「親子」

おはようございます。
公響サービス、代表のシンジです。

 親子関係ほど難しいものはないと思う。他人であれば、期待もしないし、諦めることだって出来る。それなのに、親子は諦めることが出来ないし、縁を切ることも出来ない。今日はずっと避けてきた親子関係について考えてみようと思う。

 正直言って、子供の頃私は両親のことが好きだった。父は格好良く、母も美しく、他の人と比べてもとても自慢だったし、周りの大人たちの話を聞いていると、それが裏付けられていることもまた、私の小さな心を満足させていた。
 父はいつも家にいなく、朝起きるともう出社しており、私が寝てから帰ってきた。当時は休みは日曜だけだが、日曜も会社ではないところへ出かけており、ほとんど1か月に1、2度しか顔を合わせない状態だった。それでも、普通に幸せな家庭だと思っていた。なぜなら、我が家のすぐ隣には、親のいない子の施設があったからだ。小学校の時の友達の半分は、そこの施設の子達だった。みんな2人部屋で服やランドセルも、教科書でさえお下がりだ。そんな環境で暮らしている子達を見ていると、自分が兄からのお下がりの服を着ていても、まだましだと思ったものだ。

 人はどこまでも自己愛が強い生き物だ。本能的にも自分を守ることを優先する。それは仕方のないことだ。親子であっても、そこに違いはない。愛するもののために自己犠牲を行える者も、極わずかにいるが、本能は自分を守ろうとする。相手が大人同士なら当然何も問題はない。だが子供に対して親がどう対峙するかは難しい。自分を殺さなければならない時もあるように思う。
 親としての言動よりも、生きる一個人としての言動が優先される人がいることは、致し方ないことだと思う。だが、それが自分の親である場合の子供のショックは、計り知れなく大きなものだ。

 友人の親の話だ。又聞きではあるが、子供の頃に聞いた衝撃的な内容だ。友人の母が子供の頃、つまりは昭和20年頃のことと思ってもらえばわかりやすい。九州のある田舎に住んでいたその女性の家族は、夏になると子供達は川へ遊びに行くことが多かった。
 その女性がまだ小学生の頃、川で兄や友人達と遊んでいた時に、その女性は溺れてしまったそうだ。それを近くにいた兄が助けてくれた。しかし、自分を助けてくれた兄が溺れてしまい、大人が救い出せたのは、その女性だけだったそうです。
 その女性は、死んだ兄の亡骸にすがって泣いている母親に「あんたが死ねばよかったのに!」と怒鳴られたそうだ。これほどの個人否定が他に考えられるでしょうか?自分を生み育ててくれた親に、死んだ方が良いと言われるということは、自分というものを完全否定されたような思いになったのではないでしょうか?

 音楽を好きになり、学業を放棄してオーストリアへ行き、好き勝手した後に就職先もない私に父が言ったことがある「音楽なんかで食ってけるわけないだろ!俺だって海外に行ってみたりしたかった。みんな我慢して仕事をしているんだ、お前だけ好き勝手でいると思うな!」その時はまったくその通りです。と頭を下げて父の会社に入社したけれど、心の中では「海外に行きたかったのなら、なぜ行かなかったの?それ嫉妬じゃん」と思っていたことを覚えている。

 親子といえども、結局は競争関係にあるってことは、変わらないのだろうと思う。でも、父の会社は辞めたけれど、いまも同じ仕事をしているし、一生の仕事を得られたことは、父に感謝している。親子とは、なかなかに面倒な関係だと思う。長くなるので、今回はこのエピソードだけにします。

 いつも読んでいただき、ありがとうございます。本日も皆さんにとって良い一日でありますよう、祈っております。

シンジ

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