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Singularity~VOCALOIDと人の交わる場所~

はじめに


皆さん、はじめまして。Klayn(くらいん)と申します。普段はのんびりとボカロやその他音楽を聴いたり、ボカロをいじって曲を作ったり、TwitterでTLのオタクといろんなジャンルの話で騒いだりと、何かと平和なリスナー生活を送っております。
この度、obscure.氏主催の「 #ボカロリスナーアドベントカレンダー2021 」に参加させていただくということで、沢山の強火リスナー様達に囲まれて、僕の体は暖かい火とは対照的に緊張で小刻みに震えておりますが、僭越ながら精一杯語ってまいりますのでどうか最後まで付き合ってくだされば幸いです。


人とボーカロイドとの関わり


さて、早速大きな質問をいくつかするのですが、あなたは




ボーカロイドのどこが好きですか?

ボカロの「声」が好きですか?ボカロを使った「曲」が好きですか?VOCALOIDという「技術」が好きですか?ボカロを通した「文化」が好きですか?その他の部分に好きな要素がありますか?




ボーカロイドとどういう関係ですか?

歌う者と聴く者の関係ですか?歌う者と歌ってもらう者の関係ですか?それ以外ですか?
その関係は1対1ですか?それとも1対多ですか?
その関係に上下関係はありますか?それとも対等ですか?




ボーカロイドとどういう距離感にいますか?

アイドルとファンのような距離ですか?もっと遠いカミサマのような距離ですか?それとももっと近くで寄り添ってくれる家族や親友のような距離ですか?
ボーカロイドとの間に何かしらの「壁」はありますか?その壁は超えられますか?
ボーカロイド作品の舞台上に人間は必要ですか?不必要ですか?自分は必要ですか?不必要ですか?




想像してみてください。




おそらくこの記事を読んでくださっている方の大半は少なくともそれなりにボーカロイドが好きで、生活の中にボーカロイドという概念が定着している人達だと思います。そしてそういう人達は、大小や明瞭度に違いはあれど、今想像してもらったような「ボーカロイドとの関わり方」、「ボーカロイド観」のようなものを持っていると僕は考えています。

申し遅れました。私、「人のボーカロイド観を喰らって生きるオタク」、Klaynと申します。
ボーカロイドを愛する人の数だけその人なりのボーカロイド観と関わり方があり、その価値観や意識や感情は今この瞬間にも文、絵、音などいろいろな媒体によって表現され続けています。
今回はその中から一つ、あるボカロPと初音ミクについてお話ししたいと思います。

(※ここからは僕自身の楽曲解釈要素が多量に含まれます。あくまで解釈なので事実または作者本人の見解と異なる部分が存在する可能性があります。ご注意ください。)


初音ミクになろうとした男


皆さんはシンギュラリティという言葉をご存知でしょうか?
Wikipediaによるとシンギュラリティ(技術的特異点)とは人工知能の進歩の概念で、「人工知能自身の自己フィードバックで改良・高度化された技術や知能が、『人類に代わって文明の進歩の主役』になる時点を指す。」と書いてあります。元々は人間が作り出したはずの機械が技術の進歩によりどんどん成長していき、いつしか人間に追いつき、追い抜いてしまう。そんな機械文明と人間文明の特異的な「交点」のことをシンギュラリティと言います。

Singularity / keisei


この楽曲は初音ミクの10周年イヤーである2017年に投稿され、その年のマジカルミライ楽曲コンテストにてグランプリに輝いた作品です。往年のミクノポップを思わせる懐かしいながらも若々しいサウンドと、これまでの道のりや今にも目を向けつつさらに未来へ進む力をも与えてくれる明るい歌詞が特徴的な素晴らしい作品で、僕自身もとても好きな楽曲です。
そしてタイトルは前述した「シンギュラリティ」。
前置きが長くなりましたが、今回はこの楽曲に対する僕の解釈を通して彼(keisei氏)のボーカロイド観を紐解いていこうと思います。

今きみと迎える Singularity

冒頭のこの歌詞の通りこの曲は今目前にある「シンギュラリティ」がテーマとなっています。しかし、その「シンギュラリティ」は上で述べたような原義のものではなく、「今君と迎える」もの、つまり「機械」の側である初音ミクと人間との間に起こるものであるとこの時点では考えられます。

誰かの声がして ふり返る
そこに在るのは只ぼくらの足あとだけだ
なぜ進む?なぜ止める?そんな事問う暇も失く
夢中で惹かれてぼくらは集まった
悔しかった日の帰り道 口をつぐんだ言葉
読んでしまった空気さえ
もう今はわすれて
描いたままの地図 夢に浮かんだ朝
みんなでとび立とう


振り返った先に見える過去には初音ミクと人間→「僕ら」の共に歩んできた道筋があり、そこには悔しさや悩みのようなものもあったけれども、今はただ惹かれ合うがまま未来に向かって共に進んでいこうとしている、ということが表現されています。

そしてここからがサビです。

今きみと迎える Singularity
透明なプリズムが集まってきらめいたヒカリで
今きみと向かえる Singularity
悲しみも喜びも分け合って重なった想いで

そして

今きみとぼくはひとつになる


「今きみとぼくはひとつになる」です。このフレーズこそこの楽曲に込められた初音ミク観の本質と言えるでしょう。ここで注目したいのが歌詞における人称代名詞の使われ方です。「今きみとぼくはひとつになる」。これは恐らく作中における「シンギュラリティ」という現象そのもの、つまり初音ミクと人間が交わるということを表していると考えられます。しかし、ちょっと待ってください。一つ疑問に思いませんか?


「これ、『きみ』と『ぼく』のどちらが初音ミクでどちらが人間なんだ?」

冒頭やサビ頭の「今きみと迎える Singularity」もそうです。この歌を初音ミクが歌っているという事を考えればここでの「きみ」は人間側という事になります。しかし、この楽曲の歌詞を書き初音ミクに言葉を与えたのは紛れもなく人間側のkeisei氏です。この曲が初音ミクに対して贈られたものであるのなら、「きみ」は初音ミクという事になります。さて、どっちが正解なのでしょう。


その答えは、「どちらでもよい」となります。「ぼく」と「きみ」のどちらを初音ミクとしても良いのです。解釈の自由という話ではありません。この2つの解釈はそもそも同一のものなのです。
ここまでの歌詞を見てもらえればある程度分かるのですが、この楽曲の歌詞には、「僕を」、「君に」のような、「ぼく」もしくは「きみ」への方向付けをする表現が一切使われていないのです。「ぼく」や「きみ」に続くのは専ら「と」であり、それは「きみとぼく」→「僕ら」を表しています。
つまり、「ぼく」と「きみ」のどちらを初音ミクとしても歌詞の表す内容は一切変わらず、初音ミクとkeisei氏は曲中で完全に並列され、もっと言えば重なり合って両者の区別ができない状態にあるとさえ考えられるのです。
「ぼく」と「きみ」はそれぞれ初音ミクでもありkeisei氏でもある。両者はそれぞれ「歌声」と「言葉」を持っているが、その二者は曲中では区別できず、重なり合ったひとつの存在として現れる。それこそが「今きみとぼくはひとつになる」の真意であり、その”Singularity”もとい「単一化」を経て生まれた一体の「初音ミク」こそkeisei氏の思い描いた「初音ミク像」なのではないかと僕は考えました。
彼は「初音ミク」になろうとした。歌声を持つが自発的な言葉を持たない初音ミクに自分の言葉を与え、自分の言葉を真に「初音ミクの言葉」とするために初音ミクとひとつになろうとし、なってしまったんだ。マジカルミライのライブステージで耳に飛び込んできた「今きみとぼくはひとつになる」という言葉を聴いて僕はそう思う事を止められませんでした。ライブ前にクリエーターズマーケットには一度訪れていたがライブ終わりにもう一度挨拶をしようとkeisei氏の元を訪れましたが、声はかけられませんでした。「初音ミク」と会話する方法が僕には分かりませんでした。


おわりに


さて、今回は一つの例と解釈を挙げながらボーカロイド観について語っていきました。しかし、ボーカロイドの見方というのはこれが全てではありません。人には人のボーカロイド観があり、これが正解などというものはありませんし、『Singularity』以外にも様々なボーカロイド観が沢山の人の手によって表現されています。
その中でも僕が個人的に好きな作品を音楽・動画作品に限定して十作選んだので、是非興味がある方はお目を通してもらえると嬉しいです。


また、作者のボーカロイド観が特に顕著に浮き出る「VOCALOIDと歌ってみた」というジャンルについてまとめた記事も先日公開したのでこちらも興味のある方はご覧になってみてください。


ではまた、どこかの記事でお会いしましょう。ここまで読んでいただきありがとうございました。

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