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【プロセカ】奏とまふゆについて&イベント感想メモ【25時、ナイトコードで。】


※ネタバレ注意


前半の長文はイベントストーリーを読む前の妄想です。
現実の「25時、ナイトコードで。」とはいっさい関係ありません。


こちらの続きみたいなもんなので、先に読んでおくと以下のうわ言の意味がわかりやすくなるかもしれません。



奏とまふゆの関係

そもそも「誰かを救うために曲を作る」こと自体がおかしな話だ。
(いや、曲を作る目的は人それぞれでいいけど……)
まふゆを救うためには、「曲」よりも、奏(たち)がまふゆに寄り添って、まふゆが「本当の自分とは何か」を悩まなくても良いような心地よい共同体としての『25時、ナイトコードで。』を存続させることがいちばん現実的だと思う。
実際、ニーゴユニストでは、別に奏の作った曲によってまふゆは「消える」ことを止めたのではなかった。
奏がまふゆに向き合って、自分のエゴだと認めた上で「まふゆを救える曲を作り続ける」という「約束」をしたのが直接の原因だ。
つまり、奏が作る曲よりも、奏自身のほうがまふゆを救うには有効である。
しかしながら、奏は「曲」にこだわっている。そう「約束」してしまったから。
というより、「曲」にこだわらざるを得ないような状況に自分を追い込むために、奏は戦略的に「約束」をした、と言ったほうが正しい。
なぜなら、奏のいちばんの願いは「まふゆを救うこと」ではなく、「『誰かを救える曲を作る』という使命を自らに課すことで、自分の生きる理由を作ること」だからだ。
ユニスト18話で「それは、ただのエゴだよ」と言い切った背景には奏のこうした自己完結的な人生観がある。

ここで問題なのは、ではまふゆは奏との「約束」を、そして奏自身のことをどう思っているのか、ということだ。
奏の必死の説得からなにを感じ取って、まふゆは「消えるのは……もう少し先でもいいかな」と言ったのか。(そんなこと言ったっけ?)
本当のところ、まふゆは奏に何を期待しているのか。

より厳密には、まふゆが考えを翻したきっかけは「まふゆを救う曲を作り続ける」と奏が宣言したことではない。
そう高らかに宣言しているのはエゴでしかないと奏が認めたことである。
つまり、奏がまふゆのためではなく、奏自身のためと認めながら、それでもまふゆのほうに向かって手を差し伸べてくれることに「救われている」のである。

まふゆの目に、奏は、まふゆの苦悩の根源である親とは対称的な存在として映っている。
奏もまふゆの親も、自分の利益のためにまふゆに積極的に関わっていることは共通している。
違いは、その利己性を認められているかどうか、という点にある。

まふゆの親は「あなたのためを思って」と言いながら、まふゆに関わってくる。
もしもまふゆが「私のためなんて言いながら、本当は自分たちのことしか考えていないくせに」と糾弾しても、両親はおそらく頑なに利己性を認めようとしないだろう。(こうした糾弾を全くしなかったために、まふゆは現在の状況になったのだが)

しかし、前述の通り、奏は「これは私のエゴでしかないけど」と言いながら、まふゆに関わってくる。
幼少期から、周りの人間の都合の良いように、自分を殺しながら過ごしてきたまふゆにとって、
エゴにまみれた醜悪な自分を殺すどころか高らかに掲げる人間の存在は、さぞかし衝撃的だっただろう。
そして、そんな奏の姿は、今のまふゆにとって目指すべき理想そのものだ。
まふゆにはエゴがない。周りに合わせることで、それは少しづつ少しづつ擦り切られていった。
そうして、まふゆのなかは無菌室のように徹底的に漂白された空っぽの空間に、「何もないセカイ」になった。
エゴ(利己心)は、人間が人間であるために必要な道具であり、自分が自分であるための「核」そのものだ。
それを失ったまふゆにとって、エゴを掲げながら自分に近づき寄り添ってくる奏の存在は、空っぽな空間に忘れかけていたエゴを少しずつ注ぎ込む、文字通りの救世主足りうる。なにせ、今のまふゆには、そもそも救われるような自己が存在しないのである。
救われるためには、救われる"自分"が存在している必要がある。
奏は、自らのエゴをまふゆへと突きつけることで、いずれ救うためのまふゆという存在を形作ることができる。


奏の使命について

「皆を救える曲」を書くことは不可能だ。
少なくとも「皆を救える1曲」は未来永劫存在しない。
したがって、この目標を達成するためには、まふゆに誓ったときと同様に、皆を救える曲を"作り続ける"必要がある。
つまり、奏の目標は永遠に達成されることがない。奏の目的にはゴールがない。ただ、作り続けるという過程、持続的な時間の積み重ねだけがある。
そして、奏はおそらくそのことに気付いている。というか、強く自覚したうえで、だからこそ「皆を救える曲を書く」ことを至上命題としている。
なぜなら、上で書いた通り、奏の本当の目的は別にあるからだ。
「曲によってひとを救う」のは、その真の目標のためにでっち上げた暫定的な準-目標でしかない。
真の目標とは、「生きること」=「自分が生きる理由を作ること」である。
奏は「生きていくため」に、「皆を救える曲を作る」という、永遠に達成不可能な目標を掲げている。
もし達成してしまったら、奏には生きる目的が、理由がなくなってしまう。
奏は生きる理由がない状態に耐えられない。なぜなら、一度それを経験しているから。
自らの曲によって最愛の父を決定的に傷つけてしまったことから、奏は「消えたい」と願った。
おそらく、まふゆや他のニーゴのメンバーの誰よりも強く、自分に絶望した。自分が存在することに我慢がならなかった。
「何もない」自分が存在していてはいけない。存在しているだけでひとを傷つけてしまうのだから。自分は生きているだけでマイナスの存在だ。今すぐに消えなければならない。そう強く心のうちで叫んだ。
そうして、それでも消えることができなかった奏は(何しろまだごく幼い子供なのだ)、あることを思いついた。
「何もない」自分が存在していてはいけないならば、「何かある」自分なら存在していてもいいのではないか。
生きているだけでマイナスなら、何かひとの役に立つことをして、自分の生の価値をプラスにできないだろうか。
それによって自らの生を肯定できるような「使命」、「生きる理由」があれば、これから先も私は息をし続けることを許される。
自分が息をすることを、自分で許せるようになる。
そうして、奏は、倒れる前の父の言葉を思い出した。

「奏、お前は誰かを幸せにできる曲を作り続けるんだよ」

これだ。これしかない。そう思った。
自分の生を肯定できる使命を求める奏にとって、大それた、およそ実現が不可能な目標であればあるほど都合が良かった。
今はもうほとんど話もできない父が最後に自分にかけてくれた言葉は、奏にとってもっとも都合がいい言葉だった。
奏は、生きるために、自分で自分を承認するために、この父親の言葉を自らの使命とした。
自分で自分に呪いをかけた。生きていくための呪いだった。
この呪いが解ければ、奏はまた、「今すぐに消えなければならない」と自分で自分を責め続ける状態に逆戻りしてしまう。
でも大丈夫だ。だって、「皆を救える曲を作る」ことなんて、誰にも、永遠に、できっこないから。
だから安心して奏はこの呪いを自分にかけた。呪いに耽溺し、呪いのなかに安住した。
「皆を救える曲を作らなきゃ」と焦燥することによって、より深い、いまではもう無意識にまで沈めた領域では、奏は強く安心している。
永遠に達成することのない目標を目指して焦れば焦るほどに、奏は心地よい安らぎを覚える。
私はまだ生きていてもいい。私には生きる価値がある。甘く、切実な言葉を、自らにかけながら。

奏のこうした人生観・アイデンティティは、きわめていびつだ。いびつだが、倫理的に非難することはできない。
理由が何にしろ、「誰かを救える曲を作る」ことは、社会にとって倫理的に良いことであるし、元来、どこまでも優しく純朴である奏は、いっさい倫理にもとる行為はしていないからだ。
倫理の観点から奏の価値観を批判することはできないが、奏自身の健康・精神衛生の観点からは、非難というか「心配」をすることは許されるだろう。
こうした歪んだ呪いの上に立脚している奏を「心配」できるのは、客観的な第三者ではなく、奏と深い付き合いのある家族や友人だけだ。
そして、奏での現在の家庭環境から、その候補となるのは友人に限られてくる。もっとも、ニーゴの場合は「仲間」と言ったほうがいいかもしれないが。
ニーゴの仲間たちが、これから先、こうした「心配」をして、奏の呪いについて深く掘り下げることになるかどうかは分からない。
何しろ、ニーゴという音楽サークルは、そもそも奏での「呪い」をうまく駆動させるために存在しているのだから、そこに切り込むことは、必然的にニーゴという共同体の存在意義に警鐘を鳴らすことになる。
個人的には、呪われた共依存関係にあるまふゆが、奏の危うさに対して積極的にアプローチしてほしいと思っている。
(積極的にアプローチできた時点でまふゆはエゴや自分を取り戻せていることになるだろうから、あるとしても当分先の話だ。今のところは瑞希あたりが心配する場面のほうが遥かに想像しやすい)


ここまでイベスト未読の状態で書きました。

以下、イベントストーリー『囚われのマリオネット』の1話ごとの感想です。



1話

あれから先も、ナイトコード上ではハンドルネームで呼び合ってるんだ。

絵名:セカイで雪が取り乱していたときはまだ向き合えたが、いまの雪はロボットみたいでよく分からない。

奏「雪のこともっと知りたい。救える曲を作るために」


2話

まぁぶっちゃけ、「雪を救う曲を作り続ける」と啖呵を切ったときに奏は「そうすれば自分の呪いがいっそう強化される」なんて利己的なことは頭になかっただろう。ただ、目の前の人間を放っておけないヒーロー気質の人間であっただけだ。
(でも、だからといって「これはエゴだよ」と告げたのが嘘や間違いというわけではなく、冷静に考えると、雪への約束は呪いの構造を強化することになる、というのもまた正しい。)

ヒーローの原理的な傲慢さ:誰かを救うためには、救いを必要とする人間(苦しんでいたり不幸だったりする人間)が必要

穂波来た!!!

奏→穂波 はタメ口なんだな。1歳年上だし、雇用主と労働者の関係だから当然かもしれないけど、何となく奏なら家事代行サービスのひとにも丁寧語を使いそうだと思ってた。

同じ高校生でありながら、こうして労働によって生まれる上下関係になんだかゾクゾクする。これって変な性癖かなぁ。

穂波ってそういや利他主義の権化みたいな人間だよな。そのせいで嫌われたりもしたけど。
そういう意味ではまふゆと似てるのか。奏とは真逆。
でも、奏も困ってる人を放っておけないという意味では同じか。

や、やめろぉ!そうやってレオニのユニストの穂波自身のことを穂波に語らせるのは!泣いちゃうから!

そういや、雪を救う曲って、歌詞は誰が書く想定なんだ。雪?
雪が自分で書いて救われるの?

曲に救われるってのも、主に歌詞によって救われる場合と、歌詞関係なく曲自体で救われる場合とがあるけど(もちろん、どちらでもないというか、両方が一体となって救われることがいちばんあり得るだろう)、奏は具体的にどういう想像をしているんだろう。
自分の書いた、歌詞の付いていないinstrumentalで雪を救おうとしているのか、雪を救うような歌詞を雪自身が書いてしまうくらいのインスピレーションを与えるような曲を作るのか、奏が歌詞も書くのか……。
あと、「曲で」救うってなったら、瑞希と絵名の立場が無くなってしまう……。


3話

奏、人形展に自分は行くつもりなかったんかーいwww

ええ…… 人形<絵画 ってそれは流石に苦しくないか……?
教養エアプかよ

プロセカのシナリオの魅力のひとつは「細部(特に悪者まわり)のリアリティ」だと思ってるけど、これはさすがにちょっと雑じゃないかなぁ、親のキャラクター造形。

あれでしょ、漫画ばかり読んでないで小説を読みなさい、それもラノベじゃなくて教科書に載るような文学作品を・・・とか言っちゃうやつでしょ。

個人的には、まふゆの親はこういう「いかにも」な悪役じゃなくて、もっと理解のある、理解があるからこそ余計にたちが悪い人物でいてほしい。その塩梅はめちゃくちゃ難しいだろうけど……



4話

人形って音楽要素はないけど、奏はちゃんと楽しめるんだね。音楽以外の感性も豊か。
まぁ3人のイラスト・動画・歌詞を監督してるんだし当然か。

そんなに表情かわってないかジロジロ観察されてたら居心地悪くない?

うわーまじか・・・トラウマ的にフラッシュバックして具合が悪くなるって、相当ヤバいな・・・
なんかもっと平坦にダウナーに自己が死んでる感じだと思ってたけど、意外と深い傷があるのか。

何が好きかじゃなく、何に嫌悪感を覚えるかで自分を知れよ!



5話

いやぁ、奏さんそこを今掘り下げるのは悪手でしょ。自分の目的のために相手を傷つけてしまっては元も子もない
さすが瑞希、気遣いの鬼。こういうときに冷静にテキパキ対処できるの、こないだのイベストの穂波っぽい。

深層心理が具現化した場所に他人が好き放題入り込めるのって、けっこうアレだよな。
まふゆは気にしないだろうけど

ひとりで退屈だろうからって誰かがゲーム持ち込んで、ニーゴミクがRTAガチ勢になる2次創作ください

セカイのミクでも、今のセカイ主の感情・思考内容をモニタリングして知ることはできない。

ミク、マリオネットは知ってるのか。ミクの標準装備知識ってまふゆの知識?……ならもっと博識になるだろうし、違うよな


6話

まふゆの夢。精神分析めいてきたが、なるほどなぁ。シンプルだけどこの展開は上手いなぁ。(まふゆに対する奏の取ろうとしてる立場は精神分析医みたいなものか)
ちょっとしたホラーというか、怪奇幻想文学っぽいのがニーゴに合ってて好き。

まふゆ→奏 の心象をはっきりと示してくれる

『他人事の音がする』まふゆカバーよろしくお願いします。


「何かが決定的に足りないことだけわかって……」ほう。渇望感があるのはめちゃくちゃ大事じゃないか。
そういやユニストでも「足りない」という言葉を使っていたよな。たしか、自分を救えるかもしれない曲に対して。
足りる/足りない とか、充足/欠乏感はまふゆを掘り下げるうえでキーになってきそう。

これはJPSGまふゆ作詞パターンか。

「ふつうの言葉と歌詞の違い」は文学的・言語学的にも興味深いテーマ



7話

OWNで制作していたときの精神状態もまたかなり特殊だったらしい

雪が自己投影しているマリオネットについての歌詞を書かせる・・・ほんと臨床実験みたいになってきてる

本当の想いを一度見つけたあとも、セカイには本人の深層心理を反映したモノがまだまだたくさんある、と。
追加でイベントストーリーを作るのに便利な設定だ。

マリオネットが出てくるボカロといえば……ストリーミングハート!


マリオネットの糸を切ってあやとりとして遊んでいる。
いくらでも解釈可能なモチーフだ。(こういう、いかにも好きに解釈してくださいと誘われている場合、やる気を無くす。天の邪鬼なので)

古き良きツンデレの趣w 作中キャラが言っちゃうんだw

いいなぁ絵名。バカみたいって率直に言える絵名は間違いなくニーゴに必要。まふゆにとって大切な存在になる



8話

JPSGは詞先(という設定)なのか。

まふゆの歌詞に奏が音楽を吹き込むことで、まふゆの空っぽの心に奏が感受性を吹き込む。より正確には、もともとあったけど見ないふりをしていたものに気づかせる形だが。

「感じられないって思い込んでるだけ」それはそう。
フロイト的には「私は何も感じられないと思いたい」という欲望があり、その欲望をまふゆは無意識で抑圧している(構造的無知)ってことか。

なるほど、瑞希と絵名の存在意義はそういうことか。
言葉だけでは表現できないことがあるから、絵とか他の媒体・形式で表現してみてはどうか、という瑞希のアドバイス。
奏とまふゆだけだったら、曲と詞の2通りしか表現手段がないけど、瑞希と絵名がいることで、他の選択肢も増えるってことか。いいチームだ。
それに、曲だって作れちゃうまふゆはその気になったら絵や動画も作れそうだし……(えななんが病んじゃう!)

うわ〜〜〜〜えななん×雪のやり取り完成されてるwww

「そうなんだ。よくわからなかった」

バートルビー「せずにすめばありがたいのですが」並にダウナーかつ妙にキャッチーな名言だw 最高

まふゆの書いた歌詞に同じようにダメ出ししたらまふゆは怒るのかな。無表情でキレそう

目が線まで細くなる奏の笑い方ほんと好き。健気さに泣きたくなる。

うわ〜〜〜よかった〜〜〜〜
まふゆ以前に、奏が「私は今楽しいよ」と言えるのが……それがたとえエゴにまみれた呪いの上に成り立っているとしても……奏……良かったね……。

ニーゴの仲間とどんどん親しくなっていって、「皆を救える曲を作る」という使命を自らに課さなくても、何も背負わなくても、自分は生きてていいんだ。だってニーゴの皆との毎日がこんなにも楽しいんだから。
「生きてもいい」じゃなくて、「生きたい」と思えるようになれたらいいね・・・
呪いのためでなくとも曲は作れるんだからさ・・・

奏がそうなるためにはまふゆがまず大丈夫になる必要がある(約束があるので)んだけど、今回のイベストを読むかぎりそれほど心配しなくとも良さそう。
というか、そもそもまふゆが「私を救える曲をよこせ」と頼んだわけではない。約束とは名ばかりの、奏の一方的な押し付けだ。(だからこそまふゆは少し救われた)
ユニットストーリー20話の時点で、まふゆは「自分を見つけたいんじゃなくて、自分を見つけてほしかったんだ」と、自分のなかにある「他者」へのまなざし・期待感に気付いた。だから、ニーゴの面子と一緒に過ごし、歌詞を書き作品を制作してたまにファミレスで駄弁る生活を送るだけでも、まふゆにとってはかなりの救いとなるんじゃないか。少なくとも、家や学校でのように優等生の自分でいなくていい時間は、彼女に絡みついている糸を少しずつほぐしていく作用があるだろう。
まぁ、根本的な原因である両親との対話はどこかの時点で必要にはなるんだろうけど、その対決のときまでに、ニーゴの仲間との信頼関係を築いておいてほしい。彼女が折れないように。もしものときは支えてくれるように。



これを書いていたらアフターライブを見逃しました(本末転倒)

観た後になにか思うことがあれば追記するかもしれません。


【追記】

観ました。

てっきりJPSGやるんだと思ってましたが、そういや3DMV未実装でしたね。初イベントということもあり『ステラ』が特別だっただけでしょう。

アフターライブで披露しなかったことにより、イベントストーリー中でまふゆがマリオネットに感じる嫌悪感をもとに歌詞を書いた曲が「ジャックポッドサッドガール」ではない可能性も生まれました。まぁ普通に考えればJPSGでいいと思うんですが、そうでない「余地」が生まれたことは大きいですね。


マリオネットの「糸」と他者について

今回は「何の意味もないライブだったね」と言いませんでしたね。「ミク、糸を切ってくれてありがとう」「まふゆはもう自由だよ」的なやり取りについて、セカイにあったマリオネットの糸をミクが切ってあやとりにしたのは事実なので、何も間違ったことは言っていませんが、これを素直にまふゆの抑圧からの開放とみなすのはどうなんだろうと思います。

たしかに本イベントストーリーにおいて、マリオネットにまふゆが自己投影して嫌悪感を覚えたことから、「マリオネット=まふゆ」かつ「糸=自分を縛る外的・内的な抑圧」という等式が彼女の無意識で成立しているとみなすのは自然です。
ここで「外的な抑圧」とは親やクラスメイト・先生などの周りの人からの「まふゆは良い子であり優等生である」という無言の視線・思い込みのことです。
内的な抑圧」とは、そうした良い子であり続けることでまふゆ自身が「わたしには何もない。何も感じられない人間だ」と思い込み、実際にそうした人間であろうとしている作用のことです。(フロイト的な考え方)

イベントストーリー後、「糸はもう切れた」と言っているわけですが、以上のように「糸=内外の抑圧」と捉えると、じっさいは完全に糸が切れたわけではないでしょう。外的抑圧も内的抑圧も完全に無くすことは誰にもできないからです。糸に繋がれているのはまふゆだけではありません。私たち全員が多かれ少なかれこの糸を身にまとっています。

外的抑圧=周りからの視線・期待というのは、他人と関わる限りついて回るものです。「期待」と書くと大げさですが、例えば、あなたが知らないひと(Aさん)に対面したときに「このひとは男性だな」とか「背が高いな」とか「黒髪だな」とか、そういう外見的な基本情報についての感慨をいっさい抱かないことは不可能でしょう。「黒髪だな」と(無意識にでも)思った時点で、あなたはAさんに「糸」を張っていることになります。外見の情報だけでなく、会話を始めたら「こんな声なんだな」とか「こんな喋り方なんだな」とか「こんな趣味があるんだ」とか、内面の情報についても何らかの感慨を抱くことでしょう。いっさいそうした感慨を抱かないとしたら、それは他人と関わっているとは言えません。糸とは、その名の通り、他者と自分のあいだの「つながり」に他なりません。

いま、「感慨を抱いた時点であなたはAさんに糸を張っている」といいましたが、正確には違います。厳密には、あなたが糸を張るのではなく、「このひとは私のことをこういう人間だと思っているな」「いま私に対してこう思ったな」とAさんが"思い込む"ことで、Aさんが自分に糸を張るのです。糸は自分でしか張れません。

まふゆの場合はどうでしょうか。まふゆの母親が「まふゆのためを思って」あれこれ言ってきたとします。このとき、母親がまふゆに糸を張ってがんじがらめに拘束しているのだと思ってしまいがちですが、より本質的には、あくまで糸を張っているのはまふゆ自身です。つまり、母親に指図を受けるたびに「お母さんは私のことをこのように思っているんだな」「私にこうなってほしいのだな」とまふゆが感じることで、母親の期待に沿ったまふゆになれるよう、自分で自分に糸を張っているのです。外部からの抑圧といいながら、その実態は自己完結的なものです。(とはいえ、この場合は親に根本的な原因があることは確かですが……)

こうして、さきほど挙げた外的抑圧と内的抑圧がひとつに収束します。周囲からの期待に沿って自分を縛るのも、自分の内なる欲望に沿って自分を縛るのも「自分で自分を縛っている」点に関しては一緒です。まふゆはマリオネットでありながら、マリオネットを動かす傀儡子(くぐつし)でもあるのです。まさにストリーミングハート。

こうして、マリオネットの糸を介した「縛る者ー縛られる者」という権力関係は解体されました。それはまぼろしです。糸とは他者との(健全な)関わり合いのなかで必然的に発生するものでありながら、糸を張るのは常にそのひと自身です。糸を繋いでいるのはまふゆだけでなく、奏も瑞希も絵名も、そして私たちもそうです。

まふゆがひとと違うのは、その糸の張り方が極端であること、そして、自分で張った糸にたいして人一倍敏感であることです。他者からの眼差しを察することで自分を作り変えて演出し続けていくのは、誰もが日常的にやる行為ですが、そのグロテスクさにまふゆは気付いてしまい、気付いたあともその行為から逃れられないことに絶望しているのです。

ここで難しいのは、まふゆはある意味で何も間違っていないということです。必然的に糸が絡む他者との関わり合いをグロテスクだと感じるまふゆの感受性はある種正しくて、そのグロテスクさを「見ないふり」して平気で社会生活を営んでいる大部分の人間(私たち)のほうにこそ欺瞞がある、とも言えるからです。

社会を成立させるために見ないふりをされている人間存在の暗部に切り込んでいるのが朝比奈まふゆというキャラクターです。いやはや、若者向けソーシャルゲームのキャラクターとして本当に挑戦的ですね……まぁ私が勝手に、まふゆというキャラクターに対して「人間存在の暗部」を読み込んでいるだけだとも言えるのですが。

ちなみに、以上のことを書いてて「こういうのに近いこと書いてる記事、なんか最近読んだな〜」と思い出した記事はこちらです。


【追記終わり】






ユニットストーリー初読時の妄言

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