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すでに旧聞ですが

 すでに旧聞ですが、数日前にこのようなつぶやきをしており。

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https://twitter.com/hanaklage/status/964504973672198144
作文用に冨士田論集をひっくりかえしていて思い出したのだけど「現代短歌新聞」1月号の雲嶋さんの時評(p3)中で「フェスティバル律では、詩劇や映像作品」を「塚本邦雄や寺山修司、菱川善夫らも出品している」って書いてるんだけど菱川さんがスタッフクレジットされているのってないのでは? →
23:21 - 2018年2月16日

https://twitter.com/hanaklage/status/964504974909628416
→……といっても肝心の菱川著作集を確認しないで書いてるんで、そちらをみればなにかわかるのかもしれない。少なくとも冨士田論集p123-124の主なスタッフ・キャストのリストには入っていない。
23:21 - 2018年2月16日

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 「日本抒情派」を紹介しようと思って、冨士田論集を見ていてふと思いついて書いたものです。
 冨士田論集ってのは『現代歌人文庫 冨士田元彦歌論集』(国文社)のことです(以下同様の略称を使います)。
 
 その後、菱川著作集が確認できたのでこの件、補足します。
 
 
 結論から言うと菱川さんはフェスティバル律には出品側として参加しています。していないのではないか?というのはいいがかりでした。すみませんでした。
 
 それなのに私がなぜ「菱川さんいないのでは?」と思った理由は簡単で、冨士田論集では名前があがっていなかったからです。
 冨士田論集p.124で「夜の部には特別参加として北海道青年歌人会制作によるスライド『稚内』が上映された」とのみ記され、菱川さんの名前はあがっていません。
 6つの正式出品作品についてタイトルとともに主な役割分担も紹介されているのに比べるとかなりあっさりしています。


 これだけでは何ともということで沖積舎『菱川善夫著作集10 自伝的スケッチ 運動体への導火線』(以下菱川著作集10)を確認。p.118~123あたりに「フェスティバル律」に関わる記述があります。

 深作さんからの要請で作品制作にとりかかったこと、監修者としてまとめたことなどが書かれています。
 冨士田論集には「燃えやすい耳」のロケに同行したり、打合せをしたことなどが書かれていますが「稚内」に関わったという記述はありません。菱川さん側の記述にも冨士田さんは登場しないので、あまり関わっていないものと推察されます。

 で、菱川著作集10によるとフェスティバル律当日までに「稚内」が完成させられるかどうかという状況だったため、特別作品としてプログラムにも掲載しなかったとのこと(別に印刷したものを当日配布)。

 めんどくさいのは、出品6作品は作品をつくった人として何らかの役割分担がクレジットされている人が割とそのまま出品者となっているのに対し、特別作品の菱川さんは「監修」というふわっとしたクレジットになっているところです。進行兼監督兼事務みたいな立場で、いなくては作品は完成しなかったであろう立場なのだけど、何をやったいうのが見えづらい。

 そのへんが冨士田論集で名前のなかった理由で、私も忘れていた理由かと思います。

 たちかえってそもそもなぜ私が雲嶋さんの文章にひっかかったかを考えてみました。
 「現代短歌新聞」1月号の雲嶋さんの時評(p.3)に書かれている当該箇所を引用します。

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そのような短歌の舞台芸術化への試みは、しかし彼らに始まったことではない。たとえば、一九六四年に東京で開催されたフェスティバル律では、詩劇や映像作品(短歌がモチーフ)が舞台で上演されており、塚本邦雄や寺山修司、菱川善夫らも出品している。
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 「そのような」というのはこの前に書かれている野口あや子さん、福島泰樹さんの朗読ライブです。

 一読してなんか変だな?という印象がありました。冨士田論集をずっと読んでいたところだったので、そこを私は菱川さんの名前のところだと思ってしまったのですが、ここがまちがっていました。

 おそらく雲嶋さんの使っている「舞台」と私の思っている「舞台」にズレがあるところが、私に文章をスッと読ませない役割を果たしている。

 で、この時評、そもそもフェスティバル律がメインの話ではないのでふわっと書かれているのは当然のことです。なので、これから書くことはいいがかりのようなことなんですが。
 私にとって「舞台」とは映像は含まないので、「詩劇や映像作品(短歌がモチーフ)が上演されており」だったらおそらく最初の違和感はなかったのではないかと思います。

 そして「詩劇」というのはどれのことなのか。(私の感覚で)舞台といえるのは「青光記」「なるしす」「犬神」の3つ。「青光記」は「韻文劇」で「長歌体」、「なるしす」は「舞踊詩劇」で「ポエム」。いずれも「短歌がモチーフ」ではない。「犬神」は「呪劇」で「作歌」として寺山修司がクレジットされているものの、その台本内容は短歌と関係ない。※

※セリフというか音楽にのせてのセリフに五七五や七七など定型っぽくなっている箇所は多く含まれる。五七五七七になっているものもすこしはある。短歌がモチーフとなっているのではなく、七五調を利用したなかに短歌になっている部分があるというのが正しいと思います。

 で、短歌をモチーフにした作品がなかったのかというとそんなことはなく、映画「燃えやすい耳」があります。岡井さんの一首をテーマとしていると冨士田論集p.124に書かれています。
 また、「稚内」はどういうものか不明ながら、菱川著作集10p.121に作品内の短歌が引用されているので、短歌と写真(スライド)を使ったものであったことがわかります。

(↑で触れていない「孤独な女」は岡井の詩の、「催馬楽」は催馬楽のスライド化なので、七五調ではあるが短歌ではない。)

 「短歌」に関わる作品の出品者として名をあげるなら、岡井さん、菱川さん、北海道青年歌人会、「詩劇」の出品者として歌人の名をあげるならポエム担当の幸綱さんであったと思います。

 フェスティバル律のことを「短歌の舞台芸術化への試み」というのはどうなのだろうか。菱川著作集10p.119にフェスティバル律はどういうつもりのものだったのか深作さんの手紙からの引用として書かれているので紹介します。

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短い一首しか完成できない芸術家の不具性が、短歌を妙なものにしていると思うわけです。小生など、大きなスケールのものも、たった一首だけの勝負も両方出来るタレントが沢山出てこそ短歌はよくなると思うのですが
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 「大きなスケール」というのが具体的にどういうものなのか不明ながら、フェスティバル律の出品作品のラインナップを見ると、「短歌と舞台・映像」ではなく「歌人による作品と舞台・映像」のとりあわせを志向していたことがわかります。

 雲嶋さんの時評のテーマは「短歌」で、深作さんの問題意識とあきらかに違うように見えます。

 フェスティバル律についての文献は案外少なく、どういうイベントだったのかはわからない部分が大きいです。しかし、それでも残されたものからつかむイメージがあり、それが雲嶋さんと私でズレている。それがあらわれてしまった結果でした。軽々しくつぶやいてしまったことのフォローはこれで以上です。


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