「待ち合わせ」
おはようございます。
公響サービス、代表のシンジです。
待ち合わせ。携帯電話のない以前は、自宅にお互い公衆電話から電話をするなど、工夫をして待ち合わせをしました。駅の伝言板も利用しましたよね。
当時は待ち合わせで15分以上待つのは当然のことであり、いつでも到着時刻は15分前に設定して、更に早めに出るので、結果的に30分は待つ。ということを繰り返していました。いまもその癖は抜けないのですが。
ポケベルが出来て、携帯電話が出来て、いまはスマホでGPSまでついています。私達の待ち合わせは飛躍的に待ち時間を短縮してくれました。リアルタイムに携帯で話しながら「いま改札を出て花屋の前だけど、どこ?」なんてことが可能になりましたよね。時間の節約という意味では、とても効率が良くなったと思います。
反面、便利なものに支配されてしまい、そのような電子機器がなければ、どこへも行けなくなった気がします。スマホなしに初めての場所へ行くのは、かなり困難に思えます。
20歳位の時に、友人と車2台で山にキャンプに行った。その帰りのことだ。関越道を走っていたが、私達がのる車はもう一台の車とはぐれてしまった。もしもの場合は、友人の自宅へお互いに電話をして、そこから共通の情報を得る手はずにはなっていた。待ち合わせのパーキングエリアで1時間待っても来ない。
当時は携帯電話がない。アマチュア無線を持っていたが、数十km程度しか電波は飛ばない。呼びかけても応答はなかった。
公衆電話で友人宅に電話をしたが、連絡はないとのこと。私達は心配になってきた。事故にでも巻き込まれたのだろうか?その後、2時間経過して、ようやく友人宅に連絡があり、友人の車が、中古の車だったので、ファンベルトが切れて動けなくなったとのこと。路肩にとめて、JAFがくるのを待っているので、先に帰るように、とのことで安どした。という経験がある。
便利になったのは、とても良いことだし、時間の節約にもなる。しかし、何か大事なことを忘れている気がする。人を大切に思い「待つ」という行為は、相手への思いやりと優しさなくして出来ないことだ。不便さの中で、私達はその思いやりと優しさを育んできたのではないでしょうか?
便利になるということは、出来て当たり前。早くて当たり前。効率的で当然の世界。そこに、思いやりや優しさは、入り込む余地がないように思う。
あくせくとした毎日を過ごしながらも、思いやりと優しさは、忘れないようにしたいものですね。「待ち合わせ」に苦労していた時を思い出して。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。本日も皆さんにとって良い一日でありますよう、祈っております。
シンジ
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