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シチリア・サマー: ゴシップ好きとアウティング

数か月前の話になるが、シチリア・サマーというイタリア映画を観た。原題は、 “Stranizza d'amuri”。

上映中の映画のなかから、この映画を選んだのは、単なる消去法だった。

「どうやら同性愛をテーマにしたものらしいぞ」というくらいの情報だけ仕入れて、特に大きな期待はせずに映画館に向かった。

結論から言うと、かなり良かった。映像も綺麗だし、強いシチリア訛りのイタリア語は耳心地よい。何よりアウティングを「もしかしたら自分にも起こっていたかもしれないこと」として考えられる機会になった。

僕は、幼少期からヘテロセクシュアルのシスジェンダーとして、自分のセクシュアリティや性同一性を意識する必要なく暮らしてきた。自分の恋愛についても、気軽に話をすることができた。

マジョリティの特権にどっぷりとつかって育った僕は、本やニュースのなかで取り上げられる「問題」としてしかアウティングを知らない。

しかし、映画を観ていて、「状況が違えば、僕もアウティングの被害者になっていたかもしれない」という昔の記憶が呼び起こされた。また、逆に「誰かを無意識に追い込んでしまう(しまっていた)かも知れないぞ」と強烈に思った。そのくらい、アウティングというのは身近なことだったのだ。

以下、ネタバレをふんだんに含む。


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ここまで書いて、念のため登場人物の名前を確認しようとMovie walker pressの「あらすじ」をみたら、見事に結末まで書いてあった。

「1982年初夏のシチリア島で、バイク同士の衝突事故を起こした17歳のジャンニは、16歳のニーノと運命的な出会いを果たす。育ちも性格もまったく異なるも、一瞬で惹かれ合った2人の友情はあっという間に激しい恋へと姿を変えていった。しかし、そんな彼らのかけがえのない時間は、ある日突然終わりを迎える。」

…あらすじに詳しく書きすぎではないだろうか。「かけがえのない時間は、ある日突然終わりを迎える」ことを知っているのと、知らないのとでは映画の楽しみ方が全く異なる気がする(僕は観る前に知らなくてよかった)。

知っていても観る価値のある映画ではあるものの、「あらすじ」で本当に話の筋を書かなくてもいいのにと思う。

一方で、そんなところまで書く割に、「2人の友情はあっという間に激しい恋へと姿を変えていった」という説明は大雑把すぎる。

一夏という時間は大人の感覚では短いかも知れないが、映画のなかの2人は少しずつ距離を縮めていた。秘密の場所で過ごす時間、相手を想ってバスやバイクに乗る時間を重ねて、少しずつ「恋」を認識し、お互いの気持ちを確かめ合うのだ。

なにせ時代は1982年のシチリアである。同性愛者に対する偏見や差別は凄まじいものがあった。この映画はある事件をもとに作られている。真相は明らかになっていないが、その背後にホモフォビアがあったことは間違いない。

そもそもニーノは、ジャンニと出会うより前に同性愛者であることが周囲に知られてしまって、それを理由に嘲笑され、いじめられている。街にある唯一のBar(バール)にたむろする同世代の輪にはもう二度と戻れない。かといって、島を出ることもできそうにない。そんな絶望的な状況のなかで、偶然出会ったのがジャンニだ。唯一の友達であり、心のよりどころになっている。

その彼に対する気持ちが恋や愛の類だと気が付いたとしても、軽々にそれを伝えることなどできるはずもない。

一方のジャンニは、映画では描かれていないが、おそらくニーノと出会うまで自分のセクシュアリティについて真剣に考えてこなかった。彼も「同性愛=悪」という価値観が蔓延る社会で育っている。少し同性に惹かれることがあったとしても、その感情をそのまま恋愛と認識できなくても不思議はない。「男が男を好きになるはずがない」と刷り込まれて育った少年が、家族にも誰にも話せない自分の気持ちを受け止めるのは容易なことではないはずだ。

「一瞬で惹かれ合った2人の友情はあっという間に激しい恋へと姿を変えていった。」という乱暴なまとめ方では、この時代のシチリアに生きる2人の少年の葛藤が少しも表されていないように思う。

僕の友人にも、北部の大学ではゲイを公言していたが、「シチリアの家族には言えない」という人がいた。イタリアでは、2016年には同性婚が認められるなど徐々にセクシュアルマイノリティの権利が認められてきているが、宗教問題も相まって、ホモフォビアは未だに根強く残っている。2人が恋をしたのはそれよりもさらに30年以上前の話なのだ。

話が、本題のアウティングと逸れた。

映画の終盤。2人は互いの気持ちをもう知っている。ジャンニだけの秘密の場所だった森の中の川で過ごす時間と、花火屋の仕事で島内のお祭りを飛び回る二人きりの時間を謳歌している。ワールドカップに家族が熱狂する隙にこっそりとキスをする。

2人は幸せそのものだった。同時に、家族にも誰にも言えない関係であることをわかっている。

ある夜、打ち上げ花火の仕事を終えた2人は大雨に降られて、街裏の路地で雨宿りをすることになる。

人通りは少ないとは言え、街中。仲の良い友人として振る舞わなければならない場所だ。2人もわかっている。キスをするわけでも、抱きしめ合うわけでも、手を繋ぐわけでもない。ただ、並んで話をする。

でも、大切な恋人への特別な愛情が笑顔に滲む。2人が醸し出す空気は、友達同士のそれとは温度が異なっている。

その翌日、その様子を見ていた近所のおばさんがジャンニの母親に告げ口をする。

確かセリフはなかったように思うが、おそらくは「ねえねえ!お宅の息子さんったら、昨日ニーノくんとイチャイチャしてたわよ!何やら異様な雰囲気!あれは付き合ってるのかしら?男同士なのに!」という野次馬根治丸出しの嫌らしい言い回しだろう。

この密告をきっかけに、2人の「かけがえのない時間は、ある日突然終わりを迎える」のだ。

深刻そうな顔はしていたような気もするから、もしかすると、「本当に言いにくいことなんだけど、ジャンニとニーノが一緒にいるのをみたの…何と言うか、恋人みたいで…ジャンニに限ってそんなことはないと思うけどね!…でも、特別な関係に見えたの。だから、あなただけには一応伝えておこうと思って。」とかなんとか、ジャンニの家族を本気で心配しての密告なのかも知れないが、結果は同じである。

興味本位であれ、親切のつもりであれ、このアウティングによって2人は一緒にいられなくなる。

ここまでmovie walkerを遥かに凌ぐネタバレをしてしまったが、結末は映画を観てほしい。筋を知っていても観る価値はある。

本題は、この「2人を見かけた人が、母親に(興味本位で)セクシュアリティの話する」というシーンである。僕には既視感があった。

高校生の時だ。イタリアから帰ってきた僕は、同じ時期に海外留学していた仲間と一緒に合宿に参加した。楽しい時間はすぐに過ぎてしまい、別れ際には全員とハグをして帰ってきた。色っぽい話は特になにもなかった。

ところがである。しばらくして、その場にいたあるゴシップおばさんが、僕の母に「ねえねえ、この前見ちゃったんだけどね!あなたの息子さんがみんなとハグしてる時にね、〇〇君の時だけやけに幸せそうだったのよ!何かあるのかしらねぇ?ねえ、どうなの?」と言ってきたらしい。

これには驚いた。自分がそんなふうに見られているとも、それを母親に伝えてくるような人がいるとも全く想像していなかった。これまで人に対して感じたことがないような嫌悪感を覚えた。

ただ、僕の場合は、本当にその彼に対して特別な思いはなかった。友達の1人ではあるが、どちらかと言えば苦手なやつだった。そもそも、僕は当時も今も自分は異性愛者だと思っている。

なので、僕が「彼とハグする時だけやけに幸せそう」なわけがなく、艶っぽい感情がないどころか、ギリギリ友情があるかどうか、というレベルだった。ゴシップおばさんの盛大な勘違いである。

うちの母も真剣に受け止めていなかった。「こんなこといってきたのよ。」、「そんなわけないのにね」というやりとりで親子の会話は平和に終わった。

しかし、ジャンニの場合はそうはいかなかった。映画のなかのゴシップおばさんのうわさは当たっていたし、ジャンニの母親はパニックなったし、色々あってニーノが同性愛者であるらしいことを突き止めた。

それを聞いたジャンニの父親は叔父と一緒に、「お前まさか同性愛者じゃないよな?何かしてんじゃないだろうな?正直に言え!」と息子を殴りつけ、暴力から逃れるためにジャンニは「ゲイなんて吐き気がする。あいつがそんなやつだとは知らなかった!二度と会いたくない!」と愛する人と自分自身のアイデンティティまで否定する羽目になる。そのあと、ニーノは立てなくなるまで、ボコボコに殴られる。最悪だ。

もちろん、ゴシップおばさんがいなくとも、1980年代のシチリアの島で、ニーノとジャンニが祝福されて暮らしていくことは無理だっただろう。若い2人の恋は、そのうち周囲にバレてしまったであろうし、どのみち結果は同じだったかも知れない。ただ、事件の発端となったのはゴシップ好きなおばさんのアウティングなのである。

僕の場合は、完全に的外れだったから何も起こらなかった。でももし、僕が本当に彼に想いを寄せていたとしたら、急に母親に「お宅の息子ゲイじゃない?」と言われてどんな気持ちになっただろうか。

もし僕がセクシュアリティに悩んでいたら、このゴシップおばさんの一言がどれだけ刺さったかわからない。

自分がアウティングの被害者だと言うつもりはないが、被害はこのくらい身近なところで起きるんだなと思った。あの時の嫌悪感に名前がついた気がした。

今、世間は大谷翔平選手の結婚相手の話題で持ちきりだ(実際に会う人たちは、結婚発表直後に少し話題になった程度で、もはや誰も話題にしていないけど)。

「相手が誰かは言わない。放っておいてほしい」とはっきり言っているのに、「相手はこの人じゃないか?」という報道が出回っている。

ファンなら気になるのかと知れないが、こういうゴシップ精神が誰かを追い込むかも知れないと思う。

ホモフォビアが蔓延る世界でマイノリティのセクシュアリティをアウティングすることと、大谷選手のプライベートを根掘り葉掘り書き立てることは、決してイコールではないけれど、どちらも他者の人生を自分のゴシップ欲のために消費している。

僕は(無意識の)アウティングもしたくないし、ゴシップおばさんと同じにもなりたくない。相談されているわけでもない人の恋愛に、頭をもたげることもあるけれど、そういう自分勝手な欲求は平然と買い殺せる人になりたい。

そういう人にならないといけない。
そんなことを考えた映画だった。

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