宅は地上4階建て、高さ12mとなっている。
このトゥルニュソル像の背景に羽田空港に着陸(南風時、15-19時)する航空機が視野に入る。

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