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北尾修一『いつもよりも具体的な本づくりの話を。』のこと


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 北尾修一さんの『いつもよりも具体的な本づくりの話を。』読了。著者の北尾さんは一人出版社「百万年書房」の代表だが、この本じたいはイースト・プレスの刊行。私、今年、イースト・プレスにものすごく課金している(韻踏み夫さん、斎藤真理子さん、奈倉有里さんの本)。

 これ、いい本でした。編集者を40年近くやってきて、退職した今も、細々と編集の仕事を続けている。その間、半分はアドバイスを求めて、半分は憧れの有名編集者への個人的な興味から、編集者の書いた本をあれこれ読んできた。高田宏さん、松田哲夫さん、鈴木宏さん(水声社)、鷲尾 賢也さん(講談社)、私に業種が近いという意味では、橘宗吾さん(『学術書の編集者』)や、東大出版会におられた長谷川一さんの『出版と知のメディア論―エディターシップの歴史と再生』。そのほか、外山滋比古さん、津野海太郎さん、松岡正剛さんといった人たちの本にも親しんできた。

 そのどれにも面白さがあるのだけれど、たぶん、今回のこの本ほど、編集の実務について書いてある本はないと思う。上に挙げた本は編集者の回想録だったり、学術書や人文書の業界について論じた本であった。それに対して、この本は1冊の単行本を作る過程を一つ一つ丁寧に説明していく。まさに「いつもよりも具体的な本づくりの話」であって、企画書から原価計算書の見本までついている。装丁デザイン費30万、校閲費10万、基本経費15%。その数字の一つ一つに、そんな基準なのかとか、へえーとか思って読んだ。

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 この本には随所に、ほかの会社の、「出版の世界に詳しい人なら驚くこと間違いなしの」編集者たちの発言が引用されている。これは上の「1」で触れた編集者たちの本とは大きく異なる点だ。

 また、この本が中心テーマにしている本は、一般読者向けの書籍である。私が深く関わってきたような専門書とか学術書ではなく、辞書や事典の編集の話でもない。原稿をもらうところまでが勝負の殆どであるような本ではなくて、企画から制作、宣伝に至るまで編集者がプロデューサーとして深く関わることになる書籍の編集――この本のなかの言葉を使えば「創作出版」――を扱っている。

 つまり、「プロデューサー」としての編集者、それも業界的にも「すごい」と言われる人たちの手の内を見せてくれる本なのだ。

 で、この本でいいのは、ほかの編集者たちの発言に対する北尾さんのレスポンスだ。実に素直に驚きと感動が書きこまれている。そして、その答えというのが、私がその発言を読み終えたときに、まさに声に出していいたいようなセリフなのだ。

 例えば、『おもしろい! 進化のふしぎ ざんねんないきもの事典』(高橋書店)をつくった、いまはダイヤモンド社に在籍している金井弓子さんのセリフ、

「私は置くだけで売れる本があると思っていて、それを目指しています。」

というのが紹介されているところがある。

 これはかなりすごいセリフだ。だって、これって、本をネットやSNSなどのメディアや、さらには書店とのタイアップ企画などというような宣伝活動をやらなくても、本それだけの魅力で売れる本があるといっているのだから。私も一度はこういう啖呵を営業部や宣伝部に切ってみたかったものだ。 でも、基本的に「売れない」編集者だった私は、やれ宣伝部がちゃんと広報してくれないとか、そんなことばかり言っていた。だから、このセリフを読んで、すごい、と思った。そして、著者の北尾さんも言う。

「これ、すごくないですか」。

まったくです! すごすぎです。[ただし、1つだけ突っ込んでおくと、「置くだけで売れる」といっても、新しくて小さな出版社の場合だと本を本屋さんに置いてもらうこと自体がそもそも大変であることも付け加えておきたい。先日、ある別の編集者の方から、高橋書店の営業力の強さを教えてもらったところなので、なおさら]

 こうのもあった。『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』(光文社)で大ヒットした柿内芳文さんの言葉。

編集者が企てて画いたものなんて、たかが知れているんです。編集者はクリエイターじゃないし、0から1をつくる人じゃないって言いますけど、本当にそのとおりで。僕のつくるものなんて大したことないので、あくまでも話のきっかけくらいにしか思っていないです。
 編集者の仕事というのは、「企てる」というよりも、「拾う」仕事です。(中略)今の僕は、著者の能力や熱意を拾うことができたら、編集者はそれだけでいいんじゃないかと思っています。…わかります?

 これに対する北尾さんのセリフは「はい。めちゃくちゃ共感します」で、私の感想もこれに尽きる。「めちゃくちゃ」という強調の副詞を使いたい気持ちまで100パーセント同じだ。

 とにかく、この本には編集者たちの名言がいっぱい入っている。もう一つ、柿内さんのセリフを引用しておこう。

 「この本の潜在的ニーズは~」みたいなことは、僕も全然考えません。
 考えないからうまくいっているんじゃないか、と自分では思っているんですけどね。意識的に考えないようにしています。
 考えようと思えば考えられるんですけど、考えたら必ず「そんな本はつくらない方がよい」という帰結になるので。

 私が痺れたのは最後の1行。あまりに共感したので、コメントはつけない。考えたら必ず「そんな本はつくらない方がよい」という帰結になる――心に深くとどめたい。

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 上の柿内さんのセリフに「編集者はクリエイターじゃない」というセリフがあった。これは私の実感にも近い言葉だけれど、この本を読むと、とんでもない才能を持っている編集者、まさにクリエイターとしか呼べないような人たちが登場する。

 特に、私が圧倒されたのは、谷綾子さん、そして、上にも名前を挙げた金井弓子さんである。このお二人、いまは別々の会社におられるとのことだが、高橋書店在籍時代には先輩、後輩の関係だったという。すごい編集部だ。

 このお二人の本づくりのなにがすごいって、彼女たちは、いったいどこからそういう発想を生み出してくるのか皆目見当がつかないことである。北尾さんも私と同じ意見をもっていらして、谷綾子さんが作られた『一日がしあわせになる朝ごはん』の誌面づくりについて、かなりのページをとって紹介したあと、「…あまりにも自由自在で、どうやってページがつくられているのか全然わかりません。ちょっとした魔法を見せられている印象です」と述べておられる。彼女の誌面づくりの魔法については実際に本のなかで確認してもらいたいところで、私はただただ唖然とするほかなかった。

 金井弓子さんの本づくりも自由自在。『わけあって絶滅しました。世界一おもしろい絶滅したいきもの図鑑』という本の話。金井さんによると、絶滅した動物の本は、その生き物の大きさや生態を紹介したものが多いが、それよりも絶滅することになった理由が面白いので、それを切り口にして「わけあって絶滅しました」という題名にしたという。

 このへんまでは誰もがやれることだ。ところが金井さんのすごいのは次のあたりからだ。

 絶滅した理由って、読むと面白いのですが、絶滅=最後みんな死んじゃうということに気づいて、死んじゃうと悲しいじゃないですか。そこで、死を他人に説明されたくないなと思ったんです。もし自分が死んじゃったとしたら、自分が死んだ理由は自分で説明したい。なので、一人称の語りにしようと。

唐突に出てくる「死んじゃうと悲しい」はとりあえずわかったことにしよう。でも、自分が死んだ理由は自分で説明したいものだろうか、などと疑問に思いながら読み進めると、そんな疑問はそっちのけで、金井さんの発想はどんどん「頭がおかしい」人の方向に突き進んでいく。この一人称の語りに突如として接ぎ木されるのが、NHKの朝ドラの話だ。

朝ドラって、老女になった主人公のナレーションが入ったりしますよね。幼少期の話にかぶせて「エミコはおてんばだったのです」と八千草薫さんの声が、みたいな(笑)。あの構図、すごい面白いなとずっと思っていて、朝ドラみたいに自分が絶滅した理由を自分で語ってもらえば、悲しみが和らぐんじゃないかと。朝ドラという着想を得たおかげで、『わけあって絶滅しました。』という一人称語りのタイトルに至りました。

私はこの本のなかで、この話が一番好きだ。この人、間違いなく、頭がおかしい! なんなんだ、これ。ここを読んで、人間の発想というのはつくづくすごいものだと素直に感動して、大笑いすると同時に、涙すら出た。

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 クリエイターたちのきらきらするような才能や仕事を知るにつけ、この本を自分が30代の時に読んだらどう思っただろうと想像してみる。強烈に嫉妬するかもしれないし、この方々に少しでも近づくために努力をしようと思ったかもしれない。嫉妬は悪いことではない。それは次なるステップへ上がっていくための燃料源ともなるからだ。だから、他人の本づくりに嫉妬できる世代の若い編集者たちに、まずは読んでもらいたい本だと思った。

 私は、もう第一線の編集者とは言えない人間である。嫉妬して今から自分を高めようとしたところで、その努力が報われる場はどんどん少なくなっている。だから、私がこの本を読んでぼんやりと考えてみたのは別のことだ。

 私はこの本に出てくる編集者の皆さんのように、本づくりが好きだっただろうかとふと疑問に思った。そう問いを立ててみると、自分はこの方々のようには本づくりが好きではなかったな、とすぐさま答えが出た。私とて編集の仕事には楽しさを見出してきたし、編集の仕事をやめて別の業種に移ることを決意した後輩には、「でも、編集の仕事は楽しいし飽きないから、いつでも戻ってきなよ」と言ってきたものだ。そのぐらいには編集の仕事を好きではあるのだけれども、好きということでいうなら、私はたぶん本づくりよりも本を読むことのほうが好きなのだった。出版社の就職試験を受けたとき、私は、本の近くにいられて本を読んでいても叱られないような仕事に就きたいと思ったし、会社に不満があったときも、でも、この会社にいれば本の近くにいられることは間違いないのだから、入社当時の、そうは高くもない希望はかなえられているのだからと思い直したものだった。そうこうするうちに、ずるずると、定年まで編集の仕事を続けることができたのだった。

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 かつて2つの英語雑誌を合計で14年編集していた。どちらの雑誌も社員が1人(私)と、フルタイムのアルバイト(契約社員)が1人いるだけの小さい世帯の編集部だった。企画を考えるのは私だけ。この雑誌の前任者たちもみな、一人で企画を考え、誌面を作っていた。だから、編集長(といったって社員は一人なんだから、編集長なんてのはただの肩書でしかない)の個性というものが、バックナンバーを見ているとよくわかった。

 雑誌作りの鉄則は、読者を飽きさせないことである。2ページ記事があったら、例えば、どこかに小さな囲み記事でも作って、怠惰な読者がそこだけ読んでもいいように配置したほうがいい。論文がただただドーンとのっかっているだけの記事は、その記事に興味がない読者にとっては飛ばされたら終わりのページである。もうちょっと誌面を分割化したほうが、多様な読者が脱落しないような保険となる。大きな食材を1つだけ提供するようなお弁当よりも、幕の内弁当のように、おいしそうな食材をあれこれ配したほうがお客さんが手に取る確率は格段に上がる。そういう読者サービスというのだろうか、怠惰な読者を飽きさせないような誌面構成に長けた先輩の手法にずいぶんと学ばせてもらった。

 しかし、それでは、5頁とか6頁とかの論がなんの工夫もなく、そのままの形でのっかっている雑誌はダメかというと、必ずしもそうとは言えない。怠惰な読者を遠ざける危険はある一方で、こういう記事がいい文章といい内容でまとまっているのならば、ちまちましたコラムなんか必要ないのだ。むしろ、そういう編集上の工夫はいっさい不要。そういうタイプの雑誌を作っていた先輩の記事について、ある読者の一人が、あの人の雑誌にはあとになってみると、コピーしてとっておきたいものが時々あるんですよね、と言われたものだ。

 本と雑誌と形態は違うものの、私は本とか雑誌とかいうものを、ある時からまるで人間のようなものだと思うようになった。他人にもすごく気を配るサービス精神旺盛の人だけれど、そのサービスがやや過剰に思えるような場合もあるし、なんら他人へのサービス的なことを言わないかわり、時々、すごくいい一言を発する人もいる。売上げとか人気度だったら、どういう人が得でどういう人が損かはある程度決まる。でも、世間的にはダメ人間に見えても愛嬌があって憎めない人もいるし、だれからもほめそやされるけれど、その本の作り手が一番感動してもらいたいと思っている人にはまるで声が届かなかったりする本だってある。取り柄はあまりないけれど、その生真面目さにだけは敬服するほかない人や本もある。

 北尾さんは、この本のなかで繰り返し、本というのは少人数で作ることができるもの、大きな資本がいらないもの、資格もいらなければ極端な意見の持ち主でも作れるものであることを強調している。もしそうだとするならば、気がきかなくて工夫があまりできない人も、本の編集よりも本を読むことのほうがずっと好きな人間も、本の編集ということに関わることができるはずなのだ。

 だから私は、すごい編集者たちのすごい企画と誌面づくりを読み終えたあとで、しかしこの本で一番いいのは、北尾さんが本の最初のところで次のように言っているところだと思った。

まじめな人はまじめな本をつくりますし、変わった人は変わった本をつくります。素直な人は素直な本をつくりますが、性格のねじ曲がった人がつくるねじ曲がった本もけっこう面白かったりします。

最後まで本を読み、最初に戻ってもう一度ここを読み直したときに、少しほっとした。本を作るよりも本を読むことのほうが好きな人間が本を作っているケースは私以外にも結構いるんじゃないか。いや、この本に登場する人たちだって実はそうなのかもしれない。

 私よりも先に定年になった先輩は、私から見ると編集者らしい編集者だったけれど、定年後に、「自分は編集者らしい編集者じゃなかったしなあ」と言っていて驚いた。が、しかし、案外、編集者たちの自己意識はみんなそんなものではなかろうか。「らしさ」は結局、自分で決めるほかないし、そういう答えの出し方が赦される業種なのだとも思う。

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 こんな話をもっと聞きたかったというテーマがある。北尾さんを含め、この本に登場する編集者の皆さんはほとんどみな「転職」している。それも、わりと大きなところから、小さなところへの転職。なぜなんだろう。ヒット作を前の会社で出しているのに、なぜ転職を? そして、転職してみてどんなことを感じたのだろうか、ということ。

 私は幸か不幸か1つの会社に定年まで居続けた。私の会社は、英語・英文学・英語学習系の専門出版社だった。英語業界はある意味で閉じられた世界であり、その空間のなかで、専門に関わる知識と人的なネットワークを蓄積していくことが良いとされた(というか、それが良いことと私は思おうとしていた)から、こういうことが可能だったのかもしれない。

 ただ、英語系では大手、一般の出版社の基準からいえば、中堅ぐらいの規模の会社にいて、この20年ぐらいの間に強く感じていたことは、それなりの規模の会社であるがゆえのフットワークの悪さである。端的に言えば、とがった企画は敬遠され、実績のあるタイプの本が優先される。ロットの大きい本が会社的には高い評価を受ける。原価計算の場面では、本の種類に応じて採算ラインを変えるようなことはせずに、基本的に一律基準でクリアすべき原価率が決められるので、北尾さんが本文でいっておられるような、本によって原価の考え方を調整するといったこともできない。

 私の会社の尊敬すべき先輩は、「本の業界というのは作りたい人がいて、それを出してあげたい人がいて、そしてそれを読みたい人がいて、それだけで成り立つ小さな業界なのだ」とよく言っていた。しかし、そういう理想的な三すくみ状態を維持することが、そこそこの規模の出版社においては難しくなってきたのではないか。

 この本でいうところの「創作出版」という領域において活躍する編集者たちはなぜ会社を変えたのだろう。この本に出てくる人たちは基本的にみなヒットメーカーなので、採用する側としてはそういう人は大歓迎のはずだが、転職しようと心に決めた人たちは、大手や中堅では実現できないようなテーマなり本なりがあると意識されているからなのではないかとちょっと想像するのである。

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 長くなってしまった。

 最初の感想に戻る。これ、いい本でした。今まで本を作ったこともない人なら、なんだか本の編集は楽しそうだから1冊作ってみようと思うだろうし、私みたいな編集者にとっても、心やさしいスタンスの本だと感じられることだろう。

 まだ読まれていないならすべからく書店へ行くべし。いざ鎌倉へ。