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サミュエル・ピープスの日記(2)

翻訳・解説:原田範行(慶應義塾大学教授)


【1660年のつづき。すでにピープスは、オランダへ国王を迎えに行く船の中。ただし、まだロンドンにいる。】

4月3日

 夜遅く、就寝。朝3時頃、私の船室を激しくノックする者がいた。だいぶ苦労して私の目をさまし(とは仲間の話)、私は起き上がる。なんのことはない、郵便が来ただけのこと。だから私はまた寝た。朝、その郵便をご主人さまに渡す。

 今朝、アイシャム艦長*がご主人さまに会うために乗り込んできて、ダウンズ錨地*へ向かう前にとワインを飲んでいく。バルト海まで護衛してほしいという商人たちもたくさん来ていて、これに対応した。

アイシャム艦長 ヘンリー・アイシャム。ご主人さま(エドワード・モンタギュ)の継母アンの兄。王政復古当時、海軍に務めていた。
ダウンズ錨地 ドーヴァー海峡にある船の主要停泊地。イングランド南東部ケント州の海岸と、沖合にあるグッドウィン砂地の中間にある。

 この商人たちはご主人さまと会食し、その中の一人、ロンドンの市会議員ウッド*が、ようやく落ち着ける(つまり国王陛下の下で、という意味)という希望を大いに語っていたが、ご主人さまはあまり関心を示されなかった。食事の後、時刻はかなり遅くなっていたが、ご主人さまは上陸され、それに続いて、私とスパーリング艦長*もご主人さまのボートで出かけたが、干潮近くなっていたので、戻れなくなるといけないと思い、長居はしなかった。それでまた船に戻る。今日はまた、スウィフトシュア号*の副官(彼はわがご主人さまの命を受け、要衝五港*の一つであるへイスティングズへ、エドワード・モンタギュ氏*をそこの議員にすべく派遣されていた)が来たが、彼はその使命を果たすことができなかった。すでに定員に達していたのである。彼がその報告を終えた後、私は彼と外科医のピアースさん*(彼はまさにこの日に船に乗り込んだのだった)を私の船室へ連れて行き、ワインを一本飲んだ。夜は書きものに忙しく、そして就寝。愛する妻からの便りがないので、わが心はすごく重い。実際、今まさにこの時ほど、妻の不在が気になって仕方がないのは人生で初めてである。

<訳注>
ウッド
 ウィリアム・ウッド。ロンドンのウォッピング在住の材木商。
スパーリング艦長 トマス・スパーリング。
スウィフトシュア号 連載第1回の注(3月6日)を参照。副官の詳細は不明。 
要衝五港 へイスティングズをはじめ、イングランド南東部の5つの海港都市。海防上の要衝として諸種の特権を有した。 
エドワード・モンタギュ氏 これは、ピープスのご主人さまではなく、二代ボートン男爵エドワード・モンタギュのこと。
ピアースさん 連載第1回の注(2月23日)を参照。

4月9日

 一晩中帆走し、朝には北および南に岬が見えるところまで来て、その後も終日帆走。午後には非常に強い風を受けたが、思った以上にこれをうまく凌いだ。<今日午後、初めてフランスとカレーを見た。かなり遠くにではあったが、嬉しかった。【欄外注記】>五時頃、グッドウィン*に到着。ディール周辺の要塞へ行き、わが艦隊が停泊している中へわれわれも投錨した。要塞からも船からも大きな礼砲があり、これに答礼したが、その砲声たるや、今まで聞いたこともないような轟音だった。立ち込めた砲煙のために、人も船も見分けることができなかった。投錨するとすぐに他の船の艦長たちがこちらへ乗り込んできた。今晩は、ご主人さまに代わって評議会*などへ手紙を書き、それをピッカリングさん*が届けることになっていた。彼は今晩、ご主人さまにお別れの挨拶に来たのである。それからボールティ*といっしょに、彼に託す妻とボウヤーさん*宛ての手紙を書いた後、私の船室でワインを一本飲んだ。J・グッズ*とW・ハウ*がそのために届けてくれたものである。ボールティも私に別れを告げ、明朝、ピッカリングさんといっしょに船から降りることになっていた。私はボールティに15シリングを貸したが、彼はこれを妻に支払うことになっている。お開きにしたのは午前1時頃。今晩はシプリーさん*も船に乗り込んできた。チャタムからこちらへ来る途中砂州に乗り上げて危なかったそうだ。

<訳注>
グッドウィン  ドーヴァー海峡に面して、ディール沿岸近くにある砂州。
評議会 海軍本部のこと。ちなみに、ピープスが代筆したモンダギュの手紙はイギリスの国立公文書館に現存する。
ピッカリングさん エドワード・ピッカリング。エドワード・モンタギュの遠縁にあたる。
ボールティ バルサザール・サンミッシェル。ボールティの愛称で呼ばれた。ピープスの妻エリザベスの兄。
ボウヤーさん ロバート・ボウヤー。ピープスの友人。
J・グッズ エドワード・モンダギュに仕える従僕の一人。
W・ハウ 連載1回目の注(3月26日)を参照。
シプリーさん 連載1回目の注(1月18日)を参照。


4月11日

 今朝、マンチェスター卿*の使いという一人の紳士がご主人さまのところへボイル氏*の旅券を頼みにきたので、これを作成した。ご主人さまの命で、上等な朝食を下の大船室でご一緒した。終日風が強かったので、サー・ジョン・ブロイズ*(なかなか立派な男のようだ)と一緒に来て、ご主人さまと昼食を取っていたある紳士などは、席を立たねばならないほどだった。午後、私の下にロンドンから大きな郵便物の束が届いた。その中には、愛する妻からの手紙が2通。ロンドンを離れて以来、初めてだ。ロンドンからの知らせはすべて、ものごとは国王の方に向かって進んでいるというものである。先日、ロンドンの皮革商組合がマンク将軍*をもてなした際、会館にあった議会の紋章を取り下げ、国王の紋章を掲げたという。

<訳注>
マンチェスター卿 二代マンチェスター伯爵エドワード・モンタギュ(「ご主人さま」と同姓同名なので注意)。ピューリタン革命に際しては、議会派の軍を勝利に導いた。その後、王政復古を支持するようになった。
ボイル氏 アイルランドの有力貴族である二代コーク伯爵リチャード・ボイルの次男チャールズ・ボイルのこと。
サー・ジョン・ブロイズ 王党派の有力な政治家、軍人。
マンク将軍 連載第1回の注(冒頭部)を参照。

 夕方、ご主人さまと私は、艦隊の艦長数名のことや、彼らの間でご主人さまがどれくらい力があるかについてじっくり話し合い、ご主人さまは国王擁立の気持ちを明らかにされた。私に打ち明けられたところによると、ご主人さまは、ご自身の船の艦長が自分に忠実であるかどうか確信しておらず、ストークス艦長*は好きではないという。夜、W・ハウと私は私の船室でヴァイオリンを弾く。遅くなってからイボットさん*と副官がやってきた。私は副官を遅くまで引きとめ、私の日記のつけ方*を見せてあげた。その後、就寝。

 思うに私は、わが船の牧師といささかふざけ過ぎたようだ。彼はたいへん真面目で高潔な人物である。

<訳注>
ストークス艦長 ジョン・ストークス。海軍の有力な指揮官。
イボットさん エドマンド・イボット。艦隊付きの牧師。後出の「わが船の牧師」は、イボットのことを指すようだ。
私の日記のつけ方 日記全巻の中で、ピープスが自ら日記をつけていることを明かしているのは、この場面を含めて二回しかない。

4月18日

 今朝早く、エドワード・モンタギュ氏*が乗船してきた。もっとも、今回も、また以前にも、どうして召使いを連れず、また長居もしないのにやって来るのはなぜなのかよく分からない。今日は、サー・R・ステイナー*をはじめ、多くのご主人さま関係者で時間のある人々は、ドーヴァーへ出かけて明日の選挙*のための備えをした。

<訳注>
エドワード・モンタギュ氏 このエドワード・モンタギュは、4月3日の項に登場する二代ボートン男爵エドワード・モンタギュの長子。フランドルから、皇太子(後のチャールズ2世)のボートン男爵宛書簡を持って帰還したところ。宮廷とボートン男爵家のメッセンジャー役を担っていた。
サー・R・ステイナー 海軍の指揮官。
明日の選挙 翌日の選挙で、ご主人さま(エドワード・モンタギュ)がドーヴァーから下院議員に選出されている。言うまでもなくドーヴァーは、海峡をはさんでヨーロッパ大陸に向き合う要衝五港(4月3日の項を参照)の中でも最重要拠点であり、この地で国会議員に選出されることには国政にかかわる重要な意味があった。有権者は約300名。

 午後はずっと、船室でバー*に口述する(用事がありすぎて頭が混乱したためである)。彼は私に代わって十数通の手紙を書いてくれたので、私の方は船に乗り込んでから初めて、心が軽くさわやかな気持ちになった。夜、ロンドンに郵便の束を送った。クックさん*がロンドンから戻って来て次のようなことを知らせてくれた。つまり、非国教徒たちが行動を起こそうと声高に語っているが空騒ぎに終わりそうだ、ということ。また他方、王党派たちも、賢明でないことをやはり声高に話しているということ。上院は毎日、マンチェスター卿の邸宅に集まり、議会初日に議事を始める*ことにしたということ。将軍も評議会も、国王帰国を支持することに決した、ということ。そして今や、狂信派が破滅するか、あるいはイングランドじゅうの紳士階級や市民、また聖職者たちが、自衛軍や軍隊にもかかわらず倒れるか、後者のようなことはありえないと思うのだが、いずれにしてもそのような状況であることは明らかだというのである。夜は、下の大船室でW・ハウとルエリン氏*(彼と長く一緒にいたのは初めて)と食事。<その後、就寝。W・ハウは私のベッドのそばに腰かけ、私と一緒に讃美歌を一、二曲歌った。それから眠る。>*

<訳注>
バー ジョン・バー。ピープスの個人秘書。突飛な行動でピープスを仰天させることもあった。
クックさん 詳細不明だが、「ご主人さま」の忠実な従者であったようだ
議会初日に議事を始める 1649年以降上院は廃止されていたが、それが無効であることを示して上院を復活させるべく、議事を開始する、という意味。
ルエリン氏 ピーター・ルエリン。行政府の事務官で、いわばピープスの同僚。
<その後・・・> <>の部分は、ピープス自身による日記本文への追記。

5月1日

 今朝聞いたところでは、ディール*の人々は2、3本のメイポール*を立ててそのてっぺんに町の旗を掲げ、天気もいいので、今日一日、楽しもうとしているそうだ。ハイド・パークにいたらさぞかしと思った。

<訳注>
ディール ドーヴァーから北東へ12キロほどのところにあるケント州の町。
メイポール 花やリボンで飾りをし、5月1日(メイ・デイ)にあわせて立てられる柱。柱の先端部につけたリボンを持って人々が回りながら踊る。

 今日は、数えてみると、結石が完治してちょうど2年になる。天の神に祝福あれ。パーカー艦長*が今日、船に乗り込んできた。彼は予想していなかったのだが、私は彼のフリゲート艦ナンサッチ号への任命書を携えており(彼は今、チェリトン号にいる)、そのお礼に彼は私にフランスのピストール金貨をくれた。チェリトン号にはヘン・カタンス艦長*が任じられる。昼食後、九柱戯*をし、少し勝った。その後、午後は船室で書きものをしたり笛を吹いたり。

<訳注>
パーカー艦長 ジョン・パーカー。
ヘン・カンタス艦長 ヘンリー・カタンス。父のロジャー・カタンスも艦長を務めた。
九柱戯 現在のボーリングに似た競技。ケーゲルとも呼ばれる。

 夕食を取っていると、後甲板の方で大きな音がした。皆、すぐ立ち上がり、チェリトン号のボートの艇長を助けようとしているということが分かった。彼は水上に投げ出されて溺れており、救出できず溺死した。今日は私は、広い裾を仕立て直してすぼめた服を着た。

 聞いたところでは、今日、ディールの人々はとても陽気だったそうだ。国王の旗をメイポールの一つに掲げ、通りでひざまずいては王の健康を願って杯を重ねたり、祝砲を打ったりしたという。城の兵士がこれを威嚇したが、あえて妨げることはなかったようだ。

5月2日

 朝、事務長の船室で大根の朝食。その後は――昼食まで――書きもの。ダン*がロンドンからの手紙を持ってやってくる。手紙には、昨日の歓迎すべき議会の票決*のことが記されている。昨日は、ここ何年にもわたって最も幸せなメイ・デイとして記憶されるであろう。

<訳注>
ダン 詳細不明。後に艦長となるトマス・ダン、もしくは海軍の通信事務官のトマス・デインのことか。
昨日の歓迎すべき議会の票決 Journals of the House of Commons(『イギリス上院議会日誌』)の記録によると、5月1日には20件以上の議案が審議されており、その多くが後の国王チャールズ2世からの書簡の内容についての説明と賛意を表するものであった。

 議会では国王の書簡が読み上げられ、その中で王は、自身といっさいのことを議会に委ねるとした。――赦免については、議会が除外を望まぬ限りすべてに対して――また、国王および教会の土地の売却については、議会がよいとするならば認める、という。

 国王の書簡が読み上げられると、議会は、当座の必要のため陛下に5万ポンドを送る準備をただちにおこなうことを決した。陛下がこの書簡に示された寛大なお気持ちに感謝する返信を作成するための委員会も作られた。またこの書簡は、議会の記録の中に保管されることになった。これらすべてにおいて、反対者は一人もいなかった。あのリューク・ロビンソン*も立ち上がってこれまで彼がしてきたことを撤回し、今後は王に対して忠実な臣下になることを約束している。

<訳注>
リューク・ロビンソン スカーバラ選出の国会議員で強硬な共和制支持者であったが、この時から国王支持に回った。

 ロンドン市は声明を発表し、国王および上院と下院によるもの以外のいっさいの政府を認めないとした。議会は、国王の書簡を運んできた陛下の侍従の一人、サー・ジョン・グリーンヴィル*に謝意を表したが、それが述べられている間はみな、脱帽していた。

<訳注>
サー・ジョン・グリーンヴィル 初代バース伯爵。ピューリタン革命の際にも、王党派の政治信条を貫いた。

 上院から下院に対して、国王と上院および下院への支持に関する上院の票決に下院も加わるようにとの知らせがあり、下院もこれに賛同し、また、国王と上院および下院による政府に反対するいかなる書物も議会に集めてこれを焼却する、ということを票決した。

 昨日のロンドンは、一日中、歓喜に沸き返っていたという。これまでにない数のかがり火が焚かれ、鐘が打ち鳴らされ、人々は通りでひざまずいては国王の健康を祝して杯を上げたそうだが、私にはちょっとやり過ぎのようにも思える。だが、誰もが非常に喜んでいるようだ。なにしろ、船の指揮官たちも、今やみなそう言い始めているほどである。一週間前はそんなことはなかったのに。水夫たちも、杯を上げるだけの金や信用のあるものは今晩はみな飲んでいて、ほかには何もしていない。

 今日、ノース氏(サー・ダッドリー・ノースの息子)*が船にやってきて、少しばかり滞在していたが、ご主人さまはいささか困惑しておられた。でも、彼はなかなかの紳士で、夜は、初見にもかかわらず、自分のパートをたいへん上手に演奏した。

<訳注>
ノース氏(サー・ダッドリー・ノースの息子) サー・チャールズ・ノース。ダッドリー・ノースは四代ノース男爵。

 楽器を演奏した後、私は、艦長とフェラーズ副官*とともに艦長の船室へ行った。フェラーズ副官は今日、ロンドンからここへやってきて、こうした報せをご主人さまにもたらしたのである。ワインを一本あけた後、みな就寝。

<訳注>
フェラーズ副官 本文では「フェラーズ」となっているが、ロバート・フェラーのこと。艦長の一人であった。

5月14日(~15日)

 朝、目が覚めて起き上がり、船の小窓をのぞくと、すぐ近くに陸が見えた。後でそれがオランダの海岸であると告げられた。ハーグの町もはっきりと見えた。ご主人さまは部屋着のまま船尾の船室に上がって行き、今日の引っ越しのための指示を出すべく、ご自身とわれわれ従者の部屋をどのように配分するかについて検分なさった。

 数人の屈強なオランダ人が船に乗り込んできて、われわれの荷物を陸揚げしたりするためのボートを提供すると申し出た。お金を取ろうというわけだ。

 昼前、紳士数名が陸から船に乗り込んできて、ご主人さまの手にキスした。そのうち、ノース氏*とクラーク博士*が、ご主人さまの名代としてボヘミア王妃*の手にキスすべく出かけて行った。彼らには船から十数名の従者が従ったが、その中には私が送った私のボーイ*もいた。この子は、私と同様、何でも珍しいものを見たがるのだ。

<訳注>
ノース氏 5月2日の注を参照。
クラーク博士 ティモシー・クラーク。王立協会創設時のフェロー。後にチャールズ2世の侍医の一人となる。
ボヘミア王妃 エリザベス。ジェイムズ1世の娘で、ボヘミア王フレデリック5世選帝侯(1632年没)の妻。
私のボーイ エリーザ・ジェンキンス。

 午後、ボヘミア王妃の手にキスした一行が戻ってきたが、ご主人さまの命で、今度は同じことをオレンジ王子*にするためにまた派遣された。私も同行してよいかと艦長に尋ねたところ、ご主人さまがお許しくださった。そこで私は、例のボーイと軍法務官*とともに、一行に加わって出かけた。天気が悪く、岸に近づく頃にはみなずぶぬれになってしまった。上陸するのも難儀であった。

<訳注>
オレンジ王子 後のウィリアム3世。父はウィレム2世、母はチャールズ1世の娘であるメアリー・ヘンリエッタ・ステュアート。当時、王子は9歳であった。
軍法務官 ジョン・ファウラー。

 海岸線は、そこからハーグの町までと同様、完全に砂浜だった。一行の他の人々は、それぞれ専用の馬車に乗る。クリード氏*と私は、ある馬車の前部に座ったのだが、そこにはたいへん美しい女性が2名いた。上流の身なりで黒のつけぼくろをしている。道中、彼女らはずっと陽気に歌を歌っていたが、これも実に上手。一緒にいた二人の伊達男たちにずいぶんなれなれしくキスしていた。

<訳注>
クリード氏 ジョン・クリード。エドワード・モンタギュ(ご主人さま)の従者で、ピープスのいわばライバル。ピープスの登場によって寵愛に陰りが見えていたようだ。

 私は縦笛を取り出して吹いたが、吹いているときに仕込み杖を落としてしまった。ハーグの町に着いてからボーイに探させたところ、彼はこれを見つけたので6シリングをあげた。もっとも馬に踏みつけられて、鞘は壊れていた。ハーグの町はあらゆる点でとてもきれいに整っている。家々はどこから見ても非常に整然としている。

 われわれはしばらくの間、あちこちを歩き回った。町は今、イングランド人であふれているが、これは、ロンドン市の代表団が今日、この地に上陸したからだ。

 もっとも、オレンジ王子に会いに行くと教育係*といっしょに外出中だったので、われわれは町や宮廷を歩き回ってその様子を眺めた。見知らぬイングランド人が案内してくれたので、多くの場所を見物し、また多くのことを教えてもらった。高位の人々の家の戸口にはいずれもメイポールが立っていたが、身分によってその大きさが異なっているのだという。夜10時頃、王子が戻って来て、われわれはすんなりと屋敷の中に通された。王子にしてはお伴の数がかなり少ない。もっともみな立派で、家庭教師も好人物、彼自身もなかなか端正な少年である。今晩は、月が明るく照らす夜だった。王子へのご挨拶を終え、われわれは予約してあった店に夜食を取りに出かけた。サラダひと皿に骨付き羊肉が2、3本、われわれ10名のために用意されていたが、とても奇妙である。食事の後、軍法務官と私は一行を残して別の家へ行き、そこに泊まった。彼と私は一つの折り畳みベッドにいっしょに寝た。同じ部屋にあと二人の客がいたが、すべてきれいに整えられていた。私のボーイはそばの長椅子で寝る。<15日【欄外注記】>われわれは3時過ぎまで横になり、それから起き上がって、日の出を迎えた町のあちこちを見物に出かけた。王子の衛兵たちを見たが、みな立派で、町の住民たちも武装して、銀のようにピカピカの小銃を携えていた。今朝、ある学校の校長先生に会う。英語とフランス語が上手だ。彼は、われわれとともに歩いて町全体を案内してくれた*。実際、この町の華麗な姿は言葉で表せないほどだ。女性たちも、その多くはとても美しく、よい服を着ていて、洗練されており、つけぼくろをしている。

<訳注>
教育係 ゾイレスタイン伯爵フレデリック・ナッサウ。オレンジ王子の祖父フレデリック・ヘンリーの庶子。
町全体を案内してくれた 実はこの日、後のチャールズ2世が、午前11時にハーグに到着しているのだが、ピープスはそのことを記していない。ハーグ見物に執心していたのだろうか。

 彼は、私の籠二つほどの買い物に付き合ってくれた。一つはピアース夫人*のため、もう一つはわが妻のためである。

<訳注>
ピアース夫人 ピープスの隣人ジャイムズ・ピアースの妻。ピープスの記述によると美しい女性であったようだ。

 彼と別れた後(もっともその前にわれわれの宿で一杯やったのだが)、軍法務官と私は大ホールへ行き、オランダ議会が開催される場所を見せてもらった。ホールは非常に大きく、敵対する国々から奪った旗がすべて掲げられていた。ウェストミンスター・ホールのようにいろいろなものが売られていて、その様子も似ているが、ウェストミンスター・ホールほど大きくはない。もっともはるかにきれいだ。

 この後私は本屋へ行き、製本の美しさに魅せられて本を三冊*買った――四部合唱のフランス語讃美歌、ベイコンの『オルガノン』、それにファーナビーの『修辞学』だ。

<訳注>
本を三冊 この時購入した、四部合唱のフランス語讃美歌、フランシス・ベイコンの『新機関』(初版は1620年)、トマス・ファーナビーの『修辞学』(初版1648年)の三冊のうち、ファーナビーの『修辞学』のみ、現在ケンブリッジ大学モードリン・コレッジのピープス・ライブラリーに所蔵されている現物と一致するのではないかと推定されている。

 その後、軍法務官、私、それと私のボーイは、馬車で再びスケヴェリング*へ向かった。そこの料理屋に入って飲んでいたが、風が非常に強く、2隻のボートが転覆して伊達男2名が足から浜辺に引き上げられているのを見た。トランクや旅行鞄、帽子、羽飾りなどが海に浮かんでいる。このほか私は、議会およびロンドン市の委員一行といっしょに来ていた聖職者たちがずぶぬれになっているのを見た。その中にはケイス氏*もいた。みな、われわれがいた料理屋に入ってきたのだが、私は急いで出たので、コペンハーゲンで買ったナイフをその店に忘れて、なくしてしまった。

<訳注>
スケヴェリング スヘーヴェニンゲン。ハーグの西にある海岸沿いの町。
ケイス氏 トマス・ケイス。長老派教会の教区司祭で、ロンドンの聖職者の代表の一人として一行に加わっていた。

 この店に長くいた後、ボヘミア王妃の使いとしてご主人さまの手にキスをしにきた一人の紳士と私は、4リクスダラー*でオランダのボートを雇い、船まで運んでもらった。岸から離れる前にずいぶん待たなければならなかった。海が非常に荒れていたのだ。

<訳注>
リクスダラー かつて、オランダやドイツ、スウェーデン、デンマークなどで使われていた硬貨。

 オランダ人の船頭は、このボートに乗り込んできたすべての人々から金を取ろうとした。私たち二人とその同伴者たちのほかにも、船の乗組員で浜辺にいた者たちが多く、このボートに乗り込んできたからだ。だが、陸ですっかり使い果たし、金を払えない者もいた。

 船に戻ってみると、上院の委員諸氏全員が、ご主人さまと昼食をともにしていた。彼らは食事の後、陸へ向かった。

 今はサー・サミュエルとなったモーランド氏*が船に乗っていたが、ご主人さまも他の誰も、彼に敬意を示してはいないようだ。彼は、ご主人さまからも他の人々からも悪者と見なされているのである。なかでも彼は、フォックス博士の娘と結婚していたサー・リチャード・ウィリスを裏切ったことがある。護民官にして国務大臣であったサーロウの指示で、ウィリスはモーランドに、彼が国王に関して送った情報の対価として千ポンドも払ったのである。

<訳注>
モーランド氏 初代男爵サー・サミュエル・モーランド(1625–95)。優れた数学者で発明家、外交官であり、スパイ活動に携わった。もともと共和制支持者であったが、初代男爵サー・リチャード・ウィリスとジョン・サーロウ、リチャード・クロムウェル(オリヴァー・クロムウェルの息子で、父の死後、短期間ながら護国卿を務めた)による皇太子(後のチャールズ2世)暗殺計画を知ると変節し、王政復古のために動くようになった。ピープスの日記にはこの時の背反行為が記されている。もっともピープスがケンブリッジ在学中、モーランドは彼のチューターであったこともあり、生涯にわたって両者の交流は続いた。トマス・フォックスについては詳細不明。その娘のアリスと、ウィリスは結婚している。ウィリスもまた共和制支持と王政復古支持の間を揺れ動き、二重スパイとも言われている。なお、ウィリスは、後にフランスのヴィクトル・ユーゴーが著した戯曲『クロムウェル』(1828年)にも登場する。

 午後、ご主人さまはわざわざ私をお呼びになり、船に着いたばかりの立派な衣装を見せてくださった。実際、非常に見事なもので、金や銀がたくさんついていた。ただ剣だけは、ご主人さまも私もあまり気に入らなかった。

 午後はまた、ご主人さまとともに、艦尾を二時間ほど歩き、いろいろな話題について語り合った。例えば宗教のこと――思うにご主人さまは、私と同じく、非常に懐疑的で、プロテスタントの信者たちの姿勢はローマ教会に対して実に異常である、とおっしゃった。ご主人さまは礼拝の統一的な形式がお好きなのだ。

 国事についてもいろいろ話し合ったが、なかでもご主人さまは、いつ頃から国王派にお変わりになったのかということを話してくださった。(というのも私が、国王陛下はいつからご主人さまを友と考えるようになったのかとお尋ねしたからなのだが。)それはご主人さまがサウンド海峡にいらっしゃる時のこと*で、共和制の政府から自分がどのような扱いを受けるかが分かったためだとのことであった。

<訳注>
サウンド海峡にいらっしゃる時のこと サウンド海峡は、スウェーデン南西部とデンマークの間にある海峡でカテガト海とバルト海を結んでいる。1659年、モンタギュは艦隊を率いてバルト海に遠征したが、共和制政府が送り込んだ要員たちに不信の念を抱いて撤退した。

 ご主人さまと艦長、それに私は、ご主人さまの部屋で夕食を取った。ご主人さまが以前よりもはるかに私に敬意を示すようになった、と私は感じた。

 夕食後、ご主人さまは、いっしょにトランプ遊びをするおつもりで私をお呼びになったが、私がクリベッジ*を知らなかったので、よもやま話に花が咲いた。もっとも海が荒れて船が大きく揺れ、立っていられないほどになったので、ご主人さまは私に就寝するよう言われた。

クリベッジ 通例二人でおこなうトランプ競技。

 
【ついにオランダまでやってきたピープス。次回はいよいよ皇太子(チャールズ2世)を迎えてロンドンへ戻ることになります。王政復古が始まる瞬間をピープスがどう描いたか、ご期待ください。】