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映画『スープとイデオロギー』(ヤン・ヨンヒ監督)

 以下の文章は、現在、上映中のヤン・ヨンヒ監督の映画『スープとイデオロギー』の感想文である(映画については、 (soupandideology.jp)を参照)。以下では、この映画に登場する荒井カオルさんーーこの映画の「エグゼクティブ・プロデューサー」であり、ヨンヒ監督のパートナーでもあるーーに敢えて焦点を当てて書いた。よほど私の記憶力が劣化しているのか、二回もみた映画だったのに、細部の記憶違いがあった。失礼を顧みず、荒井カオルさんに直接お尋ねして、2カ所ほど事実関係において訂正した箇所がある。荒井カオルさんには深く感謝申し上げたい。ただし、ほかにも記憶違いのせいで過ちがあるかもしれない。お気づきの点があればご指摘いただければ幸いである。

ミッキーマウスの赤いTシャツという奇蹟


 ヤン・ヨンヒ監督の「12歳年下」の荒井カオルさん(以下、カオルさん)が映画で登場するのは、ヨンヒ監督とカオルさんが結婚することになって、鶴橋のヨンヒさんの実家を訪れるシーンからである。結婚を承認してもらうべく挨拶に向かったカオルさんは、緊張しまくっており、9月(だったろうか)の暑い日にもかかわらず、スーツ姿、ネクタイの正装である。ヨンヒさんからは、そんな姿はじめてみたわ、とからかわれる。

 ぎこちない、しかし「お互いに仲良くやっていきましょう」という気持ちについてだけは、オモニとカオルさんは相互にちゃんと伝え合ったあと(ドキュメンタリーなのに、まるで事前に脚本が存在したかのような、「こういうシチュエーションでは、こんな会話して、こんな表情とこんな体の動きをするよなあ」と思ってしまうような絶妙のシーンだ。二度目に映画を見たとき爆笑してしまった)、カオルさんは、別室でネクタイとスーツを着替える。そして、短パンにTシャツ姿になるのだが、そのTシャツが、ミッキーマウスの絵が白抜きとなっている地が赤のTシャツである。先ほどの正装とはまったく逆の、リラックスしすぎのお姿である。

 Tシャツの柄は、下リンク先の一番左の赤バージョン(これも荒井さんに教えていただいた)。https://fashion.aucfan.com/yahoo/m1025896708/

 そのTシャツ姿がすごくいいと思った。

 カオルさんのtwitterによれば、カオルさんはTシャツを80枚ぐらい持っているらしいし、カオルさんとヨンヒさんに、あのTシャツのシーンは良かったと東中野ポレポレの会場でお伝えする機会があったとき、ヨンヒさんは、「あんなTシャツで登場すると思わなかった」とおっしゃっていた。カオルさん自身、あのTシャツはたまたま前日着ていたTシャツだったといっておられたと思う。[補足:実は荒井さんに直接メイルをして、Tシャツの柄には全く意図がなかったことを確認することができた。ご教示いただき、ありがとうございます]

 しかし、あのシーンで、カオルさんが、あのTシャツを着ていたのが全くの偶然であったとするなら、なおさらのこと、この映画にとって、それは奇蹟のような偶然にさえ思われるのだ。

 映画の冒頭、いまは亡くなったヨンヒさんのアボジ(父親のこと)が、娘のヨンヒさんと交わす会話が記録されている。親からすれば、中年を過ぎても独身の娘はなんとも心配だったはず。そのアボジは、娘に向かって、「誰と結婚してもいい」という。「ただし、アメリカ人と日本人はダメで、とにかく朝鮮人ならいい」といっていたのであった。「誰と結婚してもいい」という命題には、厳しい条件がついていたのである。

 それを見ている観客としては、このTシャツは、絶妙な意味を持つのだ。だって、このTシャツを着ているのは日本人であるカオルさんであり、Tシャツの柄はアメリカ(文化)帝国主義の象徴的存在のディズニーのキャラクターなのだから。よりにもよってそのTシャツか! カオルさんが結婚の許しを請うために鶴橋を訪れたときに、上の発言をしたヨンヒさんのアボジはすでに亡くなっていたーーにしても、これは殆ど映画的といっていいほどの偶然ではあるまいか。笑うほかない。

 私がこのTシャツが奇蹟だというのは、4・3事件や北朝鮮への帰国運動など、重いテーマを扱うこの映画において、何か非常に明るい笑いを映画に持ち込んでいるように思うからだ。この映画を見たあと、私はヨンヒ監督の前作『かぞくのくに』を見ている。2013年年のキネマ旬報ベストテン1位(日本映画)、読売文学賞(戯曲・シナリオ部門)を受賞するのに誠にふさわしい作品で、画面から目をそらさせない緊張感に満ちた作品だった。が、この映画には出口のない窒息感があって、それがちょっとだけ私には息苦しかった。

 その点、この映画では、カオルさんが、希望をもたらしてくれる存在として活躍することになるのだ。

 たぶんこの映画を見る人たちの多くが、ヨンヒさんのパートナーとなったカオルさんを見て、なんていい人なんだろうと思うだろう。金日成、金正日の肖像画が麗々しく飾ってある在日朝鮮人である自分の実家へパートナーとなるカオルさんを連れていって大丈夫だろうかとヨンヒさんは思ったそうである。ところが、最初のうちこそ、緊張していたカオルさんだが、Tシャツに着替えたあたりから、無類の人なつっこさを発揮して、この家になじんでいく。

 この映画の題名となった鳥のスープを作るシーンは3回あるが、最初はオモニがカオルさんのためにスープを作る。2度目はカオルさんとオモニが一緒に鶴橋の市場へ行って鶏肉や大量のニンニクを買い、オモニに作り方を教わりながらスープを作る。そして、3度目、今度はカオルさんが(ヨンヒさんと協力しつつ)スープを作る。この過程のうちに、カオルさんがこの家になじんでいっている様子がうかがえるようだ。

 86歳のオモニの家にとどいた「葬儀見学会」の案内の手紙。それを見たカオルさんは、「自分はこの宛先になっている人間の家の者ですが」と名乗って、この葬儀屋へ、「こんな案内を送ってくる神経が分からない」といって抗議の電話をかける。「家の者」(もしかすると「息子」と言っていたかも。ここ、記憶が正確でない)とカオルさんは言っていた。

 ヨンヒさんとカオルさん、そしてオモニが、民族衣装を着て、記念写真をとるシーンがあった。それは、再婚して幸せになって欲しいというオモニの願いを叶えるための記念撮影であり、同時に、帰国運動のために北朝鮮へ渡ってしまってなかなか自由に会うことのできないことの代償として、カオルさんが、いわば息子の代わりとして、新しい記憶をオモニとヨンヒさんとで作っていこうとする行為である。

 カオルさんはこの映画では、ひたすらヨンヒさんやオモニの人生の伴走者のような役回りである。ボケが始まったオモニの肩をもみほぐしたり、足をもんであげたりする姿とか、オモニを車椅子に乗せて押していく姿とか、私には妙に印象に残った。監督のヨンヒさんご自身も被写体として映画に繰り返し登場するが、ヨンヒさんはカメラを回す側でもあって、そのせいで、オモニの姿ほどではむろんないにせよカオルさんの存在が記憶の残るのかもしれない。

 「ケアする人」としてのカオルさんは、オモニだけをケアしているのではない。ヨンヒ監督を支える人でもある。それは人生のパートナーという意味だけではなくて、実際に、この映画の資金を出したからである。「高級外車が買えるぐらいに」制作費がふくらんで、資金が枯渇すると、カオルさんは記者としての仕事でお金を稼ぎ、映画製作の資金に充てたという。映画人ではなかったカオルさんはヨンヒさんに「プロデューサーってどういうことをする人なの?」と聞いたという。「いいプロデューサーは、お金は出してくれて、中身にはあまり口を出さない人」だといったという(笑)。実際は少しは口を出したかも知れないけれど、少なくても、カオルさんは、できる限り、そういう「金は出すけど口は出さない」存在として振る舞っているように私には見える。偉すぎである。

 「金に糸目をつけずに映画制作に直面する夫を蔭で支える賢夫人」(!)というのが、昔の流儀だったはずだ。そうした関係性はこの映画では全く逆になっている。そして、そんな伝統的な関係性を特に意気込むでもなく当たり前のことにようにして打ち破っているカオルさんの姿は、私にはとてもすがすがしく、「こういうのはすごくいい」と素直に思えたのであった。

 この映画は、もちろん、4・3事件や北朝鮮への帰国運動など政治的な問題をも含んだ映画であるが、もう一つ、この映画が扱っている重要なテーマは、肉親が年老いていくということ、そしてかつては反抗の対象であった肉親の人生を、その子どもが、どのように理解していくかという問題である。

 ヨンヒさんは、北朝鮮を支持する日本の朝鮮総連の幹部であった父を持つ。母親もまたその父とともに、北朝鮮を支持する人であった。3人の息子を帰国運動で北朝鮮に送った母親は、けして裕福なわけでもないのに、借金をしてまで息子たちに送金をしている。朝鮮総連的な価値観にずっと批判的だったヨンヒさんは、預金通帳の残高を見せながら、問い詰め、お説教をする。オモニのそのときの表情、言い訳はほんとうに切ない。娘にそんなふうに責められなくても自分が身分不相応のことをしていることはわかっている。わかっているが、それがやめられないのは、北朝鮮へ帰国させてしまった息子たちへの罪障感であり、辛い思いをさせてしまったという自責の念であろう。ヨンヒさんはオモニのそういう気持ちもちゃんと頭では分かっているが、オモニがなぜそこまで北朝鮮を信じ続けるのかが感情的にどうしても理解することができない。ということは、この母と娘は、論理ではなく感情の面で、相互に相手の言うことが認められないということだ。

 それでは、ヨンヒさんは母親の人生を感情の点でも理解できるようになったのはいつだろうか。それを考える一つの手がかりとして、ヨンヒさんが涙を流すシーンに注目してみる。私の記憶では、ヨンヒさんが涙を流すシーンは都合3回ある。

 1つは、オモニの認知症が進んでからのこと。おそらくは若い頃に覚えたであろう金日成をたたえる歌をオモニは歌集を見ながら歌ってみせる。それを見て、ヨンヒさんは涙を流す。このときのヨンヒさんの心に動いていたのは、おそらくは、こんなにも北朝鮮に裏切られながらも、その北朝鮮の指導者の歌を懐かしそうに歌うオモニの気持ちが不憫だったからだろう。ヨンヒさん自身は、在日朝鮮人作家で4・3事件を体験した金時鐘さんとの対談(https://imidas.jp/jijikaitai/F-40-233-22-06-G887)で、「言わば洗脳された母親を世にさらす残酷なシーンだという自覚をしながら」このシーンを入れたと語っている。

 一方、金時鐘さんは、同じこのシーンについて別の見方を提示している。金時鐘さんによれば、一番純粋な時期に自分のすべての力を投入したのが総連の活動であったのだから、オモニは、その純粋さを汚れたものにしたくなかったのだろうという。そして、その気持ちというのを説明するのにクロポトキンの日記からの文章を引用する。貴族階級に生まれながら無政府運動を続けたクロポトキンは、1917年のロシア革命では、アナーキストとして排除されることになる。そのことについてクロポトキンは日記のなかで「いいじゃないか、そこには私の至純な時期があったのだから」と書いているという。オモニの気持ちはこのクロポトキンの思いに近いのではないか、だから「オモニを恨まないでほしい」とヨンヒさんに語っている。オモニを理解しているのは、ヨンヒさんより金時鐘さんのほうかもしれない。

 もう1つは、済州島で開催された4・3事件の犠牲者の慰霊祭において、韓国の国歌をなんとか歌おうとしているオモニの姿をちらりちらりと横目で窺いながら涙をぬぐうシーンだ。ヨンヒさんもオモニも韓国の人ではなかったから、韓国の国歌を知らない。それでもオモニが韓国の歌を歌おうとするのは、韓国籍、北朝鮮籍の隔てなく、済州島という島で亡くなった人々を等しく悼もうとする切実な思いからだったろう。

 これら2つのシーンでは、歌が契機となってヨンヒさんは涙を流す。歌は人間の情動を激しくゆさぶるから、ヨンヒさんは涙を流したのだろう。それはオモニを不憫だと思う心の動きだ。

 しかし、涙を流すもう一つのシーンは、その2つのシーンとははっきりと意味が違うように思う。それは、済州島を訪れて、4・3事件の実態を調査している研究所を訪問する場面だ。研究所の所長さんから、当時のことをあれこれ尋ねられるオモニだが、認知症が進んでいるオモニは十分に答えることができない。苦しかったときの記憶はオモニの脳裏から消えつつある。

 ヨンヒさんは、済州島までやってきたはじめて、母親の体験の重さを実感し始める。オモニは、大阪の猪飼野に生まれ、戦争中、大空襲を経験したあと疎開のために故郷の済州島へ戻る。しかし、その済州島では、戦後、4・3事件が起こり、多くの無辜の人々が虐殺された。母親の婚約者も事件で命を落とし、みずからも命からがら弟と妹を連れて密航船で日本に戻ってくる。その日本は戦前と変わらず朝鮮人への差別のやむことのない場所であった。日本と朝鮮半島の間でピンポン玉のように翻弄された母親が、「地上の楽園」を喧伝する北朝鮮に期待をかけることをどうして自分は責めることができるだろうか。そこまで考えたとき、彼女ははじめて自分がいままで母親に不当な言葉を投げかけてきたのではないかということに思い至って激しく涙するのである。これは歌によって触発された情動的な涙でなく、老いた母親の人生(そして父親の人生)をまるごとの形ではとらえきれなかった自分を反省したからこその涙である。

 オモニの記憶が消え始めたときに、ヨンヒさんがオモニの人生を理解することができたということは皮肉なことだった。しかし、それは別の言い方をするならば、オモニの記憶がヨンヒさんに継承されたということではなかったか。

 さて、私がこの映画で最も感動をおぼえたシーンは、その次のシーンだ。そのように泣いているヨンヒさんと、認知症のせいで、無表情となっているオモニ、その二人の後ろにしゃがみ込んで、カオルさんは、オモニとヨンヒさんを包み込むようにして二人の肩を抱く。おそらくは、長年にわたる娘と母親の確執には自分は十分には入っていけないだろうという自覚を持ちつつ、自分ができることはそのように肩を抱いてあげることだといわんばかりに静かに肩を抱く。そして、そのとき、オモニは、泣く娘の右腕を軽くポンポンと叩くのだ。今そこで娘が話している内容すら理解しているのかどうかわからないオモニである。いろいろな記憶が失われていき、他人の名前も自分が誰かさえ分からないぐらいになっているオモニである。そのオモニが、元気ですごした時の母親としての自分の仕草の記憶に従って、「そんなに泣きなさんな」といわんばかりの仕草で、泣く娘を労っているのだ。その仕草に私は激しく気持ちが揺すぶられた。

 歴史の流れのなかで、それぞれがそれぞれのやり方で肩を寄せ合い労っているこの3人の姿が、私には悲しくなるぐらいに美しく感じられたのだった。

 先にちょっと引用したが、ヨンヒさんは、在日朝鮮人作家の金時鐘さんと対談をして、それをネットに掲載している。この対談がものすごくいい対談なのだが(金時鐘さんの「あのお父さんの娘にしては上出来や(笑)」という台詞、いいですよねえ)、そのなかで、金時鐘さんは、この映画の題名を褒めている。「スープとイデオロギー」という題名のことだ。

 これは確かに思い切った題名だ。この映画には、『オモニのスープ』という題名をつけてもよかったし、ヨンヒさんの前作の映画題名『かぞくのくに』にならえば、『かぞくのスープ』としてもよかったはずである。カオルさんは、ヨンヒさんの家に迎え入れられ、オモニ直伝のスープも一人で作れるようになっているからだ。

 そのような題名にせず、『スープとイデオロギー』という、本来は「と」で結びつけられることのない単語を2つ並べてみせたところがとてもいいと私には感じられた。「イデオロギーは違ってもいっしょにご飯を食べよう」というのが、この題名に込めたメッセージだったというが、そういうヒューマニスティックに甘くなりやすい言葉を、「イデオロギー」という耳障りのよくない硬い音の響きでもってギリギリのところで抑制している。

 結婚の挨拶のために鶴橋の家を訪れたとき、オモニとヨンヒさんとカオルさんは、オモニが作った鳥のスープとご飯をはじめて一緒に食べる。カオルさんは、ニンニクをスープにじゃんじゃん入れ、一方、オモニは、ゴマを入れたほうがもっと美味しくなるといってカオルさんのスープのお椀に(断りもなく)当たり前のような振る舞いでたくさんのゴマを振っていた。ゴマをスープに入れるという行為は、すでにオモニから娘のヨンヒさんに受け継がれているようで、ヨンヒさんは新婚の家でもゴマを積極的に使っていると映画のなかで語っていた。鶴橋でのこのシーンで、ヨンヒさんとカオルさんの2人だけではなく、さらにオモニを加えて3人が家族になっていくことの第一歩を踏み出したのだ。

 冒頭で触れたあの赤いTシャツの話に戻ろう。

 カオルさんがあの赤Tシャツに着替えて姿を現したとき、全体としてモノトーンのように見える鶴橋の食卓では、あの赤色はあまりにも場違いの色合いに感じられた。しかし、あの瞬間に、空気ががらりと変わって、鶴橋の家に、笑いと明るさがもたらされたのだ。母があんなふうに笑ったのは久しぶりのことだった、とヨンヒさんはナレーションを入れていた。そこには母を思う気持ちだけではなく、オモニとカオルさんが仲よくやっていけそうだとほっとしている気持ちと、50をすぎてカオルさんというパートナーを得たことをよかったと思う気持ちがにじみ出ているような気がした。

 映画の最後で、オモニが脳梗塞になって入院していることを知られる。いずれ亡くなるであろうことも予告される[補足:映画に描かれたオモニはその後亡くなられたそうである]。その遺骨を北朝鮮に眠るアボジの隣におさめなければいけないのだが、北朝鮮に入ることを許されていないヨンヒさんは、どうやって遺骨を北朝鮮に持っていくか考えている、というナレーションを映画の最後に入れた。あの最後の言葉は、心に重く響く。イデオロギーによる分断は続くからである。しかし、私は、遺骨を北朝鮮に持っていくという困難な仕事に、おそらくこの二人は共同で取り組んでいくだろうということも想像した。二人はこれからもオモニ伝授のスープをともに口にしながら人生を歩んでいくだろう。いま、二人はミニシアターでの上演のために全国の映画館を回っている。           ——津田 正