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ゆ~たん(1970年代前半生まれ)

聾学校の同級生は何人だったんですか?

幼稚部は…15人かな?
15人くらいだったと思う。
うん15人。ばら組、ゆり組、2つ組があったから、組2つに分かれて、10…15人。

うちの同級生は、なんだろう、よくは知らないんだけど、勉強できる人が多かったらしくて、ふつうの学校に行った人が多かった。
あっ、Zさんも、一応、私の同級生。幼なじみ。
あの団体、演劇活動の。今はもうやめたそうだけど。
その人も私の幼なじみ。
びっくりだよね。

それと2人目、卓球の、知ってるかなあ、デフリンピックに出た、卓球のPさん。
その人も私の幼なじみ。

あともう一人。水泳の…サーフィンで、デフリンピックに出た。
名前は忘れた…。あっJさん。
デフリンピックに出た。その人も私の幼なじみ。
この3人は、私の幼なじみ。

みんな出ていって、15人いたのがあっという間に減って、少なくなっちゃった。
私の学年はとりわけ少なかったのよ。

小1のときでは何人だったんですか?

8人。

半分以上が出て行ったということですか?

そうなるね!
他の学年は3つクラスがあるくらい。そういうのが多数だったんだけど、うちの学年は少なかったな。

聾学校の思い出、楽しかったこと、つらかったこと、特に印象に残ったことはありますか?

楽しかった思い出…。なんだろう。
色々あるけど…。
先生からは、愛とムチ。それを感じた。先生の愛情があった。

先生はすごく一生懸命だった。
感謝だね、今思えば、感謝だなって思う。
だって、8人に、8人のクラスに1人の先生。今みたいに2、3人の先生がつくわけでもない。
よく見てくれたなあと思う。

今思い出しても笑えるのだけど、ごほうび、先生が内緒で学校にお菓子を持ってくるの。
それって大丈夫だったのかな?

冬至か何かのときで、甘い薩摩芋があるの。
よくわからないんだけど甘い薩摩芋。
何か九州かなにかから、お土産?でもらってたらしくて。
それがとてもおいしかった。
うわふわしていて、輪切りしたものに砂糖がまぶしてあるの。
ざらめか何か。甘くて。それをよくくれた。

先生がいうの「みんな集まれ~」って。
おなかの引き出しをあけて、はい、はい、ってみんなに配ってくれたの。
それがとてもうれしかった。
ごほうびにつられて勉強を頑張ったところはあったと思う。
頑張ればごほうびがもらえる、って思ってた。
思い込みもあったけど。

今からすれば、ありえないこともあった。
給食中に、先生がテレビ見てるの。それが当時はやっていた「おしん」。
「おしん」知ってるよね。
先生はもう続きが気になってしかたなかったみたいで、いつも先生はテレビ見てたの。
今じゃ考えられないよね。今の時代じゃ、先生としてアウトだよね?

だから、私たちも便乗してつい一緒にみるというか…。ある意味ラッキーだった。
私たちも気になってたから。
家にいないからテレビ見られないし、続きが気になるし。
でも字幕はなかった。けど、流れは推測しながら見てた。
感動もしたね。

今はDVDレンタルできるね。いいね。歳がばれちゃうね。おしんって言っちゃうと。

あのさ!小4のとき、先生が、怠け者だったのかよくわからないんだけど、よく授業放棄してたの。
他のみんなが授業やってるのに、かくれんぼしよう!って私たちに言うの。
ありえなくない?授業時間なのに?

かくれんぼ!?…わかりました、といって、みんなで遊びに出ていった。
何のためだったんだろうね?何の勉強だったのかな。訓練?

先生の趣味?授業をきちんとやるのが面倒だったのかな?
かくれんぼよ。
ありえないよね。
楽しみながら何かを覚える?意図があったのかしら?違うよね(笑

聾学校までは、どういうふうに通学してましたか?

電車2つ乗り換えて、それから歩き。
35分くらいかな。地下鉄乗って…徒歩もあって35分かな。
気づいたら、1人で通学してた。いつの間にかって感じ。

何歳頃から1人で通学してましたか?

小2…小2。
気づいたら、いつの間にか母の付き添いはなくなってた。
母に教わったんだっけ?覚えてない。

最初は、やはり母に道順や行き方を教えてもらうよね。
思い返してみると、私、母に付き添ってもらって、教えてもらった記憶がない。

いつ教えてもらったっけ?
覚えてない。でも友達といつも一緒だったから。大丈夫、友達と一緒に通学、帰宅してた。
登校もしてた。困ることはなかった。

(事故に遭った話)

その事故ってどんな事故ですか?

中1のときだと思うんだけど、信号待ちしてて、歩道に雪山があったの。
ちょっと山が道路側にもはみ出ていて。
横断歩道との境目に境目がちょっと山だったのよ。山の高いところで立って待ってたら、その斜面をすべって道路に滑り出てしまったの。

そこを轢かれた。
車が私の身体の上を踏んで通り過ぎた。
学校の授業でスキーに行く日で、そのときの服がスキーウェア。上下白。タイヤの痕がくっきりウェアに残ってしまった。それ見て、やべえって思ったりして。

感覚ははっきりしてた。
タイヤが自分の身体の上を通り過ぎたとき、確かに重くて、ああ自分はもうだめだ、スキー行けないな、もう終わったなと思って。

そして立ったの。そのあとなぜか歩けた。
車の運転手さんが降りてきて、大丈夫?大丈夫?って聞かれたけど、ああ大丈夫です、では、って走って学校に行ったの。
すぐに立てた。
学校に走っていったの。

親には言いましたか?

いや言わなかった。言ってない。
30年たった後、親に言った。
なんですぐに言わないの!?って言われちゃったけど。

学校、先生には伝えましたか?

いや言わなかった。
でもそこには1つ下の後輩がいたから、その子は見てた!証人はいる(笑)
すぐにたって歩けたし、後遺症もないし。

でもはっきりわかるのはスキーウェア。
ウェアは白いから、タイヤ痕がくっきりスキーウェアに残って。
それをみて、ああ本当に轢かれたんだって実感してた。
学校にも歩いて行けたし。スキーも問題なく滑れたし。
スキーウェアのズボンにくっきり黒い線が何本かついてしまって、必死に汚れを落とした。

高校の寄宿舎は楽しかったですか?

楽しかった。楽しかった!
今思えば門限、ありえない。6時…だったかな。高校生で!

部活はしていましたか?

部活はある。6時前には終わる。
6時?5時半?忘れたけど。
晩御飯の時間が早くて、5時‥何分だったかな。だから部活終わったらすぐ帰ってきて、すぐご飯食べて、すぐお風呂に入って…。

遊ぶところないですよね?

ない!山あいの校舎、すぐそこに寄宿舎、で何もない。
寄り道しようがない。
コンビニもないし!!
門限が早すぎるし。高校生で6時って、受け入れられる!?

遊ぼうにも遊ぶところがない、それは確かにそう。
夜になるのが早いのよ。
自転車にのることもなかったし、バイクにものらなかった。
高校生になればバイクの免許もとれるのに、バイクに乗らなかった。乗らないまま終わった。
何してたんだろうね!私は!

寄宿舎、校舎のすぐ隣だったし、生活圏が小さくコンパクトですんでたということなんですね。

そうなんだよね!自分、よく飽きなかったなあ。
友達がいたから、楽しかったんだと思う。
非行、悪ふざけばかり、やんちゃもしてたから楽しかったのかな。
停学、退学も珍しくなくて、そういういう時代だったから。
いつも問題が起きてばかりで。
毎日何かしら大騒ぎだったなあ。

聾学校中学部を卒業して、入った高等部は、普通科ですか?

うん。そう。
本当は普通科志望じゃなかった。被服科志望だったんだけど、先生と親が認めてくれなくて、仕方なく普通科に入った。

実は、きこえる高校にも行ってみたかったんだけど、それも認めてくれなくて。
でも今思えば、聾学校でよかった、…かも。
自分の性格的に、いじめられてたかもしれない。
見た目からは想像つかないかもしれないけど、みんなは冗談ぬかせって言うけど、
本当よ!、昔は大人しかったんだから。
だから、親は、聞こえる高校はやめとけ、いじめられるから聾学校がいいよ!って言われて。それもそうか、と思って、言う通りにした。

高等部の寄宿舎で就寝時間は何時だったんですか?

消灯時間ね、9時だったと思う。忘れた。
9時か10時かなあ…。

ご飯食べて、お風呂入って、勉強はいつするんですか?

ごはん食べた後、自由時間があるから、9時?10時までの間に勉強する。

おしゃべりの時間がもっと欲しいですよね。

いやあ毎日、毎日友達とは会ってるから。
365日!
あ、夏休みとかは別だけど、いつでもすぐに会えるから。嫌でも顔を合わせるし。喧嘩しても、会うし。
それは、いいことも悪いこともあるよね。

自主性、自分でやらなければならないこと、掃除とか。
集団生活のなかで、それは自分でも身に付いたと思う。
それは集団生活のいい面。それは一番大きいと思う。他人に対する配慮も。それは良かったと思う。

高等聾学校の文化祭もりあがりましたか?

うん盛り上がったよ!楽しかったよ!
文化祭は、先生のサポートは全くなし、声掛けゼロ!!
生徒だけで生徒みんなでやる。
今思うと、自分たちよくやったわ。

模擬店、パレード、パレードは山車。
青森のねぶたみたいなやつで、それほど大きくはないけど、まあ自分たちで引っ張れるくらいのサイズで。
それと、あとは、劇!
この3つから、自分がやりたいのを選ぶ。担当を決めて、それから仕事を分担して準備を進めていく。文化祭に向けて。面白かったよお~。

聾学校で一番楽しかったことは何ですか?

えっ何だろう???
あ~~ すべて!!
全て!
一生懸命だったかな。生きてる実感があった。

今は、私死んでるのかな(笑)。

毎日毎日がきらきら輝いていた。
なんていうか、先生はあんまりうるさくなかったんだよね。
だから自分の思うように自分でやって、経験して、失敗もして、へまもしたけど、どじったりもしたけど…それらが自分のものになったというか。
それもすべて経験になった。
それがあるから今の自分があるかなと思う。

先生は何か指導とかはしなかったんですか?

ない。ほとんど何も言ってこなかった。こけても、自分で対応してね、ってこと。
転んでも、(擦り傷は)水で流せばいい、蜘蛛の巣が顔にかかったとしても、別に何もなかった。
そばで見守るってこともなかった。

お兄さんお姉さんがたくさんいたから。
誰かしらそばにいてくれたんだと思う。

学年、15人とすると幼稚部だけで50人。45人、くらい、50人切るくらいか。
小学部だけだと、100人!
小1から6年まで、大体、100人。そうなるじゃん。
中学部もあるから、50人、合わせると200人!以上!
200人が聾学校内にいたわけよ!いっぱいでしょ。想像できる?

昼休み体育館は芋洗いの状況!
幼稚部から中学部までが、一緒に遊んでた。
中学部の先輩が体育館内でよくサッカーをやっていて、それボール飛んできて危ないじゃん?ボール速いし。
たまに流れ弾が飛んできて、頭にぶつけられてたけど、別にいつものことだったから、そのまま遊び続けた。

逆に、私からも先輩にもたくさんいたずらをしかけたし。
とくに私はたくさんしてた。悪い子だったなあ(笑)
幼稚部のときは、バケツに入った水をざぶん!とかけてやったこともある。
中学部の先輩にね。

幼稚部は、体育館に一番近かったの。
だから幼稚部のときはよく体育館に行ってた。
ほんとに、目と鼻の先。だから少しでも時間ができたらすぐ体育館に行ってた。
体育館に行く途中には、校長室もあったの。
校長室を通り過ぎて、つきあたりが体育館だったから。

校長室はいつも、たばこ臭い!
たばこの煙でもくもくしていた。昔あるあるだよね。
今では考えられないよね。本当にくさい!煙でもくもくしていた。

校長室によく遊びに行ってた。
ノックなしで勝手にドア開けて、居なかったら居ない、居たら居たで、おしゃべりしていった。
今じゃとてもできないけど。
非常識かな?(笑) 怖いもの知らず、だったんだろうね。

そうだ、うちの聾学校の、校舎の特徴というか、怖い話があって!!
うちの学校だけかもしれないけど。
ミステリーみたいな話になってしまうんだけど。
聾学校は、戦時中の収用とかそういうところを使って建てられるところが多くない?
昔からある古い聾学校で。
つまり、戦時の何か施設とかそういう広い土地収用とかそういうところを使ってできたの。そういうところ多いよね?

うちの聾学校は、元飛行場だったらしいの。そこにうちの聾学校が建てられたという。
だから兵隊さんがいたとか、そこでだれかが死んだとか幽霊が出るとか何か色々噂話はあるんだけど。
ともかく、後から新しく建物を建てて、もともとの建物に付け足していった感じのところがあった。増築に増築って感じ。

昔は高等部の校舎もあった。けど、高等部がなくなって。
高等部が別のところへできたから、高等部が使っていた校舎に、そこに小学部中学部が入ったの。
残りの校舎は、幼稚部小学部が使ってたんだけど、おんぼろで。
中学部のところは比較的きれいだったの。

中学部の校舎と幼稚部小学部の校舎を二階部分で廊下で無理やりつなげたようなところができて。
いつそこの床が抜け落ちてもおかしくなかったと思う。
渡り廊下みたいなところで。雪も積もるし。ミシミシ、いってたわ、間違いない。
いつ床が抜けてもおかしくなかった。

さておき、木工室。
木工室あるじゃん。それが2階までの吹き抜けになっていたの。
木工室に入る前の廊下も、吹き抜けになっていて、その2階部分の壁になぜかドアがついているの。

イメージつかめるかな?
廊下部分も吹き抜けなんだけど、その2階部分にドアがあるの。
廊下には、その2階部分に行く階段がないのに、なぜか2階部分にドアがついているの!

分かりやすいように図面を描いて見た。
(手書きの図面:2階分までの吹き抜けがあり、2階にあたる高さの壁に、ドアがついている)

ここに先生の部屋があってその部屋ドアの上に、またドアがある。
ここ、2階にあたる部分なの。
2階のところにドアがあるの!なぜか。

そこ床がないから、そのドア開けようとしても、床がない、落ちちゃうじゃないですか。

そうなのよ!おかしいよね。まさにこれが、ミステリー…。

1階と2階の間に床が昔あったけどもう取ったということですか?

それがよくわからないのよ。

その2階のドア開けた先には何があるんですか?

ドアの向こう?
怖くて行けない。
怖いもん。
ドアはある。けど、そこまでどうやって行くか方法が問題。

誰か開けた人はいないんですか?

2階の部分にあるドアは怖くて開けられない。
その真下の先生の部屋には行ったことあるけど、2階のところは行ったことがない。
そこに行く道、階段があるのかは知らない…よく知らない、怖くて。はっきり覚えてる。
おかしいよね。これ。
無理やり1階と2階の間にあった床は撤去したのか…?
古すぎて床が抜け落ちてしまったのか…分からない。

今もその建物はあるんですか?

ああ、今はもう古すぎて取り壊したの。
新しく学校を建て直したから。
写真撮っておけばよかったな。しまったなあ。
本当におかしい。
なんか、おかしい構造。ありえない構造。

そうなんだよね~体育の先生の部屋の部屋もおかしかった。
なぜか天井がすごい低い。
1階分の高さより低い。低いの。
だから先生は机に座るとき背をかがめてた。いつも。

変だよね。構造的におかしい。しかも暗い。
暗室みたいな部屋でカーテンも真っ黒いの。カーテン閉め切ったままだし。
カーテン開けたらいいのにと思ってた。
朝なのに、電気つけてた。
変だよね。今思えば変だった。考えれば考えるほど変。ミステリーよね。
不思議すぎる。


聾学校で寄宿舎に住んでいる人で一番遠かったのはどこですか?

寄宿舎に住んでいる人で…一番家が遠かった人?
うーん…。
よく事情は知らないんだけど、よくは知らないんだけど、同級生の子が小さいころから寄宿舎に入ってた。お母さんが片足に障害があって。足が悪かったの。
だから寄宿舎に入ったのかな?って思ってた。
本人には聞いてないんだけど。

また、ある先輩は、両親が離婚して、お父さんだけだった。家庭の事情で入っていた子もいたのかも。
家庭の事情で寄宿舎利用が認められたのかな、って思ってた。

でも、寄宿舎利用は多くはなかったかな。
遠くから通ってる子もいた。
E市とか。汽車にのって通っていた。それは、珍しくなかったな。
F市から通っていた人もいるし、J市から通ってたひともいた。

思ったけど、そちらの聾学校は、発音指導あった?

ありました。でもそれは幼稚部で終わりって感じだった。
小学になってからは、発音に見切りをつけてた感じというか、勉強優先だったかなあ。
でも、私より3,4つ上は、小1,2になっても引き続き発音練習に明け暮れてたみたいなんです。小3,4くらいから勉強が始まったというか。

確かに、私、小1,2は発音訓練があったわ。
黒板にチョークで端っこから端っこまで線を引くの。
できるだけ長く線を引けるように、声を出し続ける。
あーーーーーーーーーーーーーって。
そういうのあった?

なかったです。
私が小5のときに、先生がやってきたんです。何か産休か何かの代わりで、おばさんで。
その先生が発音練習をやりだして。
私たちクラスは、発音練習なんても久しぶりって感じで。発音練習なんて幼稚部以来。発音練習!って言われたとき、何?って思ったくらい。
無理やり口の中に手をつっこまれて、もう放心状態。

そうなんだ。私は別に気にならなかった。そういうもんだと思ってたから。

毎年発音テストがあるの。年に1回。明後日は発音テストかあ…ってすごいその日が来るのがとてもいやだったです…。

あったの!?そうなんだ。
うちの学校にはなかったな。

私はそんなの大したことではなかった。でも発音訓練は厳しかった。うん厳しかった。
先生、口の中に手つっこんでくるよね。
やられた?

あります!すごい嫌ですよね!ショックでした。

そんなにショックだったんだ。
私は我慢、我慢。
えずきたくなるけど我慢。終わった後、手を洗ってた。当然じゃん。
先生はもうつば飛び散らかして。
つばが顔全面にバシバシあたる。雨のように。
昔はそうだったのよ。
もう顔がびしょぬれだから手でぬぐいたいんだけどその場ではやらず我慢してた。

我慢に我慢。終わった後、顔をぬぐってた。
それが毎回毎回、毎回!
今思うと本当に耐えてたなあ、自分。(笑)
体罰並みじゃん?
でも、体罰…、虐待とは当時思わなかったんだよね。
発音のコツを理解させるために、やむを得ないことなんだなって思ってた。

何か、チリ紙、ティッシュペーパーを細くちぎったやつ、やった?
は~って。
口の前に垂らして、息を出し動きを確認したり。先生の息が臭いって思ってた。息くさ~い…って。


ところで、聴こえる人と話してみたいって気持ちあった?

まさかないですよ!

私はあった。
話してみたいなあって。でも私は発音が下手で。
あ~仕方ないなあって思ってた。

私筆談そのものを知らなくて。
書けばいいってことを知らなかったんです。
なんというか頑張って声で話すしかないと思ってた。
伝わらないから何度も繰り返すって感じ。

ええ?えっそれいつの話?

小学からずっと高校卒業するまで。筆談を知りませんでした。通じるまで何度も声で話してました。当然、全然通じなくて。
筆談を知って、ああそうか、書けばいいんだってすごい目が開かれた感じがしました。

確かに、筆談は知らなかったねえ。
空書きはしなかったの?
空書きあるじゃん。私の親は空書きをよくしてくれたの。
だから聴こえる人みんなそれをやるんだと思ってた。
でも、ある時やってみたら通じなくて。ええ?空書き読めないんだって驚いた。
みんながみんな空書きわかるわけじゃないんだって。

文化の違いっていうの?違いを知ったねえ。(笑)
空書きはみんな当たり前にやるもんだと思ってたの。
私は空書きの字が読めるけど、聞こえる人は、それが読めないんだねえ。
それが驚き!
空書きが身近じゃないんだなって思った。
空書きをすれば相手に伝わると思ってたの。それが通じないなんて。
聞こえない人だけの文化?そっかあって思った。

小学部のときに、集会…集会みたいなのがあるじゃん。
そのときに、本日の、いや、今週の目標、次に、今週の注意というのが発表される。
毎回そういうのがあった?

ありました。月曜日。朝体育館で。

月曜日だったんだ。まあそれがあるよね。
それがさ、もう…。それが今週の注意がいつも同じ内容、繰り返しずっと。

「手まねを使わないで、声を出して話しましょう」
ずーっとそれ。

今思うと、…なんだろう、洗脳だよね。繰り返し刷り込まれる感じ。(笑)

えええ??私のところはなかったですよ。

それがすごい記憶に残ってる。強く残ってる。
手まね、手話じゃないの、手話って言葉はなかったから、昔。
「手まねを使わないで、声を出して話しましょう」
もうずっと繰り返し。今週の注意とはいうけれど、いつも同じ。

今週か、今月の目標かどっちかは忘れたのですが、目標は児童会が作っていました。児童会。だから「忘れ物を減らしましょう」とか「ごみはきちんとゴミ箱に捨てましょう」とかでした。

いいね、それ。
こっちは「手まねを使わないで」だよ。
「手まねを使わないで、声を出して話しましょう」が模造紙に縦書きで書かれていて、集会が終わったあとに、廊下に貼りだされるの。
いつでもみんなが見られるように、みんながよく見るところに、貼ってあったの。

それはもう頭に焼き付いてる。
うちの聾学校の卒業生なら、だれに聞いても通じる話だと思う。
覚えてるかどうかはわからないけど…。

強烈ですね…。私のときはそういうのはありませんでした。時代が違うのかな。

ありえないよね。洗脳。ありえなさすぎる。
そうだ、私が指文字を覚えたのはいつだったと思う!?

小5ですか?

違うのよ、もっと遅い!

中1?

違う!

高等部?

そう!高等部に入ってから初めて存在を知った。
覚えた。手話、手まねがあるのは知ってたけど、先輩たちが使ってたから見て自然に覚えたけど、指文字の存在は知らなかったの。

高校の先生が、聞こえる先生が、授業中に指文字を使うの。それをみて、何それ?って聞いてしまった。
指文字ってのがあるんだよ、って先生が話してくれた。
そうだったんだ・・・!私はショックだった。
聴こえる人が使ってるってことにもびっくりした。
どうして今まで知らなかったんだろうって思った。

指文字があるってことに驚いたし、その分かりやすさにも感動した。
これは覚えなきゃってことで頑張って、1、2週間で覚えた。
自分からは表せるようになったけど、相手の指文字を読み取るのには時間がかかった。
自分が表すほうは問題なくできたけど。
覚えたことは覚えたけど読み取りにはなれるのに時間がかかった。
本当に衝撃だった。

川本口話賞、どういうものか知ってる?

はい知ってますあれですね。

卒業式の。それ!今思えば、ありえないよね。
そうだよね?(苦笑) 
選ばれるじゃん、1人。選ばれる。
それともう1つ、スポーツの…。あわせて2つ。
活躍した、いい成績を収めた、人に対して授与される。
この2つ。選出されるのが2つある。
今思えば、なんなの?って思っちゃうよね(苦笑)

「川本口話賞」、ずっと意味がわからなかったの。
発音が上手、話ができる、優秀な人に授与されるとは聞いていたけれど、川本って人の名前だよね。誰?ってずっと不思議に思ってた。

そう思ってたところ、本、本があるじゃん。
「我が指のオーケストラ」に川本…川本の名前があって、あったよね。
娘が聞こえないんだっけ。聾、あれ難聴か?
あっ違う、そうか聾学校の先生か!
その名前から取ったんだ、ていうのを知ったの。ようやく。何年もたった後に、知った。

今思えば差別だよねえ。(笑)

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