散歩の足跡

歴史民俗博物館

 千葉県の佐倉に国立歴史民俗博物館があります。東京からだと京成上野駅から特急で約1時間ぐらいで京成佐倉駅に着きます。そこから、徒歩で20分ほど歩いたところに歴史民俗博物館があります。博物館自体は、佐倉城跡地に隣接しているため、最後に急坂を登る必要があります。

 佐倉城跡地は、緑地帯となっていて、散歩するのにちょうどいいロケーションとなっています。

 沼地では、スイレンが咲いていました。

 博物館の入り口には、朝顔が咲いています。近くには博物館の別施設である暮らしの植物苑があり、そちらで、色々な植物が見られるらしいのですが、今回は寄らずに帰ってきました。

 なぜなら、博物館の広さが半端なものではないからです。常設展示コーナーを見るだけで、2時間以上かかってしまいました。展示を見終わるころには、植物苑は頭の片隅からどこかへ消えていました。

 今回、訪れた目的は、縄文時代の展示物を見るためです。森沢明夫さんの「ライアの祈り」を読んでから、ちょっと縄文時代にはまっています。

 中に入ると、三内丸山遺跡をもとに復元した縄文時代の風景が描かれていました。そこには、毛皮ではなく、我々と同じように繊維でできた衣服を身にまとった縄文人たちがいました。この時代にもう織物や編み物があったようです。

 縄文時代早期頃は、地球温暖化の影響で、青森県にあるこの遺跡の辺りまで広葉樹林で、覆われていたそうです。『えっ!青森県まで広葉樹が…』というだけで、驚きなのですが、さらに、当時の縄文人は、その広葉樹の森林から、食料の糧となるクリやクルミの木を残して、他の広葉樹を伐採し、三内丸山遺跡の周辺にクリとクルミの林を作っていました。このクリの木は、竪穴式住居や道を作るときも利用されていたそうです。クリやクルミの林を作っていたことも驚きでした。

 展示物で、まず驚かされるのが漆が塗られた生活用具です。土の中にあったとはいえ、数千年近くたった今でも漆の輝きが残っています。

 出土した漆器は、現在作られている漆器とほぼ同じ作り方で出来ているそうです。木から摂取した漆の液をちゃんと漉したあとに塗っていたみたいで、漉した布の痕跡も出土しています。

 この頃に書かれた文字こそ見つかっていませんが、技を代々伝えていくために色々な会話をしていたことは間違いないと感じました。その頃の言葉は、どういうものだったのでしょうか?現在の日本語の発音に近いものだったのでしょうか?

 縄文人を発掘された遺骨から復元した像です。現在の日本人にもこういう顔立ちの方がいそうですよね。昭和の頃の日本人のように、手足が短いわけではなく、平成の現代人のように手足が長いのが、一つの特徴です。顔の輪郭は、瓜型ではなく、四角い感じですね。これも縄文人の特徴の一つです。

 最古の文字の記録は、弥生時代を過ぎて、古墳時代に入ってから出土しているようです。この写真の鏡のほか、漢字が書かれた刀も展示されていました。おそらく中国から入ってきた漢字を日本語にあてはめて使っていたのでしょう。この時代、まだカタカナもひらがなも生まれていません。

 漢字とカタカナをつかった記録が見つかるのは、古墳時代からさらに百年ほどたった平安時代です。そして、このころ、ひらがなも生まれます。しかし、公式文書は、すべて漢字で書かれていました。したがって、宮使いをしていた男たちは、みな漢文を覚えなければなりませんでした。逆に女性は、漢字を使用することはなく、ひらがなだけを使用していました。そのため、清少納言が書いた『枕草子』もすべて、ひらがなで書かれていたそうです。

 漢字だけで書かれた漢文は、非常に読みづらいことは、皆さんがご存じの通りです。そのため、漢文を少しでも読みやすくするためにカタカナを補う方法が、発明されます。残念ながら、こちらのコーナーは、撮影禁止になっていたため、写真が撮れませんでしたが、漢字だけの文章にカタカナを補った文章が展示されていました。

 『漢字+ひらがな』という現代の文章に近い形になるには、さらに百年程度かかっています。鎌倉時代にこの表現方法が使われはじめます。そして、公式文書で『漢字+ひらがな』が使われた例として、豊臣秀吉が農民から刀狩りしたときの文章が展示されていました。

 このように、ここ国立歴史博物館は、興味をそそられる展示物が多数あります。都心から少し離れているので、行きづらいところなのですが、ぜひ一度訪れて見て下さい。

 話し言葉と書き言葉に関しては、いずれエッセイⅡの方で改めて書きたいと思っています。そのときは、よろしくお願い致します。


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