見出し画像

オタクの2次創作観について偉そうな意見を投げたら丁寧な返答をもらった



以前、このような素敵なやり取りを交わさせてもらったねぎしそさんと、再びやり取りをさせてもらいました。

その流れを軽く説明します。



昨夜、こちらの記事を読んで思うところがあったので、ブログ主(ねぎしそさん)にマシュマロを送ることにしました。書き始めたら興が乗って3,600字を越えてしまい、4分割してマシュマロで送りつけるのも気が引けるためGoogle ドキュメントに貼り付け、URLを添える形にしました。以下がそのマシュマロです。

くれぐれも注意して頂きたいのは、わたしは発端となったマシュマロの送信者ではなく、勝手に話に加わった迷惑野郎であるということです。(本来はラブライブにおける「ことほの」と「ほのうみ」というカップリングのどちらが"正解"に近そうか?という話題でしたが、わたしはそもそもこれらのキャラをよく知りません。顔がぼんやり浮かぶ程度です)


そして今朝、わたしの長文に対してたいへん丁寧な返信を頂きました。百合作品布教のときもそうでしたが、本当にありがたい限りです。

これに対して、本noteではかる〜く再返答をしたいのですが、その前にいちおう自分の元のマシュマロ(ならぬGoogleドキュメント文章)を全文載せておきます。ねぎしそさんの記事内でも全文載せてもらっています。なお、こうして全文の掲載が複数箇所で行われているため、役目は果たしたと判断し、元のドキュメント文書は削除させて頂きました。


※そもそも、はじめマシュマロで匿名で送りつけたのに、なぜ今さらになって身元を明かすのか?という点ですが「ずっと匿名のままでいるのは卑怯だから」という理由ではありません。わたしは匿名で意見・批判を送ることが卑怯だとは思いません。マシュマロという匿名サービスが存在し、それをブログ主が設置している時点で、そこから意見を送るのはきわめて正当な手続きです。
ですが、それとは別に、単なる好み・信念の問題として、わたしは匿名で意見を送ることがあまり好きではありません。というより、わたしは自分語りが大好きで、自分であることを周りにどんどんアピールしたい自己顕示野郎なので、基本的にマシュマロを使わずにTwitterなどで直接DM・リプライを飛ばします。(百合作品布教のときはそうでした。)
しかし現在はTwitterのアカウントがなく、noteでわざわざ記事を書くほどのことでもないかなぁ……と思ったため、最初マシュマロから送りました。ですが、ブログ記事で丁寧な返答も頂いたことだし、それへの再返答も載せる形であれば、ひとつのnote記事にまとめるには十分だな、と判断したため、今回、noteを書いています。


では前述の通り、昨夜わたしが送った長文から掲載します。


ーーー引用始めーーー

こんばんは。
本日のカプ解釈記事、非常に興味深く拝見しました。
そのなかで2点ほど思うところがあったので送らせて頂きます。
元のマシュマロを送った方(Mさん)とは全くの別人、部外者です。
ラブライブをほとんど知りませんが、一介のオタクとして意見させて頂きます。
ねぎしそさんを非難したり、ねぎしそさんの推しCPの正当性を疑うつもりは毛頭ありません。
(そもそもほのうみが誰かよく知らないので)

1点目は重箱の隅をつつくような、大したことのないイチャモンです。
まず、①の回答「作品には基本的に関係の勾配が存在する」は仰る通りだと思います。
ただ、具体例の説明内の "情報の追加によって「ABCにおける関係性」はどんどん狭まっていく" という1文にはやや引っかかりました。ここで挙げられたABCの例は、あくまでねぎしそさんのこの持論を補強するために都合よく作られたものです。

複数のキャラが登場するあらゆる作品・物語で、この「情報追加に比例して関係は固定され狭まっていく」という法則が成り立つとは到底思えません。
物語が進んだり、メディアミックス等で参照すべき"原典"が増えるに従って、あるキャラの様々な側面が描かれ、多様な関係の可能性が生じることは容易に考えられます。
例えば1期に登場しなかった2期からの新キャラとの関係の余地が生まれる、とか。(具体的な作品名を出せ、と言われたらよく知りませんが……)
思うに、"法則"が成り立つか否かはコンテンツのジャンルによって大きく変わるのではないでしょうか。

ねぎしそさんの主戦場であるラブライブ、あるいはより射程を広くとって2次元美少女コンテンツの主なファン層が百合的なキャラ消費を好むのであれば、そう消費しやすいように作られることでしょう。つまり商業コンテンツである限り、早い段階でCPが固定されるか、あるいは様々な選択肢を残すか、といった方向性の舵取りは需要と供給の折衝によって決定されるのであって、まったく別のタイプの需要を持つ消費者がメインのコンテンツであれば、"法則"は成立しなくなると思われます。

また、次の文 "そして、それは原作を深く読み込むことでしか得られない行為です。" にも引っかかります。「深く読み込む」と、あたかも1次元(スカラー)的に作品需要が測られるような言い回しを用いていますが、雑に言っても「どの方向に深く読むか」は一方向ではないはずです。

この読みは深い、この読みは浅い、といった価値判断は結局、自分の推しCPの正当化に都合がいいかどうかといった恣意的な基準しかないと思います。深く読めば読むほど、一見自明に見える王道(幼馴染?)CPではない、描写の薄い関係に可能性が見いだされることもあるかもしれません。「同じコマにいたから2人は付き合ってる!」という定型句がありますが、「深く読む」ことと「妄想する」ことのあいだに絶対的な線引きはなく、両者はグラデーションで繋がっているのではないでしょうか。(余談ですが私も幼馴染CPは好きです)

長くなりましたが、以上が重箱の隅をつつく1点目です。


2点目は、記事の後半の「キャラの感情とオタクの感情のどちらを尊重するか」という議論についてです。

ねぎしそさんは「①キャラクターは抗議の声を上げることができないから」せめてキャラの尊厳を守るために、なるべく原作の設定を遵守する、という立場であると読みました。そして、顔カプなどのオタクは自分の好みを優先してキャラの尊厳を毀損しているから残酷である、と。

わたしはこれに異を唱えたいです。わたしの立場は「キャラクターはそもそも生きていないのだから、何を2次創作しようがキャラの尊厳を損なうことは原理的にあり得ない。『残酷』だと感じるのはどこまでもキャラの部外者であるオタク自身(ex.ねぎしそさん)であって、キャラ自身の尊厳を人質のように持ち出すのは卑怯だ」というものです。

ねぎしそさんは「キャラーオタク」という関係下での倫理の話をしているのに対し、わたしはその関係を信じず、キャラやコンテンツを依り代とした「オタクーオタク」の関係があるのみであると考えます。
つまり、オタクがオタクに文句を言うのは何も問題はないのですが、そこにキャラの尊厳だのキャラがかわいそうだのという理屈を持ち出すのがタブーだと思うのです。

キャラの尊厳というなら、そもそも2次創作それ自体が問題になると思います。
愛し合うABというCPがいたとして、ABがイチャイチャする2次創作を描くのは「ABにとって」良いことなのでしょうか。わたしはそうは思いません。「AB好きのオタクにとって」は良いことでしょう。でも、それだけです。キャラの尊厳を持ち出すのは、AB推しのオタクが都合よく理論武装するための方便としか思えません。2次創作はどこまでもオタクが自分自身のために行う行為であって、キャラの尊厳を守るなどという正義感にまみれて行うものではないと思うのです。

「俺はABのために2次創作をしてやっているんだ」と本気で思っているオタクがいたら恐ろしくないですか?2次創作は自分が自分を救う・満足させるために行われるべきです。2次創作は自慰行為であって慈善行為ではありません。

原作外で幸せを感じる機会が増えたことで、ABの尊厳は守られているのでしょうか。いえ、2次創作の時点で「余計なお世話」であり、ある意味で「暴力」なのではないでしょうか。

わたしは2次創作がダメだと言っているのではありません。著作権もここでは関係ありません。

全ての2次創作は「自分が楽しいから」というエゴにのみ駆動されて行われるべきものであり、エゴを取り繕ってキャラの尊厳やら幸せやらのために自分が「してあげている」のだという気持ちが少しでもあったら、それは健全な創作態度であるとは言えないとわたしは思います。(いや、作品と自己の境界があやふやになるほど入れ込んで狂ったオタクが「ABのためにしてやっているんだ!私が作らなきゃABは報われない!」という衝動に突き動かされて2次創作に邁進する姿はそれはそれでひとつのオタクのあるべき(不健康な)姿だとも思いますが……これはあくまで「狂った」というエクスキューズありきの事例であって、他者に理知的に説得する(ねぎしそさんが元記事で行っているような)レベルでの正当性は保てないでしょう)
まとめると、原理的にあらゆる2次創作は原作やキャラへの暴力性を孕んでおり、オタクはそれを自覚した上で、「自分の快のために」好きなように2次創作を行うべきである。他人の2次創作を「自分の好みに基づいて」称賛したり非難したりするのも自由だが、そこに自分の快不快を越えた「キャラの尊厳」などの外部の要素を持ち込むことはそれ自体が自らのエゴイズムを覆い隠さんとする欺瞞である、ということです。

顔カプのオタクに文句を言うのはまったく問題ありません。しかし、それは正義の名の下に行われるべきではなく、あくまでねぎしそさん自身の「原作カプを愛でたいし、それ以外が目に入ると不快だ」というエゴの下で行われるべきだと思うのです。

元記事では
「①キャラの尊厳を守るべき」→「だから原作カプのほうが正しい」
という順番になっていますが、本当は逆で
「私は原作カプを愛でたいしそれ以外が目に入ると不快だ」という思いがまずあって、そのエゴに客観的な正当性を纏わせるために「①キャラの尊厳を守るべき」という"宗教"をでっち上げているのだと思いました。

"一方で「二次創作で穂乃果ちゃんに人殺しをさせる行為」は、「普通の女の子である穂乃果ちゃん」にとってかなりの心的負担を負わせることになるはずです。"
とありますが、穂乃果ちゃんが人殺しになることで本当に心理的負担を負うのは、穂乃果ちゃんではなく「あなた」ではないですか?それを「穂乃果ちゃん」へとすり替えてはいませんか?勝手にキャラに心理的負担を負わせて自分の願望の充足を達成する行為のほうが、わたしには「人殺し穂乃果ちゃん」の2次創作をする行為よりも"正しくない"と思えます。


めちゃくちゃ長く、読みにくくなってしまいすみません。
書きながら自分の意見にも様々な粗というか疑問点が浮かんできました。

例えば上の主張では「原作と2次創作には絶対的な隔絶がある」ことを前提としていますが、漫画原作のアニメ化作品のように、どこまでが原作でどこまでが2次創作なのか一概には言えない案件は多々あります。また、原作至上主義にまでなってしまうとそれもわたしの本意ではありません。

それから「キャラは生きていない」すなわち「フィクションとリアルには絶対的な隔絶がある」という前提も、VTuberなどの台頭により自明視することはできなくなりつつあるため、まだまだ考える余地はあると感じています。

非常に興味深い記事をありがとうございました。
おかげさまで考えが深まり、整理され、課題も多く見つけることができました。
これからもTwitter/ブログの更新を楽しみにしております。
またいつかお話しできたらうれしいです。

ーーー引用終わりーーー


※補足:最後の「またいつかお話しできたらうれしいです」の「お話し」とは、このようなテキスト上のやり取りを指しているのではなく、音声による個人的な通話を指したつもりです。(以前、一度だけ通話をさせてもらったことがあるため)


これに対して返答のコメントを頂きました(再掲)


以下ではこちら↑の記事で頂いたコメントの幾つかについて、かる〜く再返答をさせて頂きます。なるべく短くしたい……(フラグ)


1点目「情報が増えるほどにキャラの関係は固定される」という"法則"は必ずしも成り立たないのではないか、という指摘についてねぎしそさんは

いくら新キャラが現れようとも、いくら多様な関係の可能性が生じようとも、「作品には基本的に関係の勾配が存在する」のではないでしょうか。

と書かれています。しかし微妙にわたしの意図が伝わっていない気がしました。
"いくら多様な関係の可能性が生じようとも、「作品には基本的に関係の勾配が存在する」" のはわたしも最初に認めています。争点は、その「関係の勾配」が情報・設定の増加に伴って(単調に)固定され、狭まっていくのか、という点です。わたしは「勾配はいくらでも変化する(ことができる)のではないか」という立場です。

これは関数の極限値を例に出すとしっくりきます。ねぎしそさんの主張は「全ての関数はある一定の値(=極限値)に漸近し収束していく」で、わたしの主張は「極限値をもつ関数もあるし、(三角関数や対数関数のように)極限値をもたずに発散したり振動したり別の挙動をするものもたくさんある」というものです。

これに関してねぎしそさんの以下の指摘はクリティカルです。

自分は原作内で存在する設定の量に事実上上限があると考えており(これは確かなはずです。無限の設定は存在しませんので)、ファンがそこに触れることができる量もまた限られ上限が存在していると思っています。で、仮にもしその設定すべて(これを統計学でいうところの「母集団」としてもいいかもしれません)を「演算でき」で「大きさ」と「方向性」を計算できるのだとしたら、「正解」はきっと存在するよね?ということを言いたいわけです。

「無限の設定は存在しない」つまり、上の関数の例えでいえば、関数の定義域は正の無限大までどこまでも続くのではなく、ある有限の実数値で打ち止めになっているはずだ、ということでしょう。この指摘にはなるほどなぁと思いました。

しかし、だとしても部分的な反論はできます。設定が有限であるとしても、それは「設定が増えれば増えるほどキャラの関係の方向性は強固なものになる」ことに必ずしも行き着きません。

例えば(今から挙げるのはわたしの主張に都合の良い具体例ですが、わたしの立場はねぎしそさんの「法則」の反例を1つでも挙げれば成り立つのでこの論法は妥当です)、10巻完結の漫画があるとします。その1~9巻にかけて、ABという幼馴染カップリングの強固な関係・方向性が丁寧に描かれたとします。しかし、10巻目で突如としてABの関係は崩壊し、ACの関係の萌芽をほのめかして(しかし強固ではなく、AはBとの関係を引きずってるようにも思える雰囲気で)物語が完結した場合、"正解"はACなのでしょうか。それともABなのでしょうか?(なんだかすごくしょーもない例だ……)

連載を追いかけてずっとABを応援してきた人からすればACを受け入れられずに「やっぱりAはまだBを引きずっている!」と思ってABの2次創作に没頭するかもしれませんし、ABにさほど入れ込んでいないひとからすれば「ふ〜ん、ACっぽい雰囲気で終わるんだ。そっか〜」くらいにしか思わないかもしれません。Cを推していた人は狂喜乱舞して「ACこそ正義!!!」と吹聴してまわるかもしれません。わたしには、これらのどれも正解とは思えず、それぞれに自分の都合の良いように作品を道具として気持ちよくなる、"正しい"作品受容態度だな〜と思えます。

こうした(稚拙な)例をこねくり回して気付くのは、皆が皆、ねぎしそさんのように特定のCPに執心して2次創作を行うようなオタクばかりではない、という当たり前の事実です。それに、ねぎしそさんだって、これまで鑑賞してきた全てのコンテンツで2次創作をしたり、「正解」のCPがわかるまで何度も読み返してきたわけではないでしょう。そして全てのコンテンツに「正解」が用意されているわけではありません。「正解(っぽいもの)」を用意するのもしないのも、結局はそのコンテンツがどういうビジネス戦略を採用しているか、という話なのですから。

ラブライブは「正解(っぽいもの)」を用意したほうがウケが良さそうだっただけで、唯一の正解を示さずに曖昧なまま終わるほうがウケが良いと判断した作品だって存在すると思います。(上ではA-B-Cという三者の架空の例を出しましたが、もっと素朴にハーレムものとか……『ぼく勉』は各ヒロインのルートが並列しているんでしたっけ?よく知りませんが……)



ねぎしそさんは物語の進行に伴うキャラの関係に対して非常に保守的なんだと感じます。それは「統計」の例えを用いて反論していることがよく表しています。

設定を集めれば集めるほど、その「正解」に近づくはず(サンプルを集めれば集めるほど母集団の推定が容易になる)ですので、そういう文脈で「ある程度の資料が蓄積されると徐々に方向性が定まると信じている」と記載しました。

統計の根本的な前提は「サンプルに時間的な重み付けをしない」ことだと思います。つまり、最初のほうにとったサンプルも、最後のほうにとったサンプルも、すべて平等に扱う方針です。この前提のもとでは、たしかにサンプルを多く取ればとるほど大数の法則で統計・確率論的に「方向性」は次第に固着し、変化にたいして不寛容になっていくでしょう。(統計の素人なので間違ってるかも)

しかし、わたしが上に挙げた10巻漫画の例では、こうした「サンプル(作中描写・設定)に時間的な重み付けをしない」という前提に基づいてはいません。作中で描かれるキャラクター(人間)は、時間のなかで生きている存在です。1歳のときに経験したことと、14歳のときに経験したことが平等にそのひとの中にサンプルとして統計的に累積していくわけではありません。もっと言えば、実存的存在には「今」しかありません。9巻に渡っていくら濃密なサンプルを取得したとしても、10巻目の「今」においては、過去に積み重ねてきた時間よりも、その時の瞬間的な情動が勝ることもある。(常に瞬間的な情動が勝る、という主張ではありません。しかし、過去の積み重ねのほうを尊重する選択をしたとしても、その選択をしているのは「今」の情動である、という見方はできるかもしれません)

こうした意味で、統計の例を使う時点で保守的だと感じます。幼馴染CPをこよなく愛することからも顕著なように、とにかく時間の積み重ねを最重要視して、最後の最後で劇的な関係・方向性の変化が起こるようなコンテンツは"好みではない"、のだと。好みではないから目に入らない/入れないよう自衛している。結果として、あたかも単調に極限値へと漸近する関係を描くコンテンツが全てであると信じている……といったら言い過ぎでしょうか?

※元の文章でも書きましたが、わたしも幼馴染原理主義者です。だから岡田麿里脚本のアニメが大好きです。でも、2次元美少女コンテンツ外の青年向け/女性向けコンテンツなどに目を向ければ、極限値が存在しない作品は山ほどあると思います。(というか2次元美少女コンテンツでもたくさんあると思います)


おそらく、ねぎしそさんの愛するラブライブ、「ほのうみ」に関しては極限値が存在するのでしょう。それに関して反論するつもりはありません。しかし、↑の記事を流し読みしただけでも、SID時空とアニメ時空で極限値は2つ存在しています。ねぎしそさんがSID準拠で考えたいのは、それが正解だからではなく、SID時空のほうがねぎしそさんの好みに合うから、というきわめて主観的な判断に過ぎません。わたしが言う「極限値が1つに定まるとは限らない」のまさに良い例が、このSIDとアニメの併存です。(ねぎしそさんは「併存」ではなく「独立」しているのだと、切り離して別々に考えるべきだと主張すると思いますが、そう主張したがるのは、独立に考えたほうが「自分にとって都合が良いから」でしょう)

書いてて思いましたが、元の文章の最後に書いた「どこまでが原作でどこまでが2次創作か、明確に線引きはできない」という観点はまさにこのSIDとアニメの併存状態に当てはまりますね。原作と2次創作の境界線だけでなく、そもそも「どこまでをある1つの作品・コンテンツと見なすか」という輪郭も、明確に線を引くことはできず、あらゆる線の引き方は引いた当人の恣意性が入り込んでいる、ということです。


ヤバい、1点目から超長くなってしまった……理路整然とした簡潔な文章を書くのが苦手でほんとうにすみません……。


2点目「キャラの痛みはあなたの痛みではないか」に関する再返答はあまり長くならないと思います……というか、ねぎしそさんへの再返答というよりも、わたしの「キャラの痛みはあなたの痛みではないか」という持論がいかにして醸成されたかについて、これまでのnoteを参考資料として挙げていく形にします。自己顕示野郎なので。


どうしても自分はキャラに感情移入をしてしまうのだと思います(これが自分の場合は強すぎるのかもしれません)。

これは(めちゃくちゃ偉そうな物言いで申し訳ありませんが)誠実な自己認識であると思います。

キャラにまったく感情移入せずにフィクションを受容することは原理的に不可能です。わたしだって感情移入しまくっています。ただ、強調したいのは、その「感情移入」はキャラクターへの「暴力」に他ならないということです。悲しいかな、われわれは暴力を以ってしか、フィクションを楽しめないのです。それを自覚した上で、思う存分フィクションを楽しむべきだというのがわたしの持論です。

こうした「フィクションの受容にともなう原理的な暴力性(傲慢さ)」については、こちらの『宝石の国』感想noteで詳しく書いています。(ネタバレ満載なので別に読まなくても構いません)

ただし「人間の価値観に当てはめない」ことを完璧にやり遂げることはゼッタイに不可能です。フィクションの受容には原理的にこうした「傲慢さ」を伴うからです。(中略)『宝石の国』は、この「フィクションの受容に伴う原理的な傲慢さ」を意識せざるを得なくなる作品だと考えています。なぜなら、私が『宝石の国』を読んで「宝石たちに感情移入できる存在でいてほしい」と願う自分の傲慢さに気付かされたからです。

この傲慢さは決して「悪い」のでも「間違っている」のでもありません。そのような価値判断は本作ではなされないし、そもそもどんな創作を鑑賞するにも、この「傲慢さ」はついてまわるのですから。『宝石の国』はただ、われわれ読者にその傲慢さの存在を「気付かせる」だけです。あとは私たち一人ひとりが、自身の中にあるそれに向き合っていくしかありません。そこに答えも正解もありません。ただ「気付かせてくれた」という点で、私は『宝石の国』は素晴らしい作品だと思っているし、『宝石の国』が大好きです。


また、元のマシュマロの

穂乃果ちゃんが人殺しになることで本当に心理的負担を負うのは、穂乃果ちゃんではなく「あなた」ではないですか?それを「穂乃果ちゃん」へとすり替えてはいませんか?

というくだりは、上の宝石の国noteの

フォスに際限ない苦しみを背負わせているのは、作者である市川先生ではなく「本当は」あなたじゃないんですか。「フォスは本当はずっと苦しみ悲しんでいる」のであってほしいと、あなたが願っているだけではありませんか。

という部分そのままです。フォスを穂乃果ちゃんに置き換えただけ。この宝石の国noteを念頭に置いて書いたのではなく、あとで「これってあのくだりそのまんまじゃん!」と気付きました。自分がいかにこうした論法を内面化して都合よく(必殺技のように)用いているかがわかります。

ちなみに宝石の国noteでは2次創作の話はいっさいしておらず、あくまで原作をどのように受容するか、という話ですが、2次創作についての議論とパラレルになるのが面白いですね。要するに「どこまでが1次創作でどこまでが2次創作なのか明確な線引きはない」あるいは「フィクションを鑑賞すること自体がすでに2次創作である」という論に繋がるのだと思います。


それから、「原理的な暴力性」は、フィクションのキャラクターに対してだけでなく、リアルな対人関係においても無視できるものではありません。

こうした議論は、以下のnoteの最後の部分で取り扱っています。

ここで難しいのは、まふゆはある意味で何も間違っていないということです。必然的に糸が絡む他者との関わり合いをグロテスクだと感じるまふゆの感受性はある種正しくて、そのグロテスクさを「見ないふり」して平気で社会生活を営んでいる大部分の人間(私たち)のほうにこそ欺瞞がある、とも言えるからです。

傲慢さ=暴力性=恣意性を、ここでは「グロテスクさ」と言い換えていますが、意味するところはほぼ同じです。

このあとで引用した斎藤環さんの記事も再掲載しておきます。



わたしの主張の根本にあるのは「綺麗事で取り繕うのはやめろ。突き詰めれば俺もお前もみんなエゴでしか動けないじゃないか。エゴを自覚したところから全ては始まるんだ」というようなものです。

この「エゴの自覚」をきっちりと描く作品をわたしは好む傾向にあります。ニーゴの奏の描写はその典型的な例です。

最終的に、奏はこうした自己を駆動するどす黒い構造に気付き、「わたしの、ただのエゴだよ」と言い切る。そしてこの奏の言葉ではじめてまふゆは心の殻を解く。奏の根底にあるのは「自分を救いたい」という想いではないことを知って初めて、まふゆは奏に心を許す。少しだけ信頼することができる。
「そんなに必死になって馬鹿みたい……」と諦めたように口元を緩ませるまふゆを救うことができるのは、そんな「馬鹿」な行為であり、それは各人のエゴに基づいたものなのだ。


「エゴの自覚」という要素は「ヒーロー」について批評的に検討する際に頻出します。奏はまさに「ヒーロー」というポジションを自覚的に身に纏い、そして批評的に乗り越えようともがいています。

「他者を救うヒーローが、結局はエゴでしかないことを自覚する話」といえば、つい先日書いた『殺し屋1』もそうです。

"互いの気持ちなんて関係ないの。そこには人が人を犯すという事実だけがあればいいの。……アナタがヤりたいからヤルんでしょ。それが妄想の力でしょ。相手など関係ない自分勝手な思い込み。アナタの世界が全てなのよ。"
(山本英夫『殺し屋1』7巻 pp.68-69 より引用)

この電話越しの台詞は垣原のSM論ともきれいに共鳴しており、また主人公イチの「ヒーロー性」の欺瞞、すなわち他者を救うことの決定的な暴力性・傲慢さを暴いてイチが本当の意味でのヒーローになろうとするきっかけにもなっている。

で、「垣原のSM論」というのが、まさにねぎしそさんの「キャラに強く感情移入をしてしまうから『正解』の解釈しか認められない」という立場と対照的・対立的です。

垣原は簡単に言えば『殺し屋1』に出てくるヤクザ組織のラスボスです。真性のマゾヒストである彼は、

いいか、人に痛みを与える時に決して相手の痛みを思いやるな。痛みを考え楽しむのはオレの役目だ。痛みを与えるときは痛みを与える喜びを噛みしめろ。それが相手に対して最高の思いやりだ。
(山本英夫『殺し屋1』4巻 pp.171-172)

という異常な考えを持っています。異常なんですが、ひとつの真理を突いているとも思うのです。

原作外で幸せを感じる機会が増えたことで、ABの尊厳は守られているのでしょうか。いえ、2次創作の時点で「余計なお世話」であり、ある意味で「暴力」なのではないでしょうか。

というマシュマロの部分は、この垣原のSM論にも(無意識に)影響されているのではないかと思います。相手の痛みを思いやるのは「余計なお世話」だと。

べつに「『殺し屋1』の垣原がこう言ってるんだからキャラを思いやるのは間違っている!」と言うつもりはありません。しかし、キャラの尊厳とフィクションを受容する上での暴力性("痛み"を与えること)──といった観点から、『殺し屋1』を読んでおいて損はないとは思います。単純にめちゃくちゃ面白いですし。(グロ・暴力描写のオンパレードなので苦手かもしれません)


なんか結局またオススメの作品布教noteになってしまった。

ついでにもう1作品挙げておくと、ねぎしそさんの

自分がやっていることは「あの人はお前を殺したがっているはずだ!」と勝手に死人の気持ちを妄想し、復讐に燃える人間のようなものかもしれないなと考えました。

辺りの文章からは『ファイヤパンチ』の主人公アグニの辿る変遷を連想しました。「復讐に燃える人間」について深く掘り下げている作品です。

チェンソーマンが好きなようですので、もし未読であればぜひ。



以上、くどくどダラダラと駄文に付き合わせてしまいごめんなさい。

「あなたのその考えは自分に都合の良いように恣意的に判断しているに過ぎない!」的なことを何度も書きましたが、「みんなエゴでしかないことを自覚しろ」という持論はもちろん当のわたし自身に対してもっとも強く、不断に適用され続けるべきです。つまり、わたしが偉そうに言う全ての主張だって「自分に都合の良いように恣意的に判断しているに過ぎない」のです。すべてはわたしのエゴです。わたしが他者に対して「お前まだ自分のエゴ自覚出来てないの?ダッサwww」と指摘することでマウントをとり、気持ちよくなりたいだけです。宝石の国noteも、ねぎしそさんへのマシュマロも、全部そうです。

だから、わたしのエゴとマウントにまみれた長文に対して思い悩みながら真摯に返答してくださったねぎしそさんには、本当に、ありがたく思います。全ては互いのエゴでしかなくとも、そのうえで、このように価値のある対話をすることができる。それが、わたしには何より素敵なことだと思うのです。



こうして「イイ話風」に結んでしまうのも、わたしのエゴです。
またお話しできたらうれしいです。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?