見出し画像

家事について

結婚すると「家事どうしているの」なんて話題をよく振られるようになって、まあぼちぼちやっている方だと思うのでそういう答えをすると、たまに年配の方から「男の子が家事をやるなんて偉い」みたいに言ってもらうことがある。

褒めてもらうのはありがたく、心から言ってくれてるであろう言葉は恭しく受け取ろうと思うのだが、自分の中にちょっぴり残る違和感があって、それが何なのか考えていた。

一言でいえば性的役割分業意識に対する違和感なのは間違いないし、あえて言葉を尽くす必要もないのかもしれない。しかし、ここ数ヶ月くらいモヤモヤと頭に浮かべるくらいには気になるものであり、そうするうちになんとなく見えてきたこともあったので、どうせなら一回、アウトプットしてみようと思う。


たぶん、一番大きな違和感は "偉い" にある。家事と偉いが結びつかない。「家事をして偉い」口に出してみて、どうもしっくりこない。ズレた感じがする。

家事を心地よく生きるために必要な営み全般と捉えた時、自分のために家事をすることは当たり前のことだと感じる。生きるためには必要だから料理をするし、部屋が埃まみれだと体調を崩すから掃除をするし、服がくしゃくしゃだと気持ちも体裁も悪いから洗濯をする。それは歯磨きに近い。自分が健康に心地よく生きていくために必要な作業。

だから「家事をして偉い」と言われた時の違和感は、きっと「歯磨きしてて偉い」と言われた時に覚える感覚だ。言葉にすれば「いやまあ、、、大人なんで、、、」とかじゃなかろうか。もちろん口には出さないけども。

家事をしない人のことをディスりたいわけではない。「家事しないやつは子どもだ」って言いたいのか、などと怒りたくなる人がもしかしたらいるのかもしれないが、そういう話ではないのでどうか「ほぉん」くらいのテンションでいてほしい。あくまでこれは、ぼくの中にある違和感を性的役割分業意識以外の言葉にするための表現でしかない。


家事は歯磨きなので、本来的には「自分の範囲をやれば良い」と思う。自分の分の食事を用意し、自分の分の皿を洗い、自分が歩いた分の床を掃除し、自分の服を洗濯し、自分が使った回数トイレと風呂を洗う。

しかし家事は歯磨きと違って、自分の身体からはみ出している。一人暮らしならいいけれど、人と暮らしている場合「自分の範囲だけやる」は非効率だし難しい。一人分をやる手間も二人分をやる手間もそう変わらないものは多く、自分の範囲をいちいち選り分けるのはめんどくさい。

そんなわけで、自分の範囲の家事をやろうとしても、うっかり他の人の分も一緒にやってしまうことになる。うっかりやってしまっているだけなので「やってあげた」みたいな感覚は特にない。

自分がうっかり人の家事をやってしまうということは、逆に他の人が、自分の範囲にあった家事を肩代わりしてくれるということも起きる。自分がやるべきだったことを肩代わりしてくれたら、普通お礼を言うだろう。

今のところぼくは、家事をこういう感覚・感情で把握している。


そして我が家の中で、この感覚はある程度共有されている (数日前に本人に聞いてみたからあっているはず)。だからか、我が家には家事分担というものが特にない。なんとなく気づいた人が気づいた時にやるし、特にそれで不満もないからそうなった。

最近は洗濯物と風呂掃除をパートナーが、ご飯を作るのとゴミ出しをぼくがやることが多い。残りは半々くらい。床掃除は独身の頃からルンバが担当。でも別に決めているわけではない。昼ご飯をパートナーが作ってくれることもあれば、洗濯物をぼくが畳むこともある。たまにルンバが道半ばで行き倒れると、お家 (充電ステーション) へ連れて行き人間が掃除機をかけることもある。

何かの家事をどちらかがやれば、もう一方は「ありがとう」と言う。気付くのが遅れても言う。言われた側は大体「あ、うん」って返す。そういえばやったな、ってなってる。たまに気付けずに「ありがとう」がないこともあるが、やった側も意識してないので諍いになることもない。

特別頑張って家事をやった時は「見ろ!」ってドヤる。そしたらもう一方は「すごい!」って感動して、自分の家事を肩代わりしてくれてたら「ありがとう」って言う。

何もかもめんどくさい日は「今日は何もかもめんどくさい」と言ってソファに寝転ぶ。パートナーが家事をやってくれる時もあるし、パートナーも「何もかもめんどくさい」日だったら、家事全般サボってふたりでポケモンをやる。コンビニに行ってアイスを買う。シンクの方は見ないように。

なんか、そんな感じ。


我ながらいい感じに運用されていると思う。家事をやるのにストレスがない。心が平穏なのはいいことだ。

とはいえこれはリモート勤務メインの夫婦ふたり暮らしという特殊な状況で成り立っているだけの話なので、例えばどちらかが通勤し始めたら、とか、子どもができたら、とか、状況が変わったらまた難しさが出てくるんだろうとも思う。

「家事は歯磨き」は「家庭のタスクを作らない」考え方と言える。家庭のタスクを分け合うから不平等が生じるのを、最初から全部自分のタスクにしてしまうことで解決する。だから何らかの理由で家庭のタスクを持たざるをえない状況になった時、また新しい対処方法を考える必要が出てくるかもしれない。

実際今でも旅行の予定立てる時とかは、旅程をまとめていきたいぼくと行きたいところを列挙してくパートナーの間で話がまとまらず、やや険悪な感じになりがちで、これは家庭のタスクをうまく処理できてない一例かもしれない。

……と、書いて思ったけれど、発散と収束という意味ではいい関係な気がする。パートナーに好きなだけ発散させて、最終的にぼくが収束させる、みたいにしたらもうちょいいい感じにならんだろうか。

蛇足じみているが、しかしこういう思考を巡らせることが、今後生活を続けていく中でより大切になっていくんだろう。


さて、偉そうに今の考えを披露したが、実家にいた頃は家事全般母親に任せきりであった。というか今でも、たまに実家に帰るとリビングで父親と喋ってばかりで家事には参加できていない。

これはもう非常に申し訳ないと思いつつも、あんまりでしゃばるのもなあとか、手を出されるほうが迷惑かなあ、などと頭の中でモゾモゾ考えながら、出してくれるご飯と一緒に親のありがたみを噛み締めるばかりである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?