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カレイライスの廛(みせ)

懇意にして居る社長との会合を終え淺草あさくさの街に出てみると、とおりは人でごった返して居た。群衆の頭上には、彼の有名な凌雲閣りょううんかくが見える。人々はやれ淺草十二階あさくさじゅうにかいだのと持て囃すが、あのビルヂングにつねに見下されているような気持がして、此処に来る度、おれはどうにも落ち着かぬ心地になるのであった。

しかし腹が減った。あの社長のはなしあまりにも長いもので、昼飯時はとうに過ぎて居ると云うのにおれは何も口にして居なかった。今直ぐに何かを口にしたかった。そこに、"猫寅亭"と記された矢鱈と豪奢な看板が眼に止った。社の若手が近頃しきりに話題にして居る洋風料理屋と云う奴に違い無かった。池井戸潤の小説である「BT’63」と云う作品に同じ猫寅と云う名の人物が登場するのだが、おれは最早そんなことには構って居られなかった。おれは迷わずみせの戸を潜った。金色の鈴の様な物が頭上でちりん、ちりんと鳴るのが聞えた。直ぐに気取った格好をしたボウイが飛んできた。このみせの従業員らしかった。
「何名様で御座いますか」
ボウイはそう尋ねてきた。此の野郎、おれが一人以外の何人に見えると云うのか。あまりの侮辱に踵を返して遣りたいと思ったが、今は其れよりも食欲が優った。
「一人」
内面に沸き立つ怒りを堪えて、おれは辛うじてそう応えた。そのことばうなずくと、ボウイは奥の卓へおれを誘った。此れ以上ボウイとことばを交す気持にもなれず、おれは黙って其の卓に腰を下ろした。ボウイはそのまま引っ込んで行った。と思えば、直ぐに今度は水を持って寄越してきた。礼は云わなかった。日頃礼儀正しいと他人に称されるおれでも、先刻の侮辱は消え難い苦々しさを伴っておれの胸に残って居た。洋風料理屋になど入ったのは初めての事だったので、おれは何を注文しようかメニユーを見ても決めかねて居た。そんな事をして居ると、隣の卓に座った男女のはなしが聞えて来た。
「何を頼もうかしら」
「案ずることはないよ、ヨシ子君。此処はカレイライスが名物だからね」
「マア、それは印度いんどの料理を基に作ったというあの?」
「いやいや、ヨシ子君、確かに其れと呼び名は同じだがね、此処のみせは魚のカレイをライスに載せた物を喰わせるのだ、ははは」
いやだわ、丞ノ助じょうのすけさんたら、私を揶揄からかって居るのね」
下手な冗談だと思った。実際、ヨシ子と称ばれた女子おなご悉皆すっかり気を悪くして席を立ってしまった。男の方を窺ってみれば、余程己の冗談に自信があったのか釈然としない顔をしてみせていた。女子おなご揶揄からかっておいて其は無いだろう、とおれはひそかに眉を顰めた。
だが、おれは同時におもしろい、とも思った。生まれてこの方洋風料理屋など行った事の無かったおれであるが、カレイライスだけは料理上手の妻が偶に作ってれていたからだ。おれの妻が作ったカレイライスより旨いカレイライスなど世界に存在する筈は無いが、どれ、名物と云うのであれば御手並拝見と行こうではないかと、おれは心を決めてボウイをんだ。
「カレイライス一つ」
ボウイは能面の様な表情を崩さずは、と一言発しただけでまた奥に引っ込んで行った。その無愛想な態度に腹が立ったおれは、ボウイを見送りながら
餓鬼奴がきめ
と思はず毒づいて居た。

待つ事十数分、漸くボウイが料理を運んで来た。
「御待たせ致しました。カレイライスで御座います」
あまりの空腹に腹が唸り声を上げて居たおれは、頂きますと云うのもそこそこに、食事に喰いつこうとした。だが、其処でおれのスプーンは止った。鼻腔を擽る筈の香辛料のかおりは無く、訝しんで料理に眼を遣ると、大きな魚が皿に盛られたライスの上に載っていたからだった。又しても此の客を客とも思はぬ巫山戯ふざけたボウイが俺を揶揄からかったのだと思った。もうおれは限界だった。此の野郎、おれはカレイライスを注文したのだぞ、注文通りの料理を持ってくる事も出来ぬのか、とボウイを呶鳴どなりつけてやろうとした。が、ふとおれの脳裏に先刻の男女の遣り取りがよみがえって来た。まさか、あれは冗談ではなかったのか。慌てて先刻の男の方に眼を遣ると、席を立った筈の女子おなご迄もが何事も無かったかの様にカレイライスを喰っていた。あまりおどろきにおれは腰を半ば浮かせたまま硬直して居た。ボウイは暫し怪訝な顔をして見せたが、おれが吃驚びっくりしているのだと察したのか、何も言はず立ち去って行った。あのボウイにすら気を遣はれた事で、ほろ苦い敗北感がおれの胸に去来するのであった。

事此処に至っては、最早腹を括って此のカレイライスとやらを喰うしか道は無かった。幸か不幸か、おれはカレイの味にも一家言が有った。宮城の漁師の家に生まれたおれは、幼い頃より親父が釣って来たカレイを度々食していたので、人一倍カレイの味にはうるさかった。どうせ東京で真面まともなカレイが喰える筈が無い、此奴等は本当のカレイを喰った事がないからこんな物を有り難がれるのだ、とおれは決め付け、カレイライスを口に運んだ。

紛れも無い、本物のカレイの味がした。

後頭部を一撃されたかの様な衝撃であった。よもや、東京で此れ程迄に旨いカレイを喰わせる店があったとは、思いも寄らぬ事であった。同時におれは、宮城の故郷と親父の事を思い出して居た。流行病はやりやまいでおれの幼い頃に逝ってしまった母の代りに、男手一つでおれを育ててれた親父。弱音の一つも吐かず、おれを育て上げてれた親父。大學だいがくに入るので上京すると告げた時、俺の前で初めて顔をくしゃくしゃにして、
「そうか。お前も、立派に成ったな」
と云った親父。一年前、漁の途上で突然倒れ、其のまま海の上で逝った親父。東京での暮らしも立派に成ってきて、いよいよ親孝行と云う時の死であった。まだおれは親父に何も返せて居なかった。
「親父………」
気付けば、おれは誰憚る事無くなみだを滂沱と流して居た。隣の丞ノ助じょうのすけがそんなおれを見て訝しんでいたが、もはやそんな事はどうでもよかった。食事も手に付かず、いつの間にか俺は料理を残したままみせを出て又淺草あさくさとおりに立って居た。カレイライスは眼が飛び出る程高価であった。

其の翌日、おれは馴染みの大衆食堂で焼魚を齧りながら二度と洋風料理屋など行くものかと心に固く誓った。


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