「自由」

おはようございます。
公響サービス、代表のシンジです。

 自由とはとても大事なことだ。刑務所などで、自由を奪われるということは、人としてとても苦しいことだろうと思う。当然入ったことはない。以前に書いた「自由」とは異なる視点で考えてみたい。

 共産主義が上手く行かなった理由は、国民の自由を奪ったことにあると思っている。なぜなら、人は自由競争を行うことで、発展を遂げてきたのだから。
 封建時代も良い例だ。画家も作曲家も、教会や王侯貴族のルールに沿った作品を書かされていた。フランス革命にて市民中心で自由な作品が受け入れられるようになった。その時に活躍をしたベートーヴェン以降は、自由な発想で作品がつくられるようになったという史実が証左である。
 レンブラントの活躍した頃のオランダでは、市民が自分の姿を残すために、集合写真ならぬ、集合絵画を依頼するようになり、人物画が多く書かれるようになった。その中の「夜警」が3大名画の一つになっていることも、自由になった後の発展の証左といえる。人は自由に生きていなければ、自由な発想は出てこないということだろう。

 当然、巨匠たちは制限のある、限られた自由の中で個性を出している。画家の王ルーベンスの頃は、宗教画として神々を描くことしか教会から許されていなかった。そんな時、フランス王大后からの依頼で、自分の人生を写実的に描くように依頼された。通常なら、断れば首をはねられる。依頼通りにすれば、教会から追放されるという、どうにもならない状況にあった。
 そこでルーベンスは、「寓意画」という体裁をとり、神話の神々や擬人像を登場させ、フランス国王のアンリ4世をローマ神話の「ユピテル」(英語でジュピター)に、そして依頼者のマリーを「ユノ」(フランス語でジュノン)に見立てて描きこんだのだ。そこが外交官でもあったルーベンスのすごいところである。

 作曲家のハイドンは、雇い主であるエステルハージ侯爵が、バカンスで訪れたイギリスに楽団員とともに訪れた。当時音楽は瞬間芸術で、録音技術はエジソンが蝋菅(ロウカン)に音を刻むまで(1800年代後半)までないので、当然演奏はすべて生演奏だ。
 例年なら、夏が過ぎると帰国するのだが、この年には秋になっても侯爵はオーストリアへ帰ろうとしない。家族に会いたいが、侯爵に直訴が出来ない楽団員たちはハイドンに相談をした。当然、ハイドンとしても侯爵に直接的な言い方は出来ない。そこで彼は音楽で表現したのが、交響曲第45番嬰へ短調「告別」だ。
 この曲の終楽章は、すべての楽器が自分のパートを終えると、舞台から消えて行くように出来ている。そして、第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンの二人だけが残り、最後は指揮者であるハイドンが、お辞儀をしてその場を去って曲を閉じる。それを聞いたエステルハージ侯爵は、楽団員たちの気持ちを汲み取り、急ぎ帰国したそうです。

 天才モーツァルトは、著作権のない当時、自分の曲を盗作されないように、後世の私達としては残念に思うが、すべてのパートを書かなかったそうだ。すべての曲が頭に入っていたモーツァルトは、ピアノ協奏曲第26番のピアノパートは、大部分の左手が白紙なのだ。きっと自分で弾くのだから、書く必要はないと思ったのだろう。

 限られた制限の中で工夫できる天才もいるが、普通に生きている者にとって、自由を奪われる行為は、著しく不経済である。
 中国がほとんどの人が人民服を着て、自転車で通勤通学をしていた頃は、とても貧しい国で、大気汚染もなかった。ところが、中国が自由経済にしてからの発展は目覚ましく、大気汚染や温暖化は進み、様々な資源を食いつぶそうとしている。
 自由経済は物を作り出すのは得意だが、コストのかかる再生をすることが苦手だ。だから捨てる。そしてまた作る。その先の未来は当然、どん詰まりとわかっていても。
 そして物が売れなくならないよう壊すのに、最も手っ取り早い方法が戦争だ。この先の未来、私達がつかむ選択肢は色々ある。どれを選ぶも「自由」だ。その自由の選択に、どれだけの責任が伴っているのだろうか?封建時代の制限のある自由と、どちらが良いと思うかも、その人の「自由」である。

 いつも読んでいただき、ありがとうございます。本日も皆さんにとって良い一日でありますよう、祈っております。

シンジ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?