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「日本抒情派」について

 光森裕樹さんのサイト「tankaful」の「資料室」で「『現代短歌』関連書籍」「日本抒情派」の目次が公開されました。

http://tankaful.net/reference
http://tankaful.net/reference/r2
http://tankaful.net/reference/r3

 これは「Tri」第5号(ろんそう!号)に掲載した総目次のデータを加工してもらったものです。

https://note.mu/klage/n/n6dd95b0f8d84

 紙はパラ見できたりして楽しいのですが、検索という意味では使い勝手がよろしくありません。

 もともと光森さんは「季刊 現代短歌雁」の総目次を公開されていました。冨士田元彦さんが関わったというつながりで「Tri」掲載の『現代短歌』関連書籍総目次の掲載を打診し、ひきうけていただきました。ありがとうございます。

 書籍『現代短歌』についてはすでに記事をアップしました。

https://note.mu/klage/n/nd31f0230be53

『現代歌人文庫 冨士田元彦歌論集』(国文社)(以下冨士田論集)をもとに「日本抒情派」の紹介を試みます。
 
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 「日本抒情派」は、実質滝沢亘さんを主宰とする結社誌のように見えます。実質、というのは滝沢さんは主宰と名乗っていないからです。詩・俳句も入れた総合誌として構想され、刊行されたものです。俳句、詩、その他文章の連載は客員格の人たちが書いているように見えます。作品(短歌のみ)は五十音順に配置され滝沢さんもタ行のところにいます。とはいえ、同人・会員の別はあり、選も行われていたので、実態として、というか結果として主宰と見られても仕方ない状態で刊行するしかなかったというか……。

 関連年表をあげます。

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「日本抒情派」関連年表(作成・花笠海月)
 
1962年9月
『白鳥の歌』(短歌研究社)刊行。

1963年10月
「形成」退会。
『白鳥の歌』の製本不良をめぐる裁判→和解の過程で、間に入った木俣修と決裂。
(冨士田論集p.104-105)

1963年秋
「新雑誌創刊起案書」
予定では、「1964年3月号(創刊号)」A5、64頁、同人・会員300名(冨士田論集p.103)。

1964年3月
喀血(『断腸歌集』「あとがき」p.157)。

1964年6月
「日本抒情派」創刊号。
発病以来の大喀血(『断腸歌集』「あとがき」p.157)。

1964年7月
「日本抒情派」2号(7月号)。

1964年8月
「日本抒情派」3号(8月号)。

1964年8月26日
中井英夫・筑紫杏明・冨士田、滝沢と面会。「日本抒情派」終刊と聞いての訪問(冨士田論集p.108)。
※筑紫は「多磨」で滝沢と同欄。「日本抒情派」2~4号までメイン編集を担当。

1964年10月
「日本抒情派」4号(9・10月号)。終刊号となる。終刊後は「地平線」に所属(冨士田論集p.108)。
大喀血(『断腸歌集』「あとがき」p.157)。

1966年2月
『断腸歌集』(白玉書房)刊行。

1966年5月
喀血死(冨士田論集p.107)。

1966年6月15日
私学会館にて追悼会(冨士田論集p.108)。
 
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 第一歌集『白鳥の歌』の歌を刊行後、製本ミスと思われるものがみつかり、角川「短歌」に滝沢さんの意向により、お詫び広告を掲載。その後、「支払請求の訴えを東京地裁に起こされる」(冨士田論集p.105)ものの和解。その過程で師匠にあたる木俣修と訣別、「形成」脱会という結末になる。

 「滝沢には以前から野心、といっては御幣があるかもしれないが、「短歌」「短歌研究」に代り、俳句や詩も加え詩歌を総合した第三の雑誌を自分の手で手がけたいという構想があった」(冨士田論集p.105)。

 冨士田さんは滝沢さんに頼まれて印刷所・製本屋さんと面会したりしていたようです。資金の目途がつかず、「第三の雑誌」の計画は立ち消えになったとのこと。
 この雑誌はプランをこの時点で実現できそうなかたちに変えたのが「日本抒情派」……というのが冨士田論集(p.105-106)での説明です。

 年表を見ると、喀血のスキをぬうようにして「日本抒情派」を刊行しています。1964年に4冊刊行、そのまま終刊となりました。

 総目次でわかるように毎号テーマがあります。テーマに沿ってのゲスト原稿、他作品原稿などあります。ゲストは谷川俊太郎、金子兜太、高柳重信……といった豪華メンバー。
 連載は「現代詩の系譜」(島岡晨)、「現代俳句の系譜」(林田紀音夫)、「現代抒情論」(菱川善夫)。「quartetto」という全体テーマについての文章連載は岡井隆、塚本邦雄、前登志夫、山本成雄の4名。

 4号の住所録を見ると100名くらい掲載されています。会員に滝沢さんのサナトリウムと同じ住所になっている方が数名おられ、所内で歌会? 歌話会のようなものを持っておられた気配がします。
 他には、結社に所属しているイメージのない浜田康敬さん、最近歌集『寡黙の鳥』が復刊された長島蠣さん、玉井清弘さんが目に留まります。玉井清弘さんは経歴上、「まひる野」からスタートしますがその前に所属しておられたということになります。

 滝沢さんは4号すべてに歌を掲載。

 1号掲載無題の五首(p17)は『断腸歌集』に「蟻地獄」というタイトルで五首(p.112-113)がほぼそのまま掲載。五首目二箇所表記に変更あり。
 2号掲載の「個室にて」五首(p.8)のうち二首が、『断腸歌集』「黄昏に寄す」四首(p.114-115)のなかにくみこまれます。
 3号掲載の「六月二日」四首(p.11)は『断腸歌集』「六月二日」四首(p.116-117)として二首はそのまま、一首表記変更、一首改作して収録。
 4号は「夜の歌」十首(p.14)掲載。『断腸歌集』「鬼に與ふる歌」十首(p.118-121)としてほぼそのまま掲載(二首ほど表記、句点変更)。

 「日本抒情派」掲載の二十四首中二十一首を歌集に入れています。
 
 
 創刊号の「魔の山通信」(表3)には、「「日本抒情派」は「形成」(木俣修氏)とは全く無関係である。しかし「形成」会員が「日本抒情派」に入会を希望する場合は、いつでもあたたかく歓迎することを固く約束しておくたい。」と書かれています。
 しかし2号になると「すでにご存知の方も多いと思いますが、「形成」(木俣修主宰)二月号、「短歌研究」(木俣修編集・小野昌繁発行)五月号に、「日本抒情派」に対する悪質な妨害記事が掲載されています。」(p.24)とおだやかならざる内容になっていきます。
 3号になると「悪しき時流に汚染されることなく、志を高く持してあたたかい友愛の環をひろげてゆきたいものである。」(表3)とふわっとした表現にとどまっています。

 8月には終刊が決まっていたはずなのに(冨士田論集p.108)、4号の「魔の山通信」(p.34)には「同人、会員に原稿執筆を依頼することがあるが、依頼を受けた場合は必らず応じてもらいたいと思う。」とあり、特に終刊の告知や挨拶はありません。ただ、住所録掲載に触れた後、「活発な文通や往来によって相互の友情と連帯を一層深められるよう希望している。」と書かれ、誌面外での交流を推奨しています。

 「日本抒情派」終刊後、1年以上経って『断腸歌集』が刊行されます。

 『断腸歌集』「あとがき」末尾には「遥かなる魔の山より親愛と祈念をこめて、「日本抒情派」同行の諸君、「日本抒情派」に理解と支援をたまわった諸氏、ならびに「白鳥の歌」読者各位に謹んでこの書を捧げる次第である。」(p.158)と書かれました。

 「日本抒情派」と『断腸歌集』の間に何があったのか、私は知ることはできません(ある程度の手紙のやりとり、交流はあったことは推察できますが)。
 「日本抒情派」4号だけ見ると、滝沢さんは主宰誌を挨拶なく終わらせたことになります。しかし、『断腸歌集』を見ると滝沢さんのなかにずっと「日本抒情派」があったことがわかります。

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関連リンク
 
『現代歌人文庫 冨士田元彦歌論集』(国文社)
http://www.kokubunsha.co.jp/archives/ISBN4-7720-0215-4.html
 
『現代歌人文庫 滝沢亘歌集』(国文社)
「日本抒情派」後記にあたる「魔の山通信」収録。
http://www.kokubunsha.co.jp/archives/ISBN4-7720-0199-9.html

日本近代文学館
(「日本抒情派」創刊号所蔵)
http://www.bungakukan.or.jp
 
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