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若林俊輔先生没後20年

雑誌の人

 「雑誌の人」であった若林俊輔先生について語りたい。

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 若林先生が62歳で東京外国語大学を退官されたとき、教え子の皆さんが、『私家版英語教育ジャーナル』というものを作ったことがあった。この名前はむろん、1980年に創刊され、若林先生が編集主幹を務めた『英語教育ジャーナル』(三省堂)の名前から取ったものだ。

 ちなみに若林先生が還暦を迎えたとき、還暦記念の論文集というものも作られていた。その2年後にまた論文集を作るというのではいかにも退屈であるし、失礼ながら、論文集というものはあまり売れないだろうから出版社も困るだろう。――ここは一つ、先生、退官記念雑誌というものを作ったらどうでしょう。なにごとであれ従来の慣行を破ってきた先生なのですから、ほかの学者さんがしないようなことをしてみるのもおもしろいと思います。名前は『私家版英語教育ジャーナル』ということでいかがでしょう――。そのような提案をしたのは、たしか、若林先生のお宅がある東京・武蔵小金井駅近くのお店でのことだった。

 私が会社に入ったのは1985年。だから若林先生が編集をされた『英語教育ジャーナル』を同時代の読者としては読んでいない。それどころか、私が英語教育雑誌の編集に携わるようになった1991年以降においてすら、実は、中身を読んだことはあんまりない。私はただ、自分の雑誌の企画が思いつかなかったとき、日本の主要英語教育雑誌の目次だけを集めた『英語教育雑誌目次総覧』(大空社)という本を見ながら、若林先生の作った雑誌や、『英語教育』(大修館書店)、『新英語教育』(三友社)、そして自分の先輩がつくった『現代英語教育』(研究社)などの目次を覗いていただけだ。

 ただ、目次だけ眺めていても、若林先生の作った雑誌には、あるきわ立った特徴があることはすぐに分かった。問題を提起するような、あるいは読者を挑発するような記事がやたらに多いという点である。

 一般に、雑誌の読者というのは功利的なもので、「オトク感」がないものは敬遠される。雑誌は熱心に読まれるものではなく流し読みされる運命にあるから、明日の授業に役立つような教材や授業のアイディアなど、さっと読んで「これ、使える」というような情報が載っているほうが売れる。読者に過剰な負荷をかけない、つまりreader-friendlyであることが雑誌作りの鉄則である。それに対して、文部省がどうのこうのとか、将来の英語教育はどうあるべきかというような「大問題」は、日々の授業に直面している英語教師にとってはやはり縁遠い存在であるし、「これをどう考えたらよいのか」というような問題提起型の記事というのは、自分の頭で考えてみなくてはいけないから、要するに、面倒くさい。
 
 しかるに、若林先生の雑誌たるや、この雑誌の売り上げを伸ばすための常識を踏み外す特集だらけ、reader-unfriendlyとしか思えない特集ばっかりなのである。創刊号からして「英語教育21世紀への展望」という特集だ。たしかに創刊号だから気負いもあったろうと思う。しかし、「新指導要領下の英語教育」「こうしてほしい英語教育」「いまなぜ『塾』か」「大学入試改善のために」などといった特集が立て続けに、これでもか、これでもか、というふうに続くのを見ると、やっぱり若林先生は問題提起をするのが好きで、「大問題」が好きだったというほかない。英語教材の特集を組んでも、「何を教材と考えるかを考える」という、ちょっと屈折のある切り口になってしまう。この雑誌は創刊3年で早々と幕を下ろした。

 では、編集者としての私はこの雑誌をどう思っていたのか。売れないだの、reader-unfriendlyだの、失礼な言葉を書き連ねてしまったが、実はこれほど参考にし、真似をし、そして真似がしきれなくて燃えるような嫉妬を覚えた雑誌はなかったのだ。たとえば、英語教育についてはどういう政策を立てていますか、と各政党の文教委員に尋ねて歩いた「80年代の英語教育政策を問う」という特集。政党などに文教政策、しかも英語教育などという個別の問題を聞こうなどと私ならハナから思わない。そんなもの、あるわけないだろう、という無力感が先に立ってしまうからだ。若林先生は違う。いや、先生とて、政党から英語教育への明確なビジョンなど引き出せるとは期待していなかったと思う。しかし政党であるからには英語教育についてもきちんとした政策を持っていて欲しいし、もしいま持っていなくても、このインタビューを機会に考えるようになって欲しい、そう若林先生は考えたに違いない。そういう強引さこそ、先生の先生たる所以であったし、私がうらやましいと思った点であった。いつだったか、「先生、あれは見事な企画でしたが、同時に無謀でもありましたねえ」と申し上げたら、「そうかなあ、でもあれはいま自分が読み返しても面白い特集だった」というお返事だった。先生にとっても、あの号は「してやったり」の思いがあったのだろう。

 私が先生の雑誌に学んだのは、売れる雑誌の作り方ではない。私が真似したいと願ったのは、対象へ向かう編集者の「姿勢」、つまり、人が人に向かって働きかけ、相手が変わるかもしれないことを真っ直ぐに信じる姿勢であった。考えてみれば、雑誌も、そして教育も、言葉を通じて他人に働きかける営みである。その意味で、若林先生は、雑誌編集のときにも、紛れもなく、ことばの教師であり続けていたのだ。

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 私は雑誌編集者であるから、若林先生を「雑誌の人」と見たいのかもしれない。しかし、少なくても、若林先生は「単行本の人」というより「雑誌の人」であったと思う。先生は、研究を着実に地道に積み上げてそれを1冊の本として発表するタイプというよりは、英語教育の現場や最前線を包んでいる空気のなかから語ることを好まれたように思うからだ。そういう先生にとって、雑誌とは英語授業の現場と同様、英語教育の最前線だったはずである。

 私たち編集者にとって、若林先生は本当に頼りになる先生であった。原稿の依頼はまず断らない。私は英語教育雑誌の編集者として過ごした7年のあいだ、原稿を断られたことがない。先生は、原稿の締切にも遅れない。ゲラの段階になってから未練がましくあれこれ手を入れるようなこともしない、「潔い」執筆者でもあった。そして、むろん、若林先生には、英語教育のことならどういうテーマについての原稿でもお願いすることができた。
 
 私が見るところ、先生が最も輝いていた時代は、1975年から『現代英語教育』に連載された「いっとうりょうだん」を書いていた頃、まだ東京学芸大学にいらっしゃったときではないか。先生は未だ40代前半。
 
 この「いっとうりょうだん」という1ページのコラムは、「YS-12」というペンネームで連載された。ただし、その文章には紛れもなく「若林節」とでもいうべきリズムと歯切れの良さがあって、名前を伏せられても若林先生の文章であることがすぐにわかる。このコラムの第1回目を読んでみよう。これは糸川英夫氏が日本の学校英語教育を批判している新聞記事を引用しながら、徹底してこれに反論している文章である。中学・高校6年間、英語をやっても役に立たない、だから一から自分でやり直さないといけないという糸川氏の文章を引いたあと、こう言う。

 「長い時間をかけて学ぶのに何の役にも立たない」と言う。ここにもことばの魔術がある。特に「何の役にも立たない」という言い方だ。ほんとうに「何の役にも立た」なかったのか。ほんとうにゼロなのか。やってもやらなくても同じだったのか。だいたい、こういうようなことを言う人にかぎって英語ができるのだから始末が悪い。そして「一からやり直」したと言う。ほんとうに「一から」でありますか。「一から」なんてウソばっかり。そういう人たちはたぶん「十」から先をやったのだ。

 最初の「ほんとうに」のあと疑問文を3つ畳みかけ、そのあと、ひらりと「だいたい~始末が悪い」と転調。そして、「ほんとうに『一から』でありますか」と口調を変えてもう一度食い下がったあと、一挙に結論に向けて爆走する。この、押したり引いたり、スピードを緩めたり加速したりといった緩急のリズムこそ、若林先生の文章の特徴であった。いま一度この文章を、一文一文、先生の呼吸を計るようにして、読み返してほしい。若林先生の近くにいた人ならだれでも、あの懐かしい声をいまも耳に蘇らせることができるはずだ。
          (2002年に書いた記事です)