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セールスライターが友だちについて考える

セールスレターとは、セールスラブレターだ。
買う気にさせるのではなく、買わない理由をなくす。
本人が「買う選択」をしたくなるまで、買わない理由を根気よく潰す。
これがセールスレターの役割。

だから、読者を「好きな人」と思って書かないと、本当の意味で買わない理由はつぶせない。そこまで付き合えないし、雑になってしまう。

そこで好きな人について考えてみる。
好きすぎるから、残念ながらセールスにはならない。
ライターとしてではなく、一個人として書いてみる。



友だち。
「志や行動などを共にして、いつも親しく交わっている人々。」

友だちのことを思い浮かべると、楽しい思い出がよみがえる。

放課後は黒板の前で、先生のモノマネして爆笑してたね。
缶は持ち込み禁止だったのに、こっそり買って飲んでたよね。
昼休みに学校を抜け出してお菓子を買いに行ったね。
マクドナルドではいつもコーラSサイズだけで粘ったね。
メンズノンノを見て、誰が一番カッコイイか盛り上がったね。

どれを思い出しても楽しい思い出。懐かしい。みんなと会えてよかった。

それなのに・・・

いい思い出の中に、どうしても重たいものが横たわる。
いい思い出なのに、本当に心から楽しめていたのか疑問が残る。

友だちに囲まれているのに、ふと「孤独」を感じたことがあるのは私だけではないだろう。

「孤独感」とは不思議なもので
今目の前に大勢の人がいるにも関わらず
今目の前の人と会話しているにも関わらず
ふとした瞬間に猛烈なスピードで襲ってくる。

友だちは、とても大切。なくてはならない存在。

でも、友だちの輪の中には、
ひっそりと、でも確実に「ヒエラルキー」がある。
そのヒエラルキーの中で、自分が最下層と感じるとき、
とんでもない孤独感が押し寄せる。
そして、この孤独感を口に出せないことが、またさらなる孤独感を募らせる。

言葉にするとネガティブだが、この孤独感は、誰にでも無意識について回っているのではないだろうか。

それでも、友だちが好きだと思う。
なくてはならないと思う。
人生から欠けては困る人たち。絶対に。

石川啄木の短歌で、私の心を打ちぬいたものがある。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ

当時はまだ子どもだったので、後半はピンとこない。
花を買ってきて妻としたしもうが、どうでもいい。
強烈だったのは前半。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ

「これ私のことだ!」
教科書から目に飛び込んできた途端、そう思った。
みんな、この残酷な短歌を、どういう気持ちで読んでいるんだろう・・・と思ったが、教室の中はいつもと変わらなかった。

もう一つ。16歳の私の心を打ちぬいたものがある。
忘れもしない。夏休み中の代ゼミの模試。現代文の設問。

村上春樹先生の「ノルウェイの森」から。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

もう、模試を解いている場合ではなかった。
この一文が強烈すぎて、模試が終わったその足で本屋に駆け込んだ。
それまで村上春樹先生を知らなかった。

「なんなんだこの言葉は!怖すぎる!でも今コレを絶対に読まないといけない」
よくわからぬ焦燥感に駆られ、「ノルウェイの森」をむさぼり読んだ。

死が生の一部として存在しているように、人が大勢いるにぎやかな場所にこそ「孤独」はひっそりと、でも確実に存在している。

そして、それを誰にも気づかれないように「楽しかったね」とうそぶく。

繰り返しになるが、言葉にすると極端にネガティブになるが、この真理に辿り着いて、なぜか安堵した自分がいる。

人は「わからない」ことが一番怖い。
「わからない」よりは「わかる」方が安心する生き物だ。
たとえそれが残酷な真実であっても。


こんなことに気づいてしまっても、友だちに会いたい。
30年来の付き合いができる相手なんて、本当に限られる。
だってあの子たちは、数少ない私の誇り。
これもまた、紛れもない真理。

いいことと悪いことはいつだって共存している。


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