教育の時代は終わった
教育という言葉は、
もはや当たり前のように使われているが、
現代の成熟社会ではもはや死語になりつつあると思っている。
私は教育者が嫌いだ。
そもそも、教育という漢字は、
教えて育てる
である。
これは、まさしく戦後の高度経済成長期には、正常に機能していたことだ。
とにかく、アメリカ資本主義を真似ることで、急速に発展してきた。
この時期は、情報をインプットするだけで、なんとかなっていた。
だから、情報や知識を人が教えることで、教育が成り立っていたのだ。
しかし、今はどうか。
もはや、教えること自体は、ほとんど意味がないように思える。
とくに、情報や知識は、ものすごいスピードであっという間に陳腐化していく。
とにかく、情報の賞味期限がはやい。
そんな時代にただ単に知識や情報を教えることは、意味が無い。
もはや、教育という概念自体が成り立たなくなってきているのだ。
そもそも日本において、教育という概念自体は西洋化の始まった明治から使われて始めた言葉であるeducationの日本語訳とし使われたことばである。
Educateとは、本来、能力を外へ引き出すという意味であり、
今となっては完全に誤訳だ。
言葉は強力だ。
使っていると無意識に価値観をコントロールされてしまう。
私は、今の時代はこのもともとの意味のほうが適しているように思える。
子供たちに何かを教え込むというよりは、
彼らが、本来備えている能力を引き出し、存分に発揮させてあげることが重要なのではないだろうか。
明治以前は、愛しむや副立つといった、
素晴らしい言葉で子供たちを扱っていたようだ。
それが、教育の本質であると思う。
教育改革が叫ばれて久しいが、
問題の本質は、そもそも教育の概念にある。
教える人が育つのは、ある状況でしか機能しない。
本来は、人は育てることなんて最初から、できやしない。その発想自体が傲慢なエゴイズムである。
我々ができることは、見守り、一歩先に導くこと。
今の日本に必要なのは、自分が教えたいだけの自己顕示欲と承認欲求をベースとしたエゴイストである教育者ではなく、
子供たちの視点に立った真の指導者である。
教育改革に必要なことは、教育という概念自体を完全に捨て去ることなのかもしれない。
そして、子供たちのために、何ができるのかをもっと真剣に考えるべきである。
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