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ホープ(1978年生まれ)

(聾学校幼稚部から小3まで聾学校。一般学校に、小3をもう一年やる形で編入)

家は聾学校のあるA市ですか?
いやここ。C町。だから聾学校では寄宿舎生活。3歳から小学3年まで寄宿舎。
土曜日も学校があったでしょ。学校は午前まで。

昼から、B町というところがあって、そのB町の人と、ここのC町に先輩がもう1人いて、そして私の3人で、親、父親だね、親が交替で送迎をしたの。
送り迎えを交替で。そして月曜日の朝も、交替で聾学校まで送り届ける。
3人乗り合わせて聾学校に行き、帰省も3人で乗り合わせて帰った。
そんなふうに、まとめていったの。
最初のころは、各家庭でばらばらに通学してたんだけど、同じ地元ってことがわかって、じゃあ送り迎えをまとめようか、となったの。

そのほうが便利ですもんね。
そうだね笑。1時間…1時間か、1時間半かな。1時間半。

電車はなかったんですか?
電車は…電車はあった。けど、車のほうが早い。うん車のほうが早かった。
それに私の家は駅から遠くて。バス乗り継いで行けることは行けるけど。
でも、最終的には、小2のときに、いや小3のときだったかな、今後一般の小学校に行くからということで、バス通学やってみようかと自力通学の練習をしてみたの。
聾学校に朝行くのは無理、帰りのコースで、バスでやってみようと。

何度か私だけで訓練をして、次に、聾の先輩2人と一緒に帰ってくるようになった。
あのね、ここで降りるんだよ、と指さしながら色々教えてあげた。
じゃあね、と先輩たちは降りて行って。次に降りるのは私。私は3人のなかで一番最後に降りた。私は最後。たまたま最後。町のはずれだったから。

一番遠かったんですか?
遠いというか、3人いて、1人はB町。まずその人がB町で降りる。そしてC町の中心まちなかで一人降りる。私はC町のはずれ。
こんな形の町(横に細長く山がつぶれているような形)。私の実家がここ(右端)にあったわけ。今も実家はそこにある。
色々そこで降りる場所とか教えてあげたの。
C町は、珍しいのかな、こんなふうに裾野の長い山の形をしていて、左端、中心、右端で3人分かれたの。私は右端。
今はここ、左端にいる。中心は、3人のうちの1人。今は遠いところに移っていったのだけど。

1時間だから、いろいろ話しこめますね。
そう1時間。1時間だね。でも…なんだろ…男子、男子が1人いたから。男子1人、女2人。女の子はミツコ、ミツコというんだけど知ってる?

あ~わからないです
ミツコというんだけど、マルコの先輩でもある。今東京、最近東京に引っ越したばかり。

そうだったんですね。
子どものため。大学受験のため東京に引っ越した。そのミツコがB町に住んでいたわけ。うん笑

そうだったんですね。同級生は何人でしたか?
同級生は3人。私を含めて3人。実際は2人だった。

どういう意味ですか?
私は小3でインテグレーションしたから、そのあと男の子が転入してきて。入れ違いだった。

自分を含めて2人クラスのところ、自分がインテして1人だけになりそこへ新しい人が加わった、ということですね。
そうそう。

同級生の女性のほうとは今でも会いますか?
会わないね。さっぱり。価値観が違う。馬が合わなくて。難しい。難しい笑。
ここに越してきたのが、首都圏から引っ越してきたのが2013年だったかな。9年。
2013年父が亡くなったの。その後ここにUターンしたから、足掛け9年。今年の12月で、10年になる。
だから、まだ今は9年、今年で、この12月で10年目。
実際、うーん。なんかねー…うーん…。えーとね…なんかねえ…

いろいろありますよね。
私は実際に、〇〇を教えるのは自分に合っているし不満もない。でも、プライベートなところ、自分の生活は、無理。。情報がない。私、情報が欲しい人間だから。それは渇望してる。
なんというか…私有名だし。地元のローカル新聞にも載ってしまったから。
みんな私を知ってる。うーん、なんというか、やはり気を遣う笑

それは、〇〇を教える聞こえない人、として有名という意味ですか?
その通り。耳が聞こえない人が教えてるってところが。
だから…そこは耐えてる。受け入れないといけない。
まあ、別に、関東…田舎というか関東がいいってわけではなくて、
田舎という場所の性質なんだろうね…田舎の特徴なのかな…。私は色々活動的だから。
目につくんだと思う。考え方も少し違うし。考え方、価値観。
私はそういうところで気を張っている。

マルコさんは2歳上ですね?
うん2つ上。誕生月も同じだし。7月生まれ。同じ7月。彼女は25日、私は31日。

誕生日って覚えてますよね。やっぱりね。
そうだね。

私も聾学校同期は、私を含めて4人いるんですけどみんな誕生日は覚えてますよ。誕生日おめでとうとかメールするわけではないんだけど、カレンダー見て、ああ今日〇〇ちゃんの誕生日ね、というふうに心の中で思う。しっかり覚えてる。そんな風にして私は聾学校で育ったから。
仲がいい友達だけでしょ?それ。
私の場合は、マルコと…もう1人、アキという先輩がいて、同じ聾学校の先輩。マルコの先輩でもあるんだけど。同じ7月生まれ。7月…あれいつだ、7月2日。
その2人だけでほかの人の誕生日は知らないなあ。

一般学校にインテしたあとも、マルコさんとは交流があったんですか?
そうだね。時々会ってた。マルコが高校に行くまでは会ってた。
私が小6のときマルコは中3。そうだった。
私は1年遅れだから。
マルコが高校に行って…疎遠になった。たまにメールはあったかな。手紙のやりとりもあったかも。
そのあと、私も町を出て。マルコはその後A市を出て、川崎で就職したと聞いた。
私は滋賀県の専門学校、引っ越したの。
向こうが川崎で2年目、私が、いやあっちが3年目、私が1年目。だったかな!?うーん…?
向こうが20歳、いや21、私は…滋賀県にいて、私が19、19歳のとき。
3つ上だから向こうが21歳。21歳だね。
当時、私は限界だった。限界で。滋賀県にいるのはもう限界だったの。
あのとき5年…連絡を…いや4年間か、連絡を取り合ってなかった。4年間一度も連絡取ってなくて。

学業面においてですか?それともコミュニケーション関係?
人生。人生において。笑
地元に戻るのか。どうしよう。これからどうしていけばいいのか。かといって地元には戻りたくない。
何か他の道はないのか。就職のあてもない。
専門学校の勉強も嫌で、つらかったし。

小6から会ってなかったんですよね。
4年、4年ということ。私自身が存在を忘れていて。あっ…今思い出したけど、幼馴染として会ったりお互いの家に泊まったりそういうつながりはあった。

でも…うーん…。不思議だけど。
専門学校1年のとき、自分が行き詰ってしまった。これからどうしよう。どうしたらいいのか。相談したいけど…誰かに相談したい、誰かいないか。
親には相談できない。

そのときマルコを思い出したの。今何しているんだろうって。
たまたま、思い出して、そういえばマルコ今何しているんだろう!と。
でも住所は知らない。川崎市に住んでいることは知っている。それはどこからか聞いて知ってた。でも住所は知らない。
でも実家の住所なら知ってる!実家あてに手紙を出そう!そう思って手紙を書いた。長文の手紙を。まとまりなかったと思うけど、とにかく思いのたけを書いた。

なんとかしてすぐにマルコに読んでほしかった。
すぐに返事が欲しかった。私はせっぱつまっていた。
でもそれは手紙にはあえて書かなかった。ともかくその手紙をマルコの実家に送った。マルコのお母さまが、手紙を見てこれはすぐにマルコに引き継がなきゃいけないんじゃないかと思って、すぐに転送してくださったの。

お母さま、中身を確認されたということですか?
見てない。開封はしてないけど、封筒を見て、何か感じるものがあったんだと思う。
すぐに転送して、マルコが受け取って。たまたまおたふくかぜで家にいたの。
たまたま休みで家にいて。おたふくかぜ、悪いけど私にはラッキーだった(笑)
時間もたくさんある。返事を書いてくれてそれが私に届いた。
その手紙の中で
「一週間後、こんなイベントがあるんだけどどう?」って誘ってくれた。
私は行こう!と思った。新幹線で向かった。それで再会して。

気持ちはすっきりしましたか?
した!
それから頻繁に会うようになって。年に1回は必ず会ってる。不思議。

再会できてよかったですよね。手紙もすぐに届いて。すぐにネットでつながれる今とは時代が違う。
本当に。
だから自分が本当に求めている情報は、マルコからという感じ。
引き出しがすごくて、いつも刺激をもらってるし、自分にとって勉強になることもたくさんある。

マルコは明るくて、まぶしい存在ですか?
そうだね、まぶしい。明るくて。
オーラもあるし。すごく忙しい人。色々と忙しいと思うんだけど時間を取ってくれる。
時間をとってくれる。

小3でインテグレーションしてからも時々マルコさんとは会われてたんですよね?
インテグレーションした学校で過ごしているときの気持ちとは、また切り替えられたということですか?
切り替え…うーん、なんだろう、なんというか、なんだろう、意味が分からないということ、意味がわからないと難しい。

それは、自分を見つめなおしていないというか客観視していなかったということですか?
そうだね、わかってなかった。大人になって、あのときはそういうことか、とわかるときがある。
聞こえる人もそういうところがあると思う。

でも、私は、、、分からなかったとき…。わからなかったのは、単語。単語の意味がわからないまま。意味がわからない。
なんだろ、私はその言葉の意味を知りたい笑。でもその説明はない。
どんどん進んでいく。はためにはスムーズに進んでいく。聞こえる人は、意味をつかめているんだろうと思う。私はその意味を知りたい。想像つくでしょう笑。聞こえる人の学校のやり方、それが私は、苦しかった。ついていくのが大変。うん、うん笑。うん。
例えば「なお」「すなわち」あるじゃん。「でも」「しかし」とかはわかる。でも「なお」「すなわち」、接続詞として使うでしょう。そういう意味が私には分からなかった。
分からないから、手をあげて質問したいけど、どんどん進んでいってとても手をあげられなかった。次第に、手をあげることに消極的になった。黙ってやりすごす。
今となっては、もちろん意味はわかるけど。高校のときに難しい言葉が次々に出てくるようになる。そのたびに、突き当たってしまってた。

確かに、「なお」「すなわち」はふだんの会話では使わないですね。
ある‥‥あ、ないかな。会議とかで、かたい場面では使うけどね。あとは小説とかね。

国語は、苦手感覚がありますか?
そうそう。文章が苦手で。でも、専門学校を卒業して社会に出て、小説を読みだして、恋愛小説とか、読んでみると時々ある、なんだろ、この言葉?というのがちょいちょい出てきて。話の流れがつかめなくて、もう一度読み返して、つながりを確認して、ああそういうことか、と内容をつかんで。勉強になる面もあるよね。笑

国語は、嫌いな科目でしたか?
うーん、嫌い、な科目ではない。けど、けど…、意味を知りたい。これがどうしてこうなるの?どうして?って思っていた。笑 うーん。
うん笑。読むこと、なんだかね 文章を読むことはやめてしまった感じかな。昔は読むのは好きだったんだよ。

「昔」というのは?子供のころ?
もともと本を読むのは好きだったのよ私。でも、聞こえる高校に行って、読む文章が難しくなってきて、難しくなってくるじゃん、それに加えて、先生の解説、それも分からない。その説明自体を理解できない。何を伝えてきたいのかもわからないの私。意味をつかむのが難しかった。

小3まで聾学校にいたときは、国語は好きだったんですよね?
うん、そうそう。でも、漢字の書き取りとかで、文章を読んで理解するのではないし。反復練習だったから。

反復というのは聾学校でのことですか?
そう。

伺ってもいいですか?聞こえるというのは、どのくらいまで聴こえるんですか?
ピーポーピーポー、救急車のサイレンとか。
一対一での会話ならOK。2対1だと、どっちつかずになるかな。人数が増えると、、3人までだね。3人を超えると、きついもうだめ。一対一ならいける。一対二だと、もう一人が通訳というか言い直すフォローをしてもらう必要。笑

教室には、40人いると、ワーワー聞き取りにくいですよね?
30人。30人。

それだと聞こえないですよね。
ない。聞こえないね。
何?何を話しているの?どういう意味?質問は何だったの?聞かないと分からない。

学校の先生は、一対一なら話せるから、聞き取れない分かっていないということが理解できていない状態だったのでは?
うーん。この子はしゃべれる。だから、うっかり先生が忘れてしまうことは、あったんだと思う。よくあるよね笑。

そうですよね。
そうなんだよね。かくして、私は諦める。ははっ。諦める。
親も…やっと、今頃。今になって。

お母さまが?
うん母が。今頃。

お父さまは?分からないままですか?
いや、亡くなったので。
でも母に比べたら、父は、一対一で会話できた。聞きたいことに向き合ってくれる。
でも母は、私が聞きたい知りたいと思っていることに対して、私はわからないから、と言う。そういわれると私は何も言えなくなってしまうよね。ふふっ。
今もまだそういうところがあるんだけれど。
今、私が耳が聞こえないということを、ようやく母が理解してくれたような気がする。今になって。
マスク生活の影響だと思う。

ああ。マスクで色々会話が伝わらないということが出てきたということですか?
うん。何?と私が聞き返す。今のは何?卵?じゃなくてタバコ?卵?私は口を読むから。タバコ?卵?って。
確認して、ああそうかとわかる。
いくら?イクラ?そういうのもあるよね。ははっ。

兄弟はいるんですか?
兄がいる。兄は…今は会話しない。

昔は、よく会話していたんですね?
うん…昔はね。
私は、横浜、関東に10年いたから。その時は、1年に3回。夏休み、お正月、ゴールデンウイークに帰省していた。
帰省してたときはまだ会話があった。当然、口話。口話メインで。
そして10年前、ここにUターンしてきた。Uターンしてみれば、兄とは考えが違う。
私は、耳が聞こえない、聾者だという立場。はっきりしてる。でも兄は、ここは聴こえない人はあんたのほかには誰もいない、聞こえる人の町なんだから、聞こえないことを主張していてはここではやっていけない、という。聞こえる人に合わせろ、という。
それを言われたとき、とてもショックだった。
もう今は、お互いが嫌いって感じかな。ふふっ。
「知ってるのか?聾の世界なんてものは存在しないんだ」って言うんだよ。

そうなんですね‥‥。聾学校の話に戻らせていただきたいんですけど、国語は、漢字書き取りとか反復的な学習が多かったんですね。
友達との遊びについては、どんな感じでしたか?
友達‥。聞こえる子との?それとも聾学校の?

聾学校の同級生は1人だけ、だったんですよね。そうなると、遊ぶのは上級生が多かったですか?
そうだね、マルコとかミツコ。あと後輩の何人か。
上の学年と一緒に遊ぶのが多かった。

聾学校に戻りたいとか、そういうふうなことを思ったことは…なかったですか?
あ~。高等聾学校。戻りたい、高等聾学校に戻りたい、いや行きたいと思ってた。高校は聾学校に行きたかった。
でも逆に、行かなくて、良かった、かな。勉強の面では特に不満はないけど、寄宿舎での生活が…。行き過ぎた部分があったらしい。ふははははっ。
私の世代のときは、いろいろぶっとんでたみたい。

そうだったんですか!
それを聞いて、行かなくて良かった、と笑。やりすぎ。裸!裸で走ったのよ!あなたにできる?

えっそれ知らないです…。裸!女子ですか?
そうよ!あなたできる?できないでしょう。男の前で、裸に。
外を走り回るの。裸で走るのよ。

えっ何か、やってしまったということですか?
ちょっと理解できない。頭がついていけない・・。
なんかゲーム的なことだったかも。それを聞いて、おったまげたわ。ああ行かなくてよかった、と笑。
でも、楽しい学校生活、という面はあったんだろうね。行き過ぎてしまった面もあったけど。

聾学校の文化祭には、時々行ってましたか?
それは行ってない。

そうなんですね。
あっ、…聾学校の小3でインテグレーションしたでしょ。その後2年、3年間のうちは行ってた。
知ってる人が居なくなって、それで行くのをやめた感じ。

マルコさんは居なかったんですか?
私が小3でインテしたから、3年後はもう高校進学してた。

ああそうか学年が3つ違うんですね。
2歳差だから、3年後。

そうか‥‥
うんそうなのよ。ふふっ。
うん、そのあと、専門学校にいって、マルコのことを思い出したの。それで再会して。
今は定期的に会ってる感じかな。

(あなたが)当時受けた口話教育は、周囲に比べれば緩めだったですか?
そうだね。口話教育は厳しかった、あっ、でも…先生たち、学校の先生たちは、私に頼り切ってる感じだった。今思えば。

頼ってるっていうのはどういう意味ですか?
たとえば文化祭、学芸会、そういうときに、私はほとんど主役をはっていたの。なぜだろうとずっと不思議に思っていた。ある時マルコに言われたの。

同期が1人いたんですよね?その人が主役をやることはなかったのですか?
私発音ができるから。発音は、私が一番だった。他は、話せない。話せない、というか、比較すると私のほうができていたということ。
ほとんど主役は私。主役は私がやることが多かった。毎年毎年。上級生がいてもお構いなしに。

主役というのはたとえば?どんな劇だったんですか?
劇は劇。内容は…もう忘れた。覚えていない。
でも覚えてるのは「龍太鼓」、和太鼓は覚えてる。発表ではいつも私は真ん中だった。

小3のときですね?
そうだね、最後。聾学校にいる最後の学年。最後の。

劇の主役になったときにどんな気持ちでしたか?
うーん。。私は知らないままやってたから…。なんで私が主役なんだろう。私が主役?言われればまあやりますけど…という感じ。
でも今思えば、みんなに申し訳ない気持ち。

それは、大人になってから気づいたんですか?
そう。どうして私はいつも主役だったんだろう、という話をマルコとしていて、マルコにそれはあなたが口話ができるからだよ!と言われたの。

言われて初めて気づいたんですか!
そう、言われて気が付いた。確かに私は口話ができるほう。確かに。そうかそうだったんだ。と。
今までのことは、口話ができるからかと。

言われたのは、何歳のときだったんですか?
つい最近。

最近ですか!
そう、去年か2年前。オンラインでチャットしていて。
それはあなたが口話できるからだよ!と指摘されて。ああそうだったのかと。そうだったのか、と。

つまりずっと最近まで、主役なんでなんだろうと思ってきたってことですか。
そう。主役だ!嬉しい、と思ってたけど、同時に、なんでだろうと思っていた。
みんなは主役やりたくないの?やりたい?と聞いたこともあった。じゃあ私でいいのね?と主役を引き受けたり。
今思えば、主役をやりたかった子もいたんだろうなあ…。思うと、本当に…申し訳ない、すまないという気持ち。はあ。そういう気持ちを今は持ってる。

太鼓は、センターに立つというのは、一番音楽に合わせて弾けるから、ということですか?
そうだと思う。あと中心は、ほかのみんなからも見えるからね、合わせるのにいい位置。

確かに。それはありますね。運動会はどうでしたか?行進や遊戯は一番前とかですか?
それは特に何もなかったかな。覚えてないのよ。…。覚えてないんだけど、ただ兄に申し訳なくて。

お兄さん?お兄さんは聴こえるんでしょう?
そう。運動会は同じ日だったの。兄にはお弁当だけ渡して、親は二人とも私のほうを見に来た。

親は二人とも聾学校のほうに来たんですか?二手には分かれずに?
2人とも私のところへ。だから兄は1人でお弁当食べてた。

なるほど…。
うん、そうなのよ…。

でも、インテグレーションした後は、同じ学校になりますよね?
同じ日!隣りあわせの学校で。兄はもう中学生になっていたから。体育祭と運動会が同じ日。

またですか!?
そう。だから親は兄に弁当を渡すだけ、というのは続いたのよ。

小学校はかぶってなかったんですね?何歳差ですか?
4歳差。5つ。歳は4歳違うけど、学年は5つ離れてる。
同じ日に、兄にはお弁当だけ渡されて。
いいのかな?と思ってたけど、親は、私が優先だと。そうなんだ…わかりました、って感じ。笑
今思えば、兄は寂しかったと思う。は~。ずっと。何年だろう、9年。ふっ。
ねえ。3歳から、いや小3、ううん小1からずっと、で9年。中3まで続いた。

小さいころはお兄さんとよく遊んでましたか?
喧嘩ばかり。遊んでたというか。でもキャンプとかは、喧嘩もせず。

学年が5つ上だと、年が離れてるって感じなんでしょうね。
聾学校で好きな先生、いいなと思う先生はいましたか?
うーんいないかな。厳しくて。みんな厳しかった。
手話禁止といっていたし。でも、手話使っていても、対応はちょっと緩かったかな…
うん。…うん。でもインテで聾学校を出た後も、年賀状のやりとりが続いた先生はいた。
いる。

今も続いていますか?
ああない。今は、、ないね。デジタル時代というのもあるし、私自身もいろいろ忙しかったりで…大変で。。

聾学校時代、いろいろ話した人で、マルコが一番大きな存在ですか?
そうだね、すっかり頼り切ってる。

もし、マルコがいなかったら、どんな人生になっていたと思いますか?
うーんわからない…。もしかしたら京都にいたかも。
就職の関係で。いたかも…。でも、うーん想像がつかない。

国語以外はあまり苦労しなかったですか?大変なことはなかったですか?
ううん…国語、国語ね 算数、この2つだけで、それ以外の、美術、社会、理科、それらはやらないんだ、なんでやらないのかなと疑問に思っていた。

なかったんですか?
ない。美術、図工ね、それはあるんだけど。やっぱり理科、社会はなかった。

一般学校の話ですか?それとも聾学校の話ですか?
聾学校。聾学校のこと。だから、それだから私が一年遅れて3年生、小3をもう一度やることになったのよ。そうして入った。

つまり、国語と算数はできていたけど、そのほかの科目の勉強がなかった、そのためと。
そう。なかった。そういう理由があった。

教科書はもらいますか?
もらう。特別。特別なのよ、ふふっ特例で笑。教育委員会がはからってくれて無償でもらった。本当は無理でしょう。特別に。そういう話を聞いた。

無理?そうなんですか?毎年4月にもらうんですよね?
そう。私はもう一度小3年生をやるから。

ああ聞こえる学校に行った後、また教科書をもらいなおしたということですね。
そうそう。ふつうは教科書はもらえない。でも私は特別に、また教科書をもらった。

現在、自分は聾者だ!というアイデンティティを主張できるようになったのはいつからですか?わたしは聞こえません、という。
聾…10年、前。

Uターンした後ですか?
10年前かな。10年…前…そう、そうだわ、10年前だ。パスポートを作ったときから。10年。今年で10年目だ。パスポートを作ったとき、アメリカ手話を学び始めた。
そうだ。歳は…遅いよね。
踏ん切りがなかなかつかなくて、一歩踏み出すのが時間がかかった。私。
9年…10年。10年前だ。うん2012年だった。

きっかけは何だったんですか?
うーん、何だったんだろう。アメリカ手話を学び始めたとき。マルコに外国の手話を学びたいと相談したの。マルコは、いいんじゃないやってみれば、と言ってくれた。
学びたいとはずっと思っていた。でもなかなか実行に移せなくて。思い切って、JASS、飯田橋の、あるのは知ってたけどなかなか。ASL1、初級のクラス。そこに試しにやってみようと申し込んだ。
そのときはM講師のときだった。水曜日だった。会社終わってから行って、それから定期的に通うようになった。それから、一緒に学ぶ仲間ができて、海外にあちこち行ってみたり。
アメリカはニューヨーク、違うわ、あれ、ワシントンD.C.いや…ニューヨーク。
あれ?変だな。ニューヨークじゃないわ、バリだ。バリ。
バリに行った。バリに行って‥‥。

すいません、「バリ」ですね?
バ、リ。バリの手話はこう。パリじゃない。
バリとか…父が亡くなるまで。父が亡くなる前、最後に行ったのがバリだった。
全くのプライベートで行ったのがハワイ。ハワイは、兄の結婚式で。
次、いとこ。グアムで結婚式で参列した。実際に、友達と一緒に行って、初めて海外に行って、それからあちこち行って、そこで視野が開けたかな。
それが一つ、もう一つは、T講師の存在。指導がとても上手い。
こんな指導方法があるんだ、ととても勉強になった。取り入れられるなと。

そのあと、地元にUターンして。
聾向けじゃなくて、聴者に対して教える。そのときにT講師の指導方法を取り入れた。
聴者向けというか子供むけ。
子どもには説明的な文章で教えるのは合わないよね。
こうだよね、そうそう、違う、といった確認の仕方。方法はこうだよ、理解した?
というふうに確認しながら進めていくやり方。それが的確にはまっていって、そういう教え方を参考にしながら進めていった。で、今に至る。

地元に帰って、教室を立ち上げようと思ったのはいつからですか?
2年間…ここでずっと暮らしていけたらと。ここはやはりふるさとだから。いつかは戻りたいと思っていた。

海外に旅行に行って視野が開けていった、その前々からUターンを考えていた、ということなんですね。
そう、その考えはあった。プラス、自分が、仕事を指示されて、それをはい、はいと言われたとおりに進めていく、そういう仕事の仕方が、自分には合わなくて。
自分で主導権を持って仕事を進めていく、そういう働き方が自分に合っているのではと思っていた。
そういうのがあって…試しに、試しにやってみようと。
そしてここに戻ってきて、教室を立ち上げて、教えたいと思った。
本当は、東京で教えたかった。でも耳が聞こえないと厳しいかなと。ここは田舎だから、可能性があるかなと、挑戦してみようと。実績を積んで、関東で教える自信がつくんじゃないかと思った。
その自信を胸に、関東に戻れるんじゃないかと。聾のための教室を立ち上げられるんじゃないかと。

海外へ旅行にあちこち行ったことで視野が広がったということですが、その前々からマルコとは交流があったんですよね。
マルコは、そのずっと前から活動的でしたよね。マルコを見ていて、視野が広がったということはなかったんですか?
そう、彼女は昔から活動的だった。うらやましかった。見ていて、すごいな、うらやましいなと思っていた。うらやましい、と思うだけで。でも自分に自信がなかった。
だから、自分も海外に一度出る必要があるんじゃないかと思っていた。
また、T講師の影響もある。あの人は、はっきり自分の意見を言う。そのとおり、違う、とはっきりしている人だから。
だから、自分も、海外に出てみた。出てみて分かったことがあった。
指導方法についても、見ていて勉強になることがあった。

ASL協会に行って、アメリカ手話を学び始めてそこから世界が開けていったということですね。それは手話サークルとはやはり違うものなんですか?
違う!オープンで。自分もオープンになれる。自分の性格は…、それもなんだかふっきれて。自分の視野が広がった。自信もついて、自分はできるんだと。それがとても大事だったと思う。
それがなければ自分に自信が持てないまま、自分の気持ちを中に押さえ込んでしまう、そういう人生だったかもしれない。
つまらない人生だったかもしれない。なんというか無駄な。

小3でインテグレーションしてからも、聾学校にいたマルコとは交流が続いていて、マルコの高校進学で疎遠になって、でもそのあと専門学校時代に、マルコに手紙を出して再会したんですね。マルコを見ていて、その明るさと自信に憧れをもっていた。自分もアメリカ手話を学び始めて、自分の幅が広がったということなんですね。
それは、たまたま、マルコはアメリカ手話、いや国際手話ができた。
マルコには彼氏がいて、そのとき何かイベントか何かあってそこで私はマルコと会ったの。
彼氏はアメリカ人だったのかな。電車のなかで、その彼氏との会話を私に通訳してくれた。
その様子がとてもかっこよくて。その手話も堂々としていて自信に満ち溢れていた。
自分もあんなふうになりたいと思った。自信。自信が自分の課題だと感じていた。

自信がないのが課題だと感じていたんですか?
そう。自信がもてなかった。あのときは、自分に自信がなくて、揺れていて、あんなふうになりたいけど自分に果たしてできるのか…不安だらけで揺れていた。
揺れている状態のまま、アメリカ手話ってこんななんだ。国際手話ってこうなんだ。アメリカ手話、いいなあ。国際手話、いいなあ。と思っていた。
マルコにそれを言ったら、ぜひやってみたらいい、と。それでもまだ踏み切れなくて。でも、でも、と思いながら時間が過ぎていって、ようやく決心がついたのが10年後。かかりすぎ。それが20歳。専門学校を卒業した年だったから、うん20歳だった。
20歳から、アメリカ手話を習うことをずっと考えていて…決心したのが10年後。習い始めたのが30…35、いや32歳。やっと決心がついて、習い始めた。

聾学校にいたとき、手話はなかった…?ありましたか?
あった。スクールサインというもの。実際に覚えたのは、国リハのときからだね。

聾学校では、スクールサインを使っていたんですね。本格的に覚えたのは、国リハから、ということですね。
そうだね。地元の手話は自分はあんまり使わないかな笑。

マルコと話すときはスクールサインが多いですか?
標準、ほぼ標準手話、だと思う‥。マルコが合わせてくれているのか、、、分からないけど笑。

もしずっと聾学校で育っていたら自分の人生はどうなっていたと思いますか。
ふふっ!そう。それは思った!前に1回考えたことはある。あるよ、ある。あるね。
楽しい人生。聾の世界にいて、楽しく。そんな人生。そんな人生だったんじゃないかと。

裸で走るような世界ですけどね笑
それはやりすぎだけど笑 それは別として笑。ともかく、聾の世界にいて、楽しく生きる。いろんな人と触れ合っていく。そうだったんじゃないかと思う。

もしそうだったら自分にもっと早く自信がついたと思いますか?
そうかもしれない、と思う。と思う理由は、水泳。競泳をやっていた。聞こえる人と一緒に。私は3年間、小3から5、人間関係がうまく作れなくて。個人競技が自分には合っていた。
学校になじめない、友達もなかなか関係をうまく作れない。小6のときにバレーのチームに入ることを勧められて。やるなら、水泳と並行してやりたかった。でも体力がもたないから、どっちかにしなさいと言われた。選びなさいと。
それで私はいやいやながらも、水泳のほうを辞めた。人間関係作りを優先した。そのあと、中1のときに、中学にあがったときに、やはり、バレーはいい、水泳に戻りたいと思った。
そしたら親は、あなたには無理と。水泳ではついていけない、二度と無理と言われた。
私は頑張る、頑張ればついていけると思った。そういう自信があった。
でも、それを親は、無理、と笑。無理!と。

「無理」というのは、体力ではなくて人間関係の面でのことですか?
いや、人間関係じゃなくて、体力。体力面でついていけないと。1年ブランク、1年ブランクがあったから。
でも私は、必死にやる、くらいついていく、と言った。でも親は、無理、ついていけないに決まっているといった。それはもう親の中では確定していることで。
無理、当然無理に決まっている、と。

「当然」という言い方が…
そう。やってみないと分からないよね。やってみないとわからないでしょう。
そうだね、やってみようか、ついていけなかったら仕方ないね、というふうに言ってくれたら良かったのに、無理!と。初めから、無理と言われた。
ああ私は無理なんだ。あらゆることに、無理、無理、無理、無理と言われた。

ずっとですか?
そう。車の免許も無理と言われた。危ない、事故起こしたらどうするのと。
そんなふうに、水泳も、あの子は速い、あなたには追いつけないでしょう、無理だよ、と。
私は無理なんだ、無理だ、とつぶされるように、自分のやることについての自信が失われていって、自分は自信をなくした。何か、挑戦したい気持ちがあっても、自分には無理だろうな、と思うようになった。

結局、水泳はやらなかったのですか?
やらなかった。

バレーはそのまま続けたのですか?
バレーはそのまま。でも、中1,2のときに、辞めたんだけど。
言われた「無理」を今もひきずってる。やっぱり水泳をやりたかった。オリンピックに挑戦したかった。これは今だから言えることだけれど、もう今となっては叶わないこと。
本当に頭に来た。

バレーをやめた後、水泳を再開する、ということはなかったのですか?
私はやりたかったんだけど、親から無理無理と言われていて押しつぶされてるから、無理無理と繰り返し繰り返し、ずっと。
20歳のとき、車の免許をとりたいと親に言った。無理!危ない!事故起こしたらどうするの、死んだらどうするのと言われた。

でも、聾学校の先輩たち、みんな運転免許取られてますよね?
そうだよね、聾で取ってる人いるよ!と話しても、あの人たちは別にいいの、でも「私」には無理、って言われた。「無理」という言葉を今でも引きずっている。
頭の片隅に残っている。

「無理」という言葉を今でも引きずっていることを、お母さまはご存じですか?
どうだろう知らない。忘れていると思う。運転免許を取りたい、だってここは車が不可欠だもの、取らない選択はない。
兄に相談した。なんでもかんでも無理と言われる、運転免許を取りたいが親に無理だと言われてしまった、なんとかしてほしい、と相談した。当時はまだ仲が良かったから。
兄は、わかったと。母を叱り飛ばしてくれたらしい。
なんでも無理といっていたら、このままじゃ何もできない人間になってしまうぞ!いいのか!?と言ったそう。母は、ショックを受けて泣き出したとか。
そして私は運転免許を取ることができた。運転免許取れた。

必要ですもんね。
そう。今でも、「無理」という言葉が頭に残っている。もうトラウマ。

無理というのはお母さまだけですか?ほかの人からも言われましたか?
父は、相談したら、いいぞ、車を買う時の保証人になるぞ、とか言ってくれた。車買いたいといって、無理といってきたのは母。あぶない!無理!という。
だから母ではなく父に相談した、母は無理といってるけど私は車を買いたい、保証人になってくれる?とお願いして、いいぞ、と保証人になってくれた。

マルコのお母さまは話しやすいですか?
うん話しやすい、話しやすい方。何かうんざりしたことがあったら、車を走らせて家にいって、泊まってくることもあるし。笑
節約にうるさいところもあるけど笑、泊まりでお邪魔させてもらってます。

もしマルコの家がなかったら、インテグレーションでそのまま育って…どうなっていたんでしょうねぇ?
怖い。ねえ怖い。今だから言えるけど、怖い。怖いわ。考えられない。

そうですよね。分かるような気がします。
聞こえる学校では、孤独で、自分が小さくなっていく気がするかもしれないですね…
こっちで手話をやって充電して、聞こえる世界でなんとか頑張って、またこっちに来てエネルギーを充電して、そういうふうなんでしょうね。
うん、ためられた。無理だったんだよねえ。
ここはもう10年になる。10年。2013年12月に戻ってきた。10年になる、いま9年過ぎた。実際に、家を建てちゃったし。
家も建てて、ここに家も建てて、よし、ここに骨を埋めるぞって覚悟だったんだけれど…。あ~…なかなかそうはいかないかなって感じがしてきた。
家族との関係のこともあるし、情報…。私はそれを求めてて。ここは小さい町だし。それと…みな私のことを知ってる。それもストレスになってる…。
不眠なの。眠いんだけどあまり眠れていない。

眠れないというのはストレスですか?
寝るときに、色々頭に思い浮かんできて、あれこれ考えてしまう。こうしようか、ああしようか、あれをしないといけない、とかあれこれ考えてしまう。ずっと。

色々考えこんでしまうというのは、自分の生活のことについてですか?
布団に入っている間、何をしようか、何かしなければならないことがあるか、ああしておけばよかった、解決のためにあれをしようか、次は何をすべきか、など考えがあちこちに行ってしまう。
東京にいたときは、そういうことは全くなかったんだけどね。

インテグレーションで聞こえる学校に行っている間も、不眠があったのですか?
そうね、なかなか寝付けないときはあった。

では、聞こえる学校で、友達と何か関わりはありましたか?
あった、あった。今は、昔の友達は誰もここ地元には残っていないんだけれど。
交友関係は、手話関係ではある。今はそっちのほうが多いかな。ここに戻ってきたあと、同級生たちと再会した。価値観が違って…距離を置かれている感じ。

今までのお話を伺っていると、友人は3つのタイプに分けられると思いました。
1つは、聾学校時代の同級生。2つめが、インテグレーションでの聞こえる友達。3つめが、自分が聾だというアイデンティティを持ち始めた後にできた友人。
聾学校の同級生は、今は合わなくて疎遠になった。2つめは、聴こえる友達で、同じ学校にいる間だけの…
1人いる。高校のときの友人。今でも会ってる。関係は今も続いている。

そうでしたか!
うん高校のときの。高校は、いい関係だった。
3つめの、社会人、社会人になってからの、は、マルコつながりでできた友人かな。

やはり手話は、自分にとって…すごく大きいですか?
大きい!ここは、情報が…何言ってたの?と聞くと、後で後でと邪険にされる。ふっ笑
字幕は?と聞いても、今は字幕をつけない時間帯になってるからね、と言われて終わり。
でも、親、後で後で、と言わなくなった。昔は言われたんだけど。

言わないですか?今?
そう!だから今は楽になった。字幕?いいよ、つけなさい!って言う。
えっいいの?じゃあってリモコンで字幕表示設定する笑。でも、兄は、兄はまだ理解してくれない。

今は大人ですが、もし、小1,2,3の自分に戻るとしたら何かやりたいことありますか?
水泳。辞めずにずっと続ける。そしたら競泳で、選手、オリンピックに出ていた。
それだけが…今も悔い。ずっと残ってる。

後悔されてるんですね。
ずーっと。今も引きずってる。今も。引きずってる。それだけが。もう。「無理!」と言われたこと、それを今も強く覚えてる。

ずっと気持ちがモヤモヤしてるんでしょうね。
そうだね…笑 うん笑

「無理」と言われたときは、15歳だったんですよね?
いや…12、12歳。

ちょっと疑問なんですけど、お母さまはなぜバレーを勧めてきたのでしょうか。
私が、人間関係作るのが苦手で。

ああ、お母さまが考えられたんですね!水泳じゃなくて、バレーを通して人間関係の作り方を学んでいけるといいと。
私はしぶしぶだった。実際やってみて、やはり私は個人競技のほうがよかった。

まあ~チームの競技は‥ねえ、厳しいですよ…
気をはって、打ち合わせて周囲をよく見なくちゃいけない。
そういうのは無理だよお そういうのができる人もいるんだろうけど私には合わなかったかな。性格的に。とても無理。

性格というか、耳が聞こえないと難しいところですもんね…
そうだね。。

バレーは結局辞められたんですよね。中2で。
そう、やめた。うんいじめがあった。

中2からはスポーツは何もされていないということですか?
何もしていない。

全く?
うん、高校はテニス部。ソフトテニス。

水泳はもう今はやっていないんですね?趣味、遊ぶとかで泳ぐことはないんですか?
やっていない。趣味として、水泳はやりたい。でも、なんか…。ふふっ。寒いわここは(笑)。寒くてちぢこまってしまう。笑
泳ぎだしたら大丈夫なんだけど…止まってしまうね。

遊び、趣味としても水泳は今はもうされていないんですね。
うん。遊び方が分からないのよ。水泳の。

一生懸命競泳の練習をしてきたから。逆に、遊びとしては泳げないってことなんですね。
泳ぎに行こう!って誘われても、なんか無理。競泳としてやってきたから…遊びとして水泳を受け止められない。

小3で、親から一般学校へのインテグレーションを言われたとき、やってみようかという気持ちがあったのですか?
そうだね。家から通いたかったから。そういう気持ちがあった。

インテグレーションした後も、状況が分かってきた後も、まあ続けてみようと思われたんですね。
そうだね、このまま試していこうと。そして、そのあと、聞こえる人の、なんというか、
心理、心境の変化、というのがあるじゃん。
ろう者はきちんと通じ合う、手話がある。だからまだいい。でも聞こえる人は口話。口だけ。口を見てもわからない。それに加えて、向こうの気持ちの変化があって、4年生、5年生、6年生で気持ちが色々変化していく。成長していく。
何を話しているのか分からない、その分からなさが気持ち悪いときに、
自分が何か変なこと言ったかな?おかしいことしたかなという不安がぬぐいきれなくなった。
そうしていつしか、いつしか、距離を置かれるとか、うん、いじめ、とか、ある。
聞こえないから無視してしまおう、とか、色々あったよね。笑

中学に入ってからもいじめは続いたのですか?
うん、あった。いじめはあったというか、無視されたり、話しかけられなかったり。グループを作ってて、私をどのグループも入れない、とか色々あった笑。

小3からは、友達は…だんだん減っていった感じですか?
小3,4のときはまだよかった。小5,6のときは、友達は、男友達のほうが多かった。
まだ良かった。でも、中学は‥あ~大変だった。

逆に、水泳のほうが、学校を離れた場所ということで付き合いが楽しかったんでしょうね。
そうそう。それはあったあった。うん。学校が違う子との付き合いだったから、よかった。

プールだけでつながる関係は気持ちが楽だったんでしょうね。
そうだね。

高校に入ったあとは、みんな結構大人になってるから、会話はしやすいところがあったんじゃないですか?
違うのよ、地元の高校には行きたくなかった。ここ地元の。隣町のB高校にいったの。

遠いんですか?近いんですか?
うーん?距離は…わからない笑、25分。

車でですか?
うん車で25分かな。

25分は、近いほうだと思います。バスで通学ですか?
バスだとバス停をちょくちょく止まって40分。

地元の町には、高校は1つだけですか?
その隣に、高校が2つある。うち1つはQ高校、誰でも入れる感じ。

中学校の同級生は、行く先の高校は3つに分かれる感じですか?
O高校、P高校、Q高校。そしてちょっと離れたところのR高校。トップ校がS高校。
B高校、私が行った高校は、うちの中学からは私を入れて2人だけだった。

あえて行く人が少ない高校を選んだわけですか?
誰も、誰も、私を知らない、同級生がいない高校に行きたかった。
B高校は、ぴったりだった。

新しく、ゼロからやり直すということ。
そう。ゼロから、ゼロからスタートを切りたかった。

そのB高校で、その1人の、友達と出会えたわけですね。今もつながりがあるという。
そう。
不思議なんだけど、不思議だけど、同級生の弟も障害者。知的障害。その友達の子どもが、自閉症で。なんか重複障害があると。もう一人、E町にいる、友達が2人子供がいるんだけど、下の子が脳性まひで。障害がある。
だから…私の周り、障害者が多いというか、接点がある人が多い。

高校はB高校にいく、というのはいつから思っていたことだったんですか?
中3。中3から。
同級生で知っている人が誰もいない高校に行きたかった。辺りを見回してみれば、それはB高校しかない。父は反対。いや地元の高校にいくのが妥当だろうと猛反対。
それは分かるけど、色々ある、誰も私を知らない高校に行きたい、と私は言った。
絶対認めない、と父は反対。
でも、母が私の側に立ってくれた。母は私の気持ちを知ってたから。B高校でいいじゃないの、と言ってくれた。最後は、父も、うんと認めてくれた。2対1で意見が通った笑。

その時は、お母様が味方になってくださったんですね。
そう笑。さらに小学校のときの先生が、奥様がそのB高校で保健の先生をやっていて。
校長に、聴覚障害があるけど受検していいか?と問い合わせてくれて。
障害があるなしに関係なしに 試験に合格する実力があれば障害は関係ありません、と言ってくれた。誰でも受け入れます、と。
車椅子の生徒もいたし。

公立ですか?
うん公立。

小学校卒業後行く中学校は、もう学区で決まっていますもんね。
そう。

誰も知らない中学校は無理ですね。
そうだね笑。

だから高校は…
そう制約はない。選べる。自由に。

高校は楽しかったですか?
楽しかった。楽しかった。

いじめもなかったですか?
いじめもなかった。みんな仲間だった。福祉に理解がある校風だった。
私が聞こえないことを、ある意味では理解してくれた。
本当にうれしかったのは、国語、数学のときに、習熟度でクラスが分かれるんだけど、クラス編成がありますが私の隣の席につかなければなりません、って先生に言ってくれたの。
隣!隣に座る必要があります!と。私の隣に。

隣で、色々情報を伝えてくれたということですか。
そうそう。授業の内容を筆記してくれた。それを私はノートに移した。今アメリカにいるのよ。優秀だったから、とっても。アメリカにいると言ってきたときは、びっくりして。すごい人。

なぜ滋賀県に行こうと思ったんですか?
行こうと思っていた専門学校に落ちて。次は、あ~どうしようと思っていたところに、滋賀県のその専門学校は、まだ出願ができた。だから出願した。

第一志望ではなかったんですね?
ではない。とにかく地元から出たかった。そういう気持ち。逃げる。分かるでしょう。逃げる。それもあった。

第一志望のところも、家から出るということ。
うん。落ちちゃったけどね。地元から出て、都会に出る近道。

そのあと国リハにも入られたんですよね?滋賀県のは2年ですね。
うん2年。そのあと国リハが1年。

そのあと、仕事は関東。
D社。

今の仕事をするようなことは当時は全く考えていなかったんですね。
考えてなかった。だってもううんざりしてたもの、勉強に。笑

嫌だったんですか?
嫌でたまらなかった。だって一日中…

でもいまそれをお仕事にされているわけですね。教えている。
そうだね。不思議。自分でも不思議。笑
でも自分にはそれしかないから。それしかできないから。自分が指導する、指導をして生計を立てる、自営できるのはこれしかないから。
‥‥自信をもつチャンス、自信を持てるようになるために。

地元を出るために、その専門学校にいったのに、結局その技術で、地元に戻ってきたんですね。
戻ったね。そうだね、田舎のほうが、なんか、指導しやすい、やりやすいだろうと思った。
関東、東京では厳しい。ここだとまだやっていけるんじゃないか、そういう思いもあった。

あちこち転々とされましたね。
そうだね。転々として、最後は、関東に帰る。本当はここに骨を埋める予定だった。本当はね。でも…なんか、合わない。考え方、人たち、合わなくて。合わない。
一生を、ここでは終えられないと思った。悟ったの。
骨は、ここでは埋めないことにしようと思った。
でも、そもそも、教室を立ち上げることについては、親とは意見が合わなかった。当然だけど。今親は72…私は45、今年で45。考え方が違う。
それに加えて、私は一人暮らしが長い。関東暮らしも長い。私は色々情報を知ってる。親はそれ聞くのも嫌。顔を合わせればいがみ合ってばかりで。女同士というのもあるかな。いがみあって。
そうして3年。4年目で、このままではお互いに壊れてしまう、なと。私は猫を飼っているから、賃貸は無理、猫と一緒に住めるところを借りるか…自分の家を建てるほうがいいのではないか、教室もひらけるような家にしよう、1階は教室、2階は住居。

結局、最終的には、手話の場所で、死にたいってことですよね。
そうだね…。そう。本当に。
手話は必要。確かに。あ~本当だわ。

手話がある場所で、手話に囲まれて、死ぬということ。
ほんとだね。幸せだよね。幸せだよ。本当に‥。

今、手話をやる機会は減ったんですか?
ないね。もう手話は、少なくなったね。手話サークルの場だけかな。
ここには、いい手話通訳者がいる。関東のU市で活動していたけど、親の介護のためにUターンしたの。明日会う予定なんだけど。
誰かいい人いない?って聞いてしまったわ笑
たまに会う。おしゃべりして。そのときは手話を使う。すごく、支えになってる。

今までのお話を伺って思ったのですが、やはり手話、聾は、耳が軽いとか発音とか関係なしに、結局は「手話」、手話に行きつく…。
そう。そうだよね。
みんなそうなのかな?同じかな?違うのかな?
私は手話なんて要らない、という人もいると思うけど。

最後に、それに気づくのが早いか遅いかだけで…それはあるかもしれないですね
確かにね、うん、うん。

手話のところに「帰る」ってことなんでしょうか…。
うん。
横浜の親戚、叔母は、自分がいつか横浜に戻るということを知ってる。こっちの人にはまだ誰も話してないのだけど…。売却が正式に決まって、引っ越しも決まったら、お話ししようと思ってる。よくない流れなのかもしれないけど…。

「手話」のあるところに帰りたいというのは、聾学校、小3まで過ごしたことが大きいような気がします。
あ~、うんうん。

聾学校の経験が全くない人は、手話に帰ることすら思わないかもしれないですね…
そうでしょうね。大人になったあと、思うことはあるんじゃないかしら。

それはありそうですね。聾学校に小3までいたからまだ、自分は手話だ、そう思うのが早かったんじゃないでしょうか。
そうだね。うんそうだ。そうだね。
地元に越して、気づいたの、分かった。ここは、私が一生を終える場所ではない、住み続ける場所ではない、ということが分かった。は~

おそらく「情報が欲しい」というのは、文字ではなくて、手話、実際に手話で話すということ、他愛もないことを話し合える、そういう情報の「濃さ」ということなんですね。
そうだね。うんそうだね。

お話を伺って印象に残ったのは、やはり親に「無理」と言われてそれをずっと引きずっているということ。
親に「無理」といわれなければ、自信をなくすこともなかった。「無理」と親に言われていなければ、自信をもったまま、自分はできる、できると、自分らしく、色々動いていけたかも…

今は自信を取り戻されたんですね?
あ~分からない苦笑 どうだろう…
海外に行って、自信がついたの。海外旅行がきっかけ。海外に行って、あっ自分にできた、これができた、自分はできたんだと。海外に行く勇気がなかったんだけど、実際に出てみると、おおっできた、自分にもできた。アメリカで、道が分からない、人に聞いてみる。そうして自信を持てた。
でも、日本に戻ってみると、できないのよね。何かやろうとしても、やめなさいそういうことはしないほうがいい、とたしなめられる。
えっ?自分はできるのに。と思う。
こういうことしたほうがいいんじゃないの?と言っても、やめなさい恥ずかしい、みっともない、と言われる。
恥ずかしい?どうして?
だってじろじろ見られるでしょう、人目に付くでしょう、と言われる。
そういわれて、えっ見られることっていけないなの?と思う。うーん?違う‥と思う。
私はやりたいことがあって、それに向かって突き進む決心をした。それをやろうとすると、ダメダメ、止めたほうがいいと止められる。ここは保守的な土地柄だから…。ここは保守的な町。
今自分がここにいること、それがもう最大的なことで、それだけでもういっぱいなんだからこれ以上は望まないこと。
もし運営がうまくいかなかったら?何かあったら?だから何もしないほうがいい。ことを荒立てず、何もしないまま、平穏に、そういうことを言われる。
私は、はあ?って流してる笑

なんか、町を変えるより自分が出て行ったほうが楽というのもありますね。
そう!それがいい笑。
もうわたしは、やれることはないわ。イライラする。それがストレスでもう…。今不眠なのもそれがあると思う。笑 
この2,3年で、もうここを出よう、と決めた。

だから不眠対策で、お酒を飲まれてるんですか?
毎日。ビール500mlそれを2本。いま、ワイン飲んでるの。
この1本を3日間であける。本当は1日で空けられるんだけど、3日間で分けて飲むことにしている。

自分で節制しようとはしているわけですね。
そうだね。考えてはいる笑


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