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プロセカ『25時、ナイトコードで。』ストーリー感想メモ


1週間前にリリースされたソシャゲ『プロジェクトセカイ』に登場するユニットのひとつである「25時、ナイトコードで。」のストーリー全20話を読み終わったので、思ったことをメモとして残しておきます。(他のユニットについても書くかどうかは気分によります)

【注意】
・ネタバレ前提です。未読の方はご注意ください。
・他人(あなた)が読みやすいような配慮・校正は一切しておりません。
・1周しか読んでいないため、不正確な部分が多々あると思われます。
・以下の文章はすべて筆者の妄想です。実在する「25時、ナイトコードで。」とは何の関係もありません。






・まふゆ

親や学校の友人の期待に答えられる"いい子”を演じすぎて、「本当の自分」がわからなくなった。「本当の自分」を見つけるために音楽を作っている(?)
しかし、まふゆの「本当の想い」は、「自分を見つける」ことではなく「自分を見つけてほしい」だった。
どこか自分と似て「消えたい」という想いを持つニーゴのメンバーに必要とされること、そして奏から「まふゆを救えるまで曲を書き続ける」と訴えられ、自分の本当の想いに気づき、ニーゴに所属し続けることを選ぶ。
以降は、ニーゴのメンバーには優等生ぶらない素の自分──無表情・無感情で内面が空っぽに近い人間──をしばしばさらけ出すようになる。


全年齢エンタメコンテンツとしてはめちゃくちゃ挑戦的なキャラクター造形だったが、まふゆというキャラクターの芯はストーリーを通じて非常にうまくまとまっていた。本当の想いは「自分を見つけたい」ではなく「自分を見つけられたい」だった、という落とし所がすごく綺麗。まふゆが本当に自己完結的な人間だったらそもそもOWNとして音楽をインターネットに発表しないだろう。奏の誘いを受けてニーゴにも所属しないだろうし、その前から曲を発表してもいないだろう。

ミュージシャンに限らず、クリエイター・アーティストとは、本質的に作品を「見られる」ことが使命だ。誰にも見られることのない作品は存在していないのと同義である。ヘンリー・ダーガーだって、本人の死後ではあるがその膨大な著作群を「発見された」からこそ、著名なアーティストとして広く知られ、私がいまこうして言及できている。

その特異なキャラクター造形とは裏腹に、まふゆの根底にある想いはこのように「何かを創るひと」全員に共通するきわめて一般的な感情を実直に反映している。われわれは皆、朝比奈まふゆなのだ。



・奏

作曲家の父親に憧れて幼くして作曲を初めたが、不幸なことに父親を遥かに凌ぐ作曲の才能を持っていた。(少なくとも、今の時代に多くのひとに求められる曲を書く才能は奏のほうが圧倒的に持っていた)
ビジネスとして良い曲が書けないことに苦悩する父親に、奏は「お父さんが喜んでもらえると思って」作った曲でとどめを刺してしまう。心労から父親は記憶が混濁し寝たきりの状態に。

奏は自分の曲で父親を苦しめてしまったことに絶望し一度は作曲をやめるが、倒れる間際に父が言った「奏はこれからも、奏の音楽を作り続けるんだよ」という言葉を思い出し、一転して「誰かを幸せにする音楽を作り続ける」ことに生きる意義を見出す。
……ここの奏の内面の展開がけっこう理解し難い。自分の曲がいちばん大事な人を傷つけるなんてことがあったらトラウマで二度と作曲には手を出さない!とするのは自然だ。しかしそこから何故か奏は逆に作曲に執着し出す。
これは一種の自傷行為──自分がいちばん忌避したいものに積極的に耽溺する──ではないか?

それから「誰かを幸せにする・救える音楽を作る」ことに執着することにも異様さというか不健全さが漂うが、この異様さをうまく解剖することで、なぜ奏が作曲を再開したのかもつかめる気がする。2周目を読まないとわからん。


ただ、奏はちょっと天才だったせいで不幸な事故に遭っただけで、基本的にはめちゃくちゃ良い子だしまともな人間だと思う。自室に引きこもって不健康な生活をしていることを除けば、感受性は年相応の高校生だし、父親想いの善良で素直で優しい人間。最後の病院での「久しぶりにお父さんから名前を呼んでもらえた」と喜び涙を湛える奏の姿には「……良かったねぇッ……!」と泣いてしまった。ほんとうに健気でほんとうにかわいい。


音楽って誰かを幸せにしたり救ったりするのが目的で作られるのか?

結果的に、ある曲を聞いたひとが幸せになったり救われたと感じたりすることはあるだろう。しかし、曲を作る際の動機として「皆を幸せにするため」「あの人を救うため」というのは気持ち悪さを感じる。創作ってもっとエゴにまみれていて、内なる表現欲や承認欲といったものの発露、自分本位のものではないか?
これは上で書いた「クリエイターは作品を見られてこそ」という命題と矛盾する?



・絵名

とても良いキャラクターだった。彼女はSNSのいいね数や動画の再生数といった定量化できる競争の世界でしか生きていけない性格の人間だ。

自撮り写真を加工して投稿するアカウントのフォロワー数は増える一方なのに、イラスト用アカウントのフォロワー数は一向に増えず、自身の絵の才能の無さに苦悩する。(父親が有名画家であり、その才能が自身には引き継がれていないことに絶望している。父親との確執は東雲姉弟のどちらにもあるらしい)

だから絵名は、OWNとして十分に再生数を稼げる才能を持ちながら、それに何の価値も見いださないまふゆとは決定的に分かり合えない
2人の価値観や苦悩のレイヤーはまったく異なるものだ。

絵名は自身がOWNであると明かさなかったまふゆに馬鹿にされたと感じ、彼女を嫌う。それでも、絵名は目に見える評価を徹底的に内面化している人間だから、爆発的に人気のあるOWNの曲=まふゆの作った曲のことを嫌うことが出来ない。どうしようもなく好きになっている自分に気付いている。
「あんたは嫌いだけど、あんたの作る曲は好き」と本人の前で堂々と言えること、この割り切りに自覚的なところが絵名の素晴らしく魅力的な点だと思う。
これは対立関係ではない。そこらへんの馴れ合いよりもはるかに相手のことを理解し、信頼しているからこそ言える発言だ。

ただし厄介なことにまふゆ側が絵名のことをどれだけ理解・信頼できているかは正直微妙なところだ。この状態のままストーリーのいちおうの大団円を迎えられるのが、『25時、ナイトコードで。』というユニットの懐の深さを端的に表現している。

そして、絵名もおそらく、まふゆが未だ自分のことを理解も信頼もそれほどしていないとわかっているだろう。彼女はそれを飲み込んだ上で、それでもまふゆに対して自分の想いを明白に宣言できる。それが素晴らしいし、筋の通ったキャラクターだと感じた。




・瑞希

これほどまでに強く、自立したキャラクターは珍しいのではないか。ってくらいほぼ完璧な人間。こっちが引け目を感じまくるくらいよく出来た性格のキャラクター。

驚いたのは、瑞希は自身のセクシュアリティ(性自認)そのものについては全く悩んでいないということ。瑞希にとってはそこに悩む段階はとうの昔に終えているのだろうことが伝わってくる。

瑞希が悩むのは単に周りとの付き合いに関することである。それも、自分を貫いて周りとは違う振る舞いをすることで奇異の目で見られたり遠ざけられたりすることには何の感慨も苦悩も持っていない。そういったものに傷つく段階も瑞希はとうの昔に終えている。

ストーリー中で唯一瑞希が傷ついたのは、仲が良いと思っていたクラスメイトから裏切られたときだ。最初から自分を色眼鏡で見たり気持ち悪がったりする人々に対しては何とも思わないが、対等に「瑞希」というひとりの人間として接してくれていると思っていた友人が自分の陰口を叩いていたと知るのはキツいだろう。この段階はまだ瑞希も乗り越えられていないようである。

というか、これすらも平然と流せるようになってしまったら、それはもう他者を全く信じられないのと同義だ。瑞希はあくまでこの一線を守っている。ここを乗り越えずに踏みとどまっていることからも、瑞希の強さ、高潔さを感じる。

いくら他人と違おうとも「自分」を貫き通す瑞希は、それでも自己の殻にこもらずにちゃんと他人と対等な関係を築こうとしている。現実にはこんなに強く高潔でよく出来た人間はいねえよ!と思うほどに瑞希の人間性は完璧に近い。

瑞希がいるからこそニーゴはまふゆという爆弾を抱えたまま空中分解せずにやっていける。ニーゴの一番の功労者であり、このゲーム内でもダントツで偉いキャラクターだろう。


今後、カミングアウトを中心に据えたイベントストーリーが来ることを予想・期待する向きもあるようだが、個人的には瑞希の性別には一切触れず、サービス終了まで”?”でいてほしい

なぜなら、瑞希のなかで既にそこの問題は消化済みだからだ。「どちらなのかわからない」のが魅力的なのではなく、本人が「どちらでも気にしていない」ことにこそ、瑞希の魅力はある。ストーリーのテキストにも一切そうした単語は出てこなかった。ひた隠しであることを象徴する”?”ではなく、本人がそこに執着していないからこそ、プレイヤーたる我々にも知らせる必要のないことを示す”?”である。

これは別に、ジェンダー・LGBTQ+論とか、ポリティカルコレクトネスの観点からの主張ではない。暁山瑞希という架空の(実在する)キャラクターの魅力の話だ。
本人の意志を尊重しているのではなく、既に本人がそこに執着していないことを含めて暁山瑞希というキャラクターは構成されているために、”?"に表象される現状を崩してしまっては台無しであると考えているのだ。

(まぁカミングアウトイベ普通に来る可能性は全然あるけど……)



まふゆへの「消えたいなら好きにすればいいと思う。でも(ボクたちと似た者同士である)雪がいなくなったら、ただ寂しいって思うよ」という言葉が完璧すぎる。「消えたい」と言っているひとにかける言葉として、もちろん「正解」も「完璧」もないんだけど、私にとってはほぼ100点満点の答え。というのも、私も以前、インターネット越しに同じような言葉を悩んでいるひとに送ったことがあるから。自分のかけた言葉が完璧だったとは思わないけど、それでも瑞希のこれには非常に共感できる。


「死にたい」を「消えたい」と書き換える/すり替えることの切実さ

まふゆや他のニーゴのメンバーが言う「消えたい」の実質的な意味は「死にたい」と同じだろう。ただ「死にたい」だと流石に自殺教唆だと捉えられかねず、全年齢向けコンテンツの範囲を越えてしまう。そこで、ほとんど同じ意味を持つがやや婉曲的な言い回しの「消えたい」という単語を用いたのではないか。
(『悔やむと書いてミライ』のサビ冒頭の歌詞には「死にたい、消えたい、以上ない」と直接的に入っているが、歌詞のなかに現れるのと、キャラクターの台詞のなかに現れるのとではプレイヤーの受け取り方が全く異なるだろう)

しかし「死にたい」を「消えたい」にすり替えたのは単に全年齢の基準に引っかかるからというだけではない理由もあると思う。ある種の精神状態においては「死にたい」のではなく「消えたい」のだと強く願うことがあり得るのではないか。

私はこの気持ちが非常によくわかる。精神がひどく憔悴していると、もはや自らの生死なんて大事をまともに考える余裕すらなくなる。そうして疲れ果てた先に口からこぼれる言葉が「消えたい」だ。

生きるとか死ぬとか、そんな大げさなことを考えたくない。ただただ、消えたい。いなくなりたい。自分が存在していることに我慢がならない。

「消えたい」と願う気持ちは存在から非存在の彼岸を希求する想いである。
いっぽう「死にたい」は、生の此岸から死の彼岸を眺望する想いだ。

非存在と死がちがうように、「消えたい」と「死にたい」もちがう。同じようでありつつも、明白に違うものだ。

これは「死にたい」より「消えたい」のほうが切実である、という話ではない。
見方によっては同義な2つの叫びを意識的/無意識的にすり替える行為にこそ、この叫びの切実さは現れている。



奏とまふゆ

これはまたとんでもなく業が深い結び付きを描いてくれたもんだと武者震いをした。

ここに明言しておきますが、私は奏とまふゆの関係を「尊い」と称するオタクとは分かり合うことが出来ません。さようなら。それぞれの道を歩もうではありませんか。



だってこれのどこが「尊い」のさ!?2人の関係はそんな輝かしいものではない。

「まふゆを救える曲が書けるまで作り続ける」という奏に対して「そんなの、もうひとつ呪いを増やすようなものじゃない!」とまふゆは言う。このまふゆの発言は完全に正しい。

2人のあいだに横たわるのは”呪い"である。
呪いでしか2人は結び付けなかった。
呪いでしか2人は互いを救い合うことができない。

そう、「救い合う」のである。決して、奏がまふゆを救おうとする一方的な関係ではない。奏もまた、「まふゆを救える曲を作る」という呪いを打ち立てることで、そこに生きる意味を見出し、救われている。

この呪われた共依存関係から、前述した奏の「曲を作る動機」をより理解できる。
そもそもいまの奏には曲を作るべき必然性はない。あんなトラウマティックな事件があった後では、父の「これからも奏の音楽を作り続けるんだよ」という言葉も無に帰すはずだ。というか、状況から考えると父はこれを本心からというよりも、自分より才能のある娘への婉曲的な当てつけとして自嘲気味に言った可能性が高い。だから、実はこの父の言葉は呪いではない。父が奏に「誰かを幸せにする音楽を作り続ける」呪いをかけたのではない

呪いは、奏自身がかけたものだ。
自分の音楽が最愛の人を自分から奪ってしまったことに絶望し、自分が存在することに我慢ならなくなった奏は、それでも「消える」ことができなかった。「消える」だけの強さを持っていなかった。

弱い存在である奏は、自分が存在すること、これからも存在し続けることに自分で納得するために、父の言葉を”利用”した。これが呪いなのだということにした。自分で、した。奏は自分に呪いをかけることで、自分の存在を承認した。

「どれだけ絶望している人でも救える曲を作り続けなくちゃいけない」と奏が思うのは、奏自身が「絶望している人」であり、「救われたい」からだ。

このように奏はもともと「呪い」で自縛することで生き永らえてきた人間だ。
かつて徹底的に自己の存在を否定した過去をもつことから、「呪い」でしか自身の生を肯定できない人間だ。だから「そんなの、もうひとつ呪いを増やすようなものじゃない!」というまふゆの言葉に「うん。わかってる」と返すことができる。自分にかかる呪いを増やすことを奏はもっとも望んでいるのだから。

奏の根底にあるのは「まふゆを救いたい」という想いではない。
「"まふゆを救う曲を書く”という呪いによって生き永らえたい」のだ。

最終的に、奏はこうした自己を駆動するどす黒い構造に気付き、「わたしの、ただのエゴだよ」と言い切る。そしてこの奏の言葉ではじめてまふゆは心の殻を解く。奏の根底にあるのは「自分を救いたい」という想いではないことを知って初めて、まふゆは奏に心を許す。少しだけ信頼することができる。

「そんなに必死になって馬鹿みたい……」と諦めたように口元を緩ませるまふゆを救うことができるのは、そんな「馬鹿」な行為であり、それは各人のエゴに基づいたものなのだ。
「まふゆの人生のためを思って」両親がする多くの”助言”を素直に聞き続けることで自分を見失ってしまったまふゆにとって、奏が、自分(まふゆ)ではなく奏自身のエゴで馬鹿みたいに自分に執着してくれることがどれだけ救いとなるか。

まふゆが自分を"見つけてほしかった”ひとは、奏のように、本当は自分のことを"見ていない”相手──"見ていない”からこそ、安心して自分を”見せる"ことのできる、奏のような相手だったのだ。ここにもまた、奏とは異なるが同じくらい業の深いまふゆのエゴがある。


エゴでしか互いを、自身を救い合うことができない2人──それが、宵崎奏と朝比奈まふゆの関係だ。
きわめて脆く、危うく、不健全で、エゴイスティックな結び付きだ。



それでもまだ、あなたが2人を指して「尊い」とこぼすのであれば、私は何も言うまい。




本稿の続編的な内容のnoteです。



他のユニットについても書いてます。


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