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都立の流儀

 先日、東大英文科には、柴田工房、大橋工場という言葉があると聞いた。自称「生半可な学者」である柴田元幸さんと、柴田さんの教え子たちが目下つぎつぎと現代アメリカ小説の翻訳本を刊行しているが、それらの翻訳集団を指して使うのが「柴田工房」。一方、「大橋工場」とは、とくに現代批評系の書籍を次々と翻訳している大橋洋一さんと、そのお弟子さんたちの集団を指す。


 しかし、いまから4半世紀前、都立大にも巨大な翻訳者集団が存在した。篠田工場である。当時、篠田先生は海外文学紹介のスーパーバイザーとして大車輪の活躍をしていた。とくに、集英社からは次々と海外文学の翻訳が出た。英文学関係では、小池滋先生のディケンズも、井出弘之先生のゴールディングも、鈴木建三先生のアラン・シリトーも集英社から出ていたはずだ。


 僕が都立大に在学したのは1981年から84年。目黒キャンパスの時代である。当時の都立大は、校舎はボロだったけれど、先生たちはものすごく輝いて見えた。そもそも僕が都立大を選んだのも、茨城の片田舎で、市立図書館に通って海外の小説などを読みあさっているころ、訳者の肩書きに都立大関係者が多いことに気づいたからだった。その大学へ行けば、自分が読んでいるこの本の翻訳者から直接講義を聞くことができると思ったのである。

 ちょうどその頃、『ユリイカ』で、丸谷才一さんと井上ひさしさんの対談があって、そこで野崎孝先生の訳したジョン・バース『酔いどれ草の仲買人』(初版1979年)のことが話題になっていた。「十七世紀の末葉、ロンドンのいわゆるコーヒー・ハウスにたむろしては、たわいもないおだをあげている洒落者どもの中に、エベニーザー・クックという背高のっぽのひょろひょろしたものが一人まじっておった。」これが冒頭だ。この「おった」の文体に痺れた。野崎先生はむろんサリンジャーやフィッツジェラルドの訳者として知られる方だけれども、僕にとっては野崎先生の訳といえば、このバースの翻訳である。


 じつは僕が都立大に入学したときには、野崎先生も、そして同じく都立大の名物教授であった金関寿夫先生もやめたあとだったけれども、面白い授業がたくさんあった。バースがみずからの歴史小説の主人公とした実在のエベニーザー・クックの詩を、偶然にも僕は沢崎順之助先生の授業で読むことができた。杉浦銀策先生の『裸者と死者』の授業では、俗語辞典を引かなければ読めない小説というものがあることを学んだ。ウブだった僕はfour-letter wordsにも少しドキドキした。そういう単語から思い出したわけではないけれども、忍足欣四郎先生の「AV」の授業も懐かしい。昭和12年初版の舟橋雄『英譯聖書鈔』がテキストして指定された。古い本ゆえ註釈に出てくる日本語も古くて、「希伯来民族」「西亜民族」などは何と読むのか頭をひねった。


 書いていて我ながら驚くのだけれども、僕は授業で扱ったテキストも授業も次々と思い出すことができる。井出弘之先生が生徒の英語力そっちのけで選んだファウルズの『フランス軍中尉の女』。土岐恒二先生との、あの一対一の授業。それから、袖山栄真先生が、小説における時間操作について語るさい、『じゃりン子チエ』の例を詳細に持ち出して学生を唖然とさせたことも覚えているし、ちょうど訳し直しているコンラッド『ノストローモ』に話が及んだときに、旧訳ではsleepers(枕木)が「寝ている人」と訳してあるんだよ、ひどい訳なんだよ、と言ったのも覚えている。そして言うまでもなく、その当時の都立には30代半ばの、まだ『アリス狩り』を出したばかりの高山宏先生がいた。全身黒ずくめで現れて、見たことも聞いたこともないような本の名前を次々と口にし、英語のみならずフランス語、ドイツ語、ラテン語、ギリシア語の単語が黒板に板書された。授業が終わると紹介された本が無性に読みたくなるという点で、高山先生の講義はすぐれた大道芸の域に達していた。小池滋先生の授業では、シャーロック・ホームズと同じように、先生が両手の指と指を合わせながら探偵小説について講じるのを拝聴した。頭の硬いのは学生のほうで、先生方のほうが大衆小説から脱領域的な分野まで関心を広げておられた。当時の都立大英文科には、「教師一流、院生二流、学部生三流」という言い方があったと記憶する。間違いなく先生方は輝いていたのである。



 大学を卒業して僕は研究社という会社に入った。1985年、日航ジャンボジェット機墜落事件のあった年である。誰かの紹介があったわけではなく、新聞の求人欄を見て応募した。大学院へ行くことは考えなかったし、そういう可能性があろうとも考えられなかった。卒論を書いてみて、ほとほと自分の無力を思いしらされたし、アルバイトもしない無為徒食のニート的生活を送っていた自分自身に嫌気がさしていたから、早く社会に出ないといけないと思ったのだ。


 研究社に入って15年以上経って、僕は『英語青年』の編集長になった。都立大が首都大学東京になるという問題を『英語青年』で取り上げたところ、その記事を読んだある先生から、こんな質問を投げかけられたことがあった。「雑誌で、都立のことを取り上げているよね。それで、都立大を守る運動というのを見ていると、守るべき何か美しいものがあった、というように見えるじゃない。でも、そんなに都立大っていいところだったのかな?」。この方は都立大英文科の助手を務めたこともある方だから、「都立大憎し」と思ってこんなことを言ったのではあるまい。ただ、都立大を守る運動を続けていくためには、どうしても過去の都立大が美化されがちになる。そのことを指摘したかったのだと思う。僕は都立大英文科の楽しい思い出から書き始めたのだけれども、むろん、都立大の4年間に一点の曇りもなかったかといえば、それはそうではなかった。そのことを書いておきたい。


 大学4年生、もう研究社に就職が決まり、あとは卒論を残すのみという時期に、こんなことがあった。1984年12月24日のことだ。僕は日本橋の丸善に卒論用のタイプ用紙を買いに行った。


 いまから20年も前のことなのに、日にちまではっきり覚えているのは、クリスマス・イヴにあたるこの日は、研究社への入社が決まったあと初めて会社から呼ばれた日でもあったからだ。この日、僕は、会社から呼び出しを受けた最初の日だというのに、失敗をする。会社に3時だか4時に行く約束だったのに1時間近く遅刻をしてしまったのだ。家を出るのが遅れたわけではない。ではなぜ遅刻したかと言えば、卒論用のタイプ用紙を日本橋に丸善に買いに行ったものの、めざすタイプ用紙が店頭になかったのだ。なんという銘柄の用紙だったかは覚えていない。とにかく、それが、ない。店員さんの手を煩わせて倉庫へ行って探してもらっている間に、時間は刻々と過ぎ、なんとか目当ての用紙の購入に成功はしたのだが、会社に行くのがすっかり遅くなってしまったというわけだ。


 タイプ用紙を買うのになぜわざわざ丸善か。そんなもの、都立大生協でもなんでも売っているではないか。そのとおりである。しかし、それではいけないのだ。なぜなら、卒論用のタイプ用紙は、丸善で売っている、なんとかという銘柄の用紙でないといけないからだ。僕は、その用紙でないと絶対いけないようだ、ということを同級生から聞いたのである。


 デマは情報不足と不安から生まれる。僕だけでなく同級生たちは一人として、論文作成のための指導は受けたことがないのだ。論文を書くのはもちろんのこと、英作文の授業で書かされる、せいぜい3~5文程度の英語しか書いたことがなかっただろう。僕はタイプを打ったことすらなかった。いまでも同級生たちと不安な気持ちで卒論の書き方について話し合った日々のことを思い出す。まず、表紙をどう書くかが分からない。英潮社から出ている「英語論文の書き方」を教えてくれる本を参考にして卒論を書くということは、先輩たちからのoral traditionによって了解していたのだけれども、じっさいに論文を書き出してみるとわからないことだらけなのだ。まず、表書きに記すみずからの所属。「人文学部」の「学部」というのが英語で何というのかがわからない。facultyと言うらしいと聞いても、facultyなのかと首をひねる有様。脚注の付け方がわからない。ibid.という記号もop.cit.という記号も初めて見たぐらいだったし、ページ番号の表記の仕方(365-67? 365-367?)もどうするかわからない。三流学生の僕たちはかくのごとき低レベルの知識でもって30~40枚もの論文なるものを書こうとしていたのである。


 このような不安に満ちた話し合いのなかで、タイプ用紙は、丸善の、なんとかという用紙でないといけないらしい、というデマが生まれた。


 いまとなっては笑い話である。こんな愚かなことになったのはむろん自分のせいだ。分からなければ先生方に直接聞きにいけばよかったのだ。こちらが訊ねさえすれば親切に答えて下さっただろう。用紙なんかなんだっていい、問題は中身だよ、と言うに決まっている。ただ、それはそうだろうと思うけれども、都立大の英文科というのは、万事、基礎的で技術的でプラクティカルなことを教えるという点においてあまり熱心ではなかったことも紛れもない事実であると思う。のちに僕は英語業界に身を置くようになって、津田塾においては、全学生を対象としてパラグラフ・ライティングの基礎をたたき込む教育が行われていたり、筑波大あたりでは「論文作成法」などといった授業を通してきめ細かい指導が行われていたことを知るようになる。それと比べて都立英文科の流儀は、きわめて大らかというか、放任主義に近いものであった。


 タイプ用紙を買いに行ったクリスマス・イヴからほぼ2週間。なんとか卒論を提出し、3月には無事に卒業式を迎えた。


 いまでもそうなのか、都立では謝恩会は、どういうわけか、学生がするのではなくて、先生がして下さる。研究室に招かれ、お寿司をご馳走していただいた。目黒のあの研究室にあれだけ長い時間座っていたのは、その日がはじめてであったはずで、普段は恐ろしくてそんなところへは足を踏み入れたことはなかった。二次会もあった。由美である。僕がその飲み屋へ行ったのはそれが最初で最後である。そのときに、どうして、そんな話になったのか、その場におられた土岐先生から、なぜ大学院へ行くことを考えなかったのか、と訊ねられた。全く意外な質問であったけれども、「卒論を書いてみて、つくづく自分の能力のなさに愛想がつきました。それに誰も大学院に行ったらというようには勧めて下さらなかったし…」というようにお答えすると、土岐先生は「誰だって文章を書いた直後は自己嫌悪に陥るものですよ。それに耐えて書き続けないといけないんですよ」とおっしゃったと記憶する。それを聞いたとき、僕は、なんと表現したらいいんだろう、「そうだったのかなあ」と全身の力が抜けていくような気がしたものだ。文章を書いた直後に自己嫌悪に陥るのは普通のことなのか、とも思ったし、こういう言葉をあと3カ月前にどなたかから聞いていれば、僕は大学院への道を将来の選択肢の一つとして考えたかもしれないのに、とも思った。僕は卒論を書いているときも、卒業後の人生設計を考えるときも、いつも孤独だった気がする。そして、凡庸な学生の心をむしばみ意気を阻喪させるものは孤独なのである。


 2年ほど前の都立大の英文学会だったと記憶するが、院生の方が、本当に勇を鼓して、という感じで、院生と先生方の間のつながりが弱いということを訴えていらした。痛いほど気持ちがわかった。都立の流儀はいまも続いているのだなあと思って同情を禁じ得なかった。

 僕が通った都立大目黒キャンパスは今はもうない。昨年だったか、およそ20年ぶりに都立大のあった場所を訪れた。当たり前だけれども、都立大はそこにはなかった。でも、なんだか、妙にサバサバしたような気持ちにもなった。そういえば、当初、あの場所にゴミ処理場を建設するという話があったと聞く。どうせだったら、あの場所はゴミ処理場になってほしかった。「それで目黒キャンパスはどうなりました?」と誰かに聞かれたら、「ええ、ゴミ焼却場になりましたよ」とニヒルに言ってみたいと思うのだ。


 都立大英文科は楽しいところだったけれど、ちょっと冷たいところでもあった。しかし、いま胸に手を当ててじっと考えてみると、都立のその流儀は、サバサバしていて案外悪くもなかった気がする。「目黒キャンパスはゴミ焼却場になりました、と言ってみたい」などと、罰当たりなことを書いてみたのは、薄情な流儀を都立大英文科から学んだからに違いない。

                            ――津田 正