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つまらないもの

グラフィックは、1990年代に成熟した。長いあいだメディアによって黙認され、芸術の遠い親類として受け入れられていたわれわれ「デザイナー」は、こんにちでは引く手あまたの存在である。実業界はわれわれを熟練した専門家として尊重し、文化人たちはわれわれを認め、社会はわれわれを必要としている。そしてわれわれ自身はといえば、われわれの歴史、批評、広報活動に満足している。

 われわれが、このように「たいしたもの」になるためには約80年間が必要だった。しかし円熟の絶頂にいるいま、われわれは栄光の輝きを得ているのに、人びとはわれわれを「あらたなつまらないもの」にしようとしている。
(中略)
グラフィックデザイナーは印刷所に戻り、コンピューターはわれわれの多くを生産部門の芸術家に変えた。しかし衰退の本当の兆しは、単純である。つまり、われわれは、次第に仕事を見つけるのが難しくなったのである。
(中略)
もちろん歴史は循環している。グラフィックの不運が長く続くと考える理由は、ひとつもない。デザインが全ての人に必要だということは、良くわかっている。しかしそれは「新しいもの」がピクセルを前に進め、ポスターを作らず、本を構想せず、インターネットのサイトさえ作らないことを意味している。

スティーブン・ヘラー 「次の小さなもの」


デザイナーの作品は、変化しないものと変化するものの相互作用から生まれる。伝えようという思想や表現方法に関して習得した知識は、変化しないものに分類される。デザイナーの特徴や成り行き任せの主観的な解釈による空間は、変化するものに分類される。デザイナーが自由に仕事をすればするほど、これらの要素がはっきりとした形になる。綿密なデザイナーは、自分自身よりもテーマを解釈する。

(中略)

パソコンを使わずに自分の手で描き、デザインして作品を作るデザイナーは、毅然としていなければならない。なぜなら彼らは簡単には合理化されないという決意をしたのだから。彼らはクリックひとつで自分の作品をパソコンのモニターに呼び出したり、手直ししたり、その一部を人に送ったりすることができない。彼らは自分の計画、つまり一番最初の草案から複写の段階までどっぷり浸かっている。

シュテファン・ブンティ


読み終わらず放っておいた本を必要に駆られて再び開いたら、ちゃんと今の自分に必要な言葉が飛び出してくるのが面白い。
精密さは小賢しい。それが想起させるのは残念さに近い。

紙に手で描くこと、楽器を手で鳴らすこと。自分の声で歌うこと。
型はあっても自分の勝手でやって良い部分を残すこと。
精密さが約束されていない手段で、再現出来ないことを記録すること。

あの時助けていただいたJolt! Recordingsです