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嘘旅行記:アルゼンチン編

火山灰降り注ぐヨーロッパを脱出し、僕が次に目的地としたのはアルゼンチンである。猛暑の夏はまだ終わっていない。北欧の避暑が不可能となれば、南半球に向かうことは必然であろう。そう思ってブエノス・アイレスに到着したはいいが、僕の期待はいとも容易く裏切られた。暑いのである。信じ難いことが起きている。アルゼンチンは真冬のはずだ、それなのに、気温を見るとブエノス・アイレスは30℃!半袖半ズボンで波止場で釣りをしていた中年の男性は、何故だか今年は異様に暑いとこぼしていたし、今年が異常ということなのだろう。しかし、逆に言えば日本を出て本当に良かった。アルゼンチンですら30℃なのだから、おそらく現在の東京の気温は60℃くらいだろう。アルゼンチンが酷暑であることは不幸だが、しかし少なくとも日本にいれば瞬きの間に僕の命は燃え尽きていただろうから、九死に一生を得た思いでもある。

しかし、いずれにせよブエノス・アイレスはもはや人間が暮らすのに適した都市とは言い難い。仕方がないので僕は、アンデス山脈の麓に位置する高原の都市メンドーサに向かうことにした。国内線を使えば2時間弱で着く距離だ。こうして、降り立って半日もしないうちに僕はアルゼンチン最大の都市をあとにしたのだった。飛行機の窓からはるか下に見えたサン・マルティンの銅像の横顔が、何故だかひどく冷淡に見えた。

さて、アルゼンチンといえばワインの名産地だが、そんなワイン・カントリーの中でも中枢を担うのがこのメンドーサという都市である。雄大な山々と広大なブドウ畑に抱かれた風光明媚な街は、10歩歩けばワインセラーに当たり、公園の蛇口を捻れば赤ワインが出てくる。どうやら随分と未成年の水分補給が難しい街のようだ。蛇口からワインが出てくるのにワインセラーは儲かるのか?と最初は思ったが、すぐにそれが杞憂であると知った。確かに蛇口のワインは間違いなくワインそのものだが、しかし腕利きのワインセラーが厳選したワインと比べれば、それは「お水」でしかなかった。日頃ワイン後進国日本で暮らしていた僕たちがワインだと思っていたものは、ワインの枢軸であるアルゼンチン国民にとっては「お水」に過ぎなかったのだと思い知った。一度ここのワインを体験してしまえば、もはや二度と日本のワインなど飲めはしないだろう。美酒によって僕は重い十字架を背負うことになったわけだが、何故だかその十字架が心地よくも感じられた。アルゼンチン・ワインの前では、人は皆無垢な赤子でしかないのだ。

サン・マルティンとはブエノス・アイレスで別れたと思っていたが、なんとメンドーサにもサン・マルティン公園が存在したのですぐに再会を果たすことができた。今日は休日だったらしく、多くの男女が彼のスタチューを囲んでタンゴを踊っていた。遠巻きにそれを眺めていたら、ある貴婦人が僕に声をかけてタンゴに誘ってきた。僕のごとき異邦人はタンゴなど踊れないだろうから、与し易い相手だと踏んだのかもしれない。だが、生憎それは間違いだ。僕は幼い頃からアルゼンチンタンゴの稽古だけは欠かさず行ってきたので、国内でも五本の指にはいるアルゼンチンタンゴの実力者であるという自負がある。実際、見かけによらない僕の華麗なダンスに感銘を受けたのか、貴婦人はどこか感激した様子でダンスの後で僕に一枚のメモを渡してきた。それは郊外の隠れ家的なワイナリーの場所を示した地図だった。興味を惹かれた僕は、それに従ってワイナリーに行ってみることにした。すると先ほどの貴婦人が出迎えて案内をしてくれた。どうやら彼女がここのオーナーのようだった。ブドウ畑を望む応接室で、彼女は僕のために一つワインを開けてくれた。それを用意したスキンヘッドのソムリエは、僕にワインを注ぎながら説明を始めた。
「…これは、1945年のロマネ・コンティです。この年は猛暑であり、そのため極めて濃厚な仕上がりとなっています。しかしこの年は雹と霜の被害があり生産量が落ち込んだばかりか、第二次世界大戦の終戦間際にブドウ園が爆撃されたため大多数のワインは失われました。迷宮のように複雑に入り組んだ香り、多層で深みのあるフルーツとスパイスの風味、シルクと間違うほど滑らかな舌触り、素晴らしいワインが必要とするあらゆるものを兼ね備え、それでいて驚くほど希少。まさしくヴィンテージワインの帝王と呼ぶに相応しい逸品です。」
ソムリエの歌うような説明を聞きながら、僕は驚きを隠せなかった。1945年のロマネ・コンティなら僕も噂に聞いたことはある。かような貴重な品を僕に分けてくれるというのか。そう思ってマダムに視線を送ると、彼女はただ微笑みを返しただけだった。まさかこのような素晴らしい機会に巡り合うとは誰が予想できただろうか。ああ、タンゴをやってきて本当によかった。

先日味わった稀代の美酒の余韻も冷めやらぬまま、僕はメンドーサを後にして次の目的地に向かった。果てなき原野広がるパタゴニア、その南端に近いエル・カラファテだ。広いパタゴニアの移動は容易ではないが、先日の貴婦人がオープンカーを融通してくれたのは渡りに船であった。実は卓越した運転技術も備えていたスキンヘッドのソムリエによる運転で、僕はパタゴニアの自然を愉しみながら目的地に辿り着くことができたのだった。エル・カラファテは氷原に面した町だ。絶え間なく移動を続けるペリトモレノ氷河にお目にかかれるロス・グラシアレス国立公園へはここからアクセスできるのだ。このペリノモレノ氷河までわざわざ僕が足を運んだ理由は、一つの興味深いアクティビティにある。それが「氷河サッカー」だ。あのブラジルに比肩するサッカー大国であるアルゼンチンらしく、氷河の上もサッカー場にしているのだ。僕も早速他国の観光客たちと一緒にサッカーを始めた。フィールドが滑るため蹴る力に対してボールが非常に遠くまで進むので、思わぬ形でゴールインしたり場外に出てしまう点が面白く、また無闇に走り回っては氷面が磨かれて滑りやすくなってしまうため、いかに自チームにとって有利な氷のコンディションを作り出すかという駆け引きが大変戦略的だ。相手チームにはホセという強力なストライカーがいた。彼はドリブルの間ボールに氷片を纏わせてシュートを放つのだが、これによって滑りやすくキャッチしにくいボールとなるため幾度となく僕たちはゴールを奪われていた。そこで、彼に対抗するため一計を案じることにした。先に言った通り、このフィールドは氷河だ。なので、常にマジでほんの少しず〜つ動いている。ゴールキーパーがゴールを押さえつければ、ゴールだけが氷河の移動から疎外され、フィールドとゴールの位置関係が変化することになるのだ。当然、これによる変化はほんのわずかだ。しかし、達人同士の命を賭けた戦いではこうしたわずかの差異が明暗を分けるのだ。狙い通り、ホセは途端に狙いを定められなくなり、精彩を欠くシュートしかできなくなってしまったのだった。そして僕たちは逆転し、124-67の大差をつけて勝ちを収めることができた。試合終了後、ホセは僕に詰め寄ってきた。
「人生とは無情だ、天は俺を生み出しながら、なぜお前まで生んでしまったのだ!」
彼はそう絶叫すると、そのまま全身から血を吹いて憤死してしまった。優れた才を持っていた彼の死はまことに惜しいものだったが、一歩間違えば今苦悶のうちに死んでいたのは彼ではなく僕だったのだろう。達人同士の死闘に憐れみは無用だ。僕はただ、一人の偉大な戦士の霊を慰めるために、氷河の中に彼の遺体を埋め込んで厚く弔った。氷の中であれば、悠久の時を経てもその肉体を素晴らしい状態のまま保存することができる。彼を失わないためにも、この氷河を溶かし消滅の危機に陥れている地球温暖化は必ず食い止めねばならないと僕は決意を新たにするのだった。

ロス・グラシアレスまで来たのだから、次の目的地はすでに決まっていた。この国立公園にほど近く、パタゴニアの荒涼とした原風景を体現する名峰、ドーレス・デル・パイネを見にいかねばなるまい。ソムリエからそのまま譲り受けたオープンカーに乗り込み、「Por Una Cabeza」のメロディを口ずさみながら国境を越えていった。夏の終わりはもうすぐだ。


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