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JUST STOP 拉麺

俺も明日から晴れて大学生である。なんか一年遅い気もするけど多分気のせいだと思う。で、それは要するに自分が行動するテリトリーが変化するということであり、こういう時に大切になるのは昼飯で食べに行く先の目星をつけておくことだ。思い返すと、御茶ノ水ではやたらうどんを食っていた気がする。しかし、これは俺が悪いのではなく、近くの牛丼屋が松屋ではなく吉野家で、その上神保町に食べに行くほどの余裕を昼に与えてくれない変な予備校が悪い。こういう状況下では呑気に昼飯に何を食べるか迷っている暇がないので、すぐ食えてあまり高くないうどん屋に流れるのは自然の摂理なのだ。水が低いところに流れていくように、浪人生はうどん屋に流れていくとはよく言ったものだと、改めて感心する。
とはいえ、これからは天下の大学生なのだから、そういう風に行き先がワンパターンになってしまうのは避けたいところだ。もちろん、大学構内にも食堂はあるだろうが、毎回そこで済ませようというのは結局うどん屋通いに毛が生えた程度の変化しかない。そこで、早稲田キャンパス近辺の飯屋を調べてみることにした。
※余談だが、同様の調査を駒場でも実行したところあまりの層の薄さのため一瞬で終了してしまった。どこの大学生が駒場などに用があるのか知らないが、その悲惨さに自分の中の早稲田愛が高まっていくのを感じた。

さて、ランチマップを参考に早稲田通りの飲食店を俯瞰してみると、ある種類の飲食店の数があまりに多いことに気付く。言うまでもなく、ラーメン屋である(次点はうどん、つけ麺、カレーあたりになるだろうか)。先日キャンパスに行った時を思い返してみても、立ち並ぶ飲食店の中ではやたらとラーメン屋ばかり目立っていた。確かに俺もラーメンは好きだ。ついでに、ラーメン屋が食わせるような炒飯はもっと好きだ。しかし、なぜここまで多いのか?最近一風堂に行きすぎて飽きたから他の店に行こうと考える学生の中で、誰が天下一品をその日の行き先に選ぶだろうか?一風堂で食べ飽きたような人間はラーメン以外を食べにいくはずだし、当然その逆も同様なのでこんなにラーメン屋があったところで大してメリットがあるようには思えない。ラーメン屋それぞれで麺とかスープが違って同じラーメンでも全く味は違う?確かにお前はラーメンの違いが分かる人間なのかもしれないが、誰もがお前のようなラーメンマイスターではない。もちろん味噌ラーメンと塩ラーメンが違うことくらい誰でも知っている。しかし同じことを繰り返すようだが味噌ラーメンに慣れた者が塩ラーメンを食べたところで新鮮な気持ちになどなりはしないし、違うものが食べたいのならラーメン以外を食べた方が明らかに理に適っている。それに数ある料理の中でラーメンばかりがこのように持て囃される理由は何か?とかくラーメンというやつは脂っこい食べ物で、食べ過ぎはどう考えても身体に毒だし、同じ麺ならそれこそうどんなどの方が遥かに健康によい。実際、国内で見ると3食讃岐うどんの香川県民は平均寿命が高水準であるのに対して3食喜多方ラーメンの福島県民はやや低い水準を記録している。であるにもかかわらず、人々はうどん屋ではなくラーメン屋をやたらと有り難がる。このデータから導き出される答えは、つまり人間誰しも無意識下に抱いている「死に向かう欲動(トーデストリープ)」の現れが現代の都市に蔓延るラーメン屋であるということだ。

かつてフロイトは『快楽原則の彼岸』において人間には無意識の自己破壊的傾向があると指摘したが、日本においてはその自己破壊的行為はラーメン屋通いによって遂行されてると解釈することができる。同様にフロイトの理論に立つと、死への欲動_すなわちラーメン屋に行くことである_は快楽原則に従わず反復それ自体を目的化するという。言わずもがな人間が昼食の快楽を最大化するためには毎日違うものを食べてそのバリエーションを楽しむことが必要であるし、同じ種類のものを食べ続けることは料理の効用を低下させてしまうため、快楽原則にはそぐわない行為である。しかし、ラーメン屋通いを反復させること自体が目的ならばどうだろう?この快楽原則に従わず自我の抵抗を妨げる反復行為は、まさにフロイト理論における死への欲動の顕著な特徴である。とはいえ、毎日毎日同じ店で同じラーメンを食べるというのは単調でいかにも味気ない行為だ。単にこれを繰り返すだけでは、やがて無意識だった死への欲動は我々の自我が意識できるところまで浮上し、それがはっきりと「生の本能(エロス)」によって妨げられることになるだろう(もっとも、フロイトはトーデストリープがエロスによって容易く妨げられることはないとしているが)。ラーメン屋がやたらとたくさんある理由がここにある。つまり、毎日ラーメンを食べつつも店だけは変えることによって変化を印象付け、自我が死への欲動を意識できないようにしていると考えられるだろう。
フロイトの言うように、我々の生が「死への欲動との闘い」であるならば、我々が今すべきことはラーメン屋に行くことをやめ、カレー屋とか定食屋に行くことだ。結局のところ世のラーメン屋は人間が死の欲動ゆえにラーメン屋に行くことを辞められないという性質を看破し、それを逆手にとって金儲けをしようという魂胆なのであるが、それを粉砕し悪魔的衝動との闘いに勝利するのか、あるいは学校近くの家系ラーメンに通い詰めて悪魔に魂を売り渡すのかは我々の心持ち次第なのだ。しかし残念、私がこうして警鐘を鳴らしたところで人々の昼食事情は何一つ変化しないのだろう。非生命へと進む大きな力のうねりに矮小な有機生命体一個が抗えるはずがないのだから、ラーメン屋は今日も商い中の札を下げて営業できており、その客足も未だ途絶えてはいない。


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