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ブックレビュー「調子悪くてあたりまえ」

近田春夫は長い間気にしていた人の一人だが、ハルヲフォン時代以降は熱心に作品をフォローすることは無かった。そのあまりの音楽性の変化のスピードに私自身がついていけなかったからだが、改めてこの本を読んでみると、とにかく新しいことを求め続けている人だということを再認識した。

TBSラジオに勤める父親と東京藝大卒の母親が共に再婚した後の子供として1951年に生まれ、自由に育てられた。IQが169あったことから慶應幼稚舎を受験し、合格。3歳から母親にピアノを習い、小3ぐらいから洋楽に目覚め、中学3年生でバンドに参加、2度目の高校2年の時に成毛滋とバンド結成。

高校時代の終盤には「anan」のアルバイトとして採用されたが、音楽活動が忙しくなり10ヶ月で辞め、羅生門、ワイルドワンズのバックバンド、アランメ・メリルとのロック・パイロット、ゴジラ、内田裕也&1815ロックンロールバンドを経て、近田春夫&ハルヲフォンを結成。

ディスコなどのハコバン、映画音楽、クールスのバック演奏などの仕事をこなした後、ついに1976年にファースト・アルバム「COME ON, LET’S GO」を発売。T-Rexを意識した女性コーラスの多用や洋楽の捻った導入など当時の日本の音楽シーンには無い斬新なアイディアで、本人は大ヒットを期待していたにも関わらず、1万枚ぐらいのセールスに留まった。

覆面的な企画盤に関わった後、ライブハウスに活躍の場を移したハルヲフォンはセカンド・アルバム「ハルヲフォン・レコード」を翌9月に発売。Edgar Winter Groupを意識し、本人曰く「ミュージシャン人生において本当に力を入れて作った何枚かのうちの一枚」だったにも関わらず、ファーストに輪をかけて売れず。

セカンド・アルバムではジャケットのみパンクだったが、その後バンドの演奏スタイルは完全にパンクへ移行、78年にほぼ全曲歌謡曲カバーの「電撃的東京」をリリース。本人は「音にはそれなりに自信があったものの、一種やっつけ仕事だった」にも関わらず、批評家筋から賞賛され、セールスは三枚の中で最も良かったが、その後ハルヲフォンは解散。

内田裕也の一派にいたことから縁のなかった細野晴臣と知り合い、意気投合。YMOがアレンジと演奏で4曲参加したソロアルバム「天然の美」を79年にリリース。さらに巻上公一率いるヒカシューのプロデュースを手掛けた後、「近田春夫&BEEF」を結成したが、キングレコードとの契約の関係で本人抜きでレコードを出すことになったのがジュ―シイ・フルーツで、「ジェニーはご機嫌ななめ」が大ヒット(因みにこの曲はBlondieの”One Way or Another”とT-Rexの”Telegram Sam”と沢田研二の”恋のバッド・チューニング”が元ネタで、間奏はManhatten Transferの”Twilight Zone”)。

80年には2枚目のソロアルバム「星くず兄弟の伝説」を”Phantom of Paradise”を意識した架空のサウンドトラックとして制作。翌81年には作詞作曲を手掛けたザ・ぼんちの「恋のぼんちシート」が80万枚の大ヒットを記録。

77年辺りからはタレントとして認識され、オールナイトニッポンでのDJや雑誌POPEYEでの「THE歌謡曲」と題するコラムの連載、TBSの「ムー一族」への出演、アニメ「フリテンくん」の主役の声優などで忙しくなる。しかし、本人曰く「中堅どころのミュージシャン上がりでしゃべりにも長けたタレントとして、ユースケ・サンタマリアと赤坂泰彦を足して2で割ったような存在になるかどうかを迫られた」。

しかし、近田春夫が間借りしていたアミューズに送られて来たアマチュアのデモテープの中から、純邦楽や沖縄民謡に通じた山屋清の甥にあたる窪田晴男が率いる「人種熱」という宝を発見。同じメンバーで「人種熱+近田春夫」、「近田春夫&ビブラトーンズ」名義で活動を始め、タレント廃業を宣言。81年には「ミッドナイト・ピアニスト」を発表。翌82年には平山三紀改め平山みきの「鬼ヶ島」をプロデュース(窪田がアレンジ、ビブラトーンズが演奏)。

窪田晴夫が脱退したビブラトーンズと並行してゲートボールを結成、環境音楽で「スマートなゲートボール」を発表した後、次第にロックの行く末に悲観的になり、ビブラトーンズを解散。デフ・ジャムの黎明期を描いた映画「クラッシュ・グループ」に感銘し、ヒップホップへと移る。さらに87年にはドラムマシンやサンプリングでは無くて、バンドサウンドとしてラップを乗せるために大所帯のビブラストーンを結成。89年には小泉今日子に”Fade Out”を提供。

ヒップホップに飽きた頃に出会ったゴアトランスが癖になって、5年ぐらいの歳月を経て「誰が聴いてもトランスだと思えるような堂々たるサウンドを生み出せるように」なった。

こういった変化の激しい音楽活動を続けていく一方、タレント廃業宣言以降はCM音楽制作が主たる収入源だった。とんねるずが歌った森永製菓「チョコボール」、日本コカ・コーラの「爽健美茶」、戸川純が出演したTOTO「ワシュレット」、日清「スパ王」のサウンドロゴ、宮崎美子のラップ「タカラ本みりん」は彼の作品。山崎努と豊川悦司が温泉卓球を興じるサッポロビールの「黒ラベル」は何とレニー・クラヴィッツの「Are You Gonna Go My Way」のギターリフを逆から弾いてみたものだという。

そのほか風見りつ子、桐島かれん、アリラン明電、The AURIS(SUPER)BANDなど数々のプロデュース作がある。

96年からは週刊文春で「考えるヒット」の連載を始め20年まで続いたが、この間08年と12年に二度の癌手術と抗がん剤投与を経験。一時は体力気力とも落ち込んだが、徐々に回復し、13年からは京都精華大学の特任教授に就任、クールスなどに楽曲提供を開始し、ジュ―シイ・フルーツの再結成ライブに呼ばれたことがキッカケで18年には38年振りのソロアルバム「超冗談だから」を、同年12月にはLUNASUNとしてアルバム「Organ Heaven」を発表。

盟友アランメリルは20年に新型コロナウイルスを原因とする肺炎で亡くなった。近田にとって他人事では無いコロナに対してもYouTubeに新曲を発表している。

冒頭でも述べた通りこのように音楽性の変化の激しい人だが、変化を続けて来ただけに、今回本書の中では各音楽ジャンルへの深い洞察の片りんを垣間見ることができる。

彼のフォーク嫌いは有名で、生理的に受け付けないとも言う。

日本のフォークって、アメリカで起こった運動的なものとは性格が違うと思うんだ。社会との関係性に興味を持ったんじゃなく、単にギター弾きながら歌うのがカッコいいという理由でフォークに飛びついた若者が多かったんじゃないかな。エレキは高いけどフォークギターなら手に入れやすい。

ハルヲフォンでロックを追求した後、ロックが産業ロック化すると共に、次第に興味を失っていく。

ロックは、次第に無難な商業音楽の分野のひとつとして受け入れられ、他のジャンル同様、技術の向上が尊重されることとなった。それに比べると、ロックンロールは、上手とか下手とか一切関係なしに、ハッタリがききさえすればそれでいいじゃん。(中略)非アカデミックなものがアカデミックなものに勝つというその瞬間こそ、「ロックンロール」の醍醐味である。

ヒップホップについてもそのルーツを次のように喝破している。

ヒップホップのルーツをたどれば、安く投げ売りされていたレコードのドラムの音だけをつないで、それをバックに適当にしゃべっていた遊びじゃない?そもそもお金がなかったがゆえ生まれた手法なわけよ。

MCとDJというスタイルに飽きて、ビブラストーンズを結成する際には、音楽家としてヒップホップを変化させようという気持ちが強くなる。

ひとつのジャンルに没入すると、みんな、「らしさ」ってものを求めるじゃん。でも俺はエピゴーネンは嫌なのよ。冗談としてエピゴーネンするならいいけど、本気でエピゴーネンしちゃうと、そこから先に抜けられない。だから、違う角度から戦いを挑まなきゃいけないんだ。(中略)自分は、あくまでも今までにない方法論を見つけたいんだよね。

Jポップについて毎週評論を綴ったが、子供の頃からどうしても日本の音楽を好きになることができなかった、という。

子どものころから音楽を学び続けるうちに、自分の興味は、言語や声よりも、音楽の構造そのものに向かっていった。それこそが西洋音楽の面白さだった。

何年か前に久米宏の番組に秋元康と一緒に招かれた番組を見ていると、日本の音楽史を振り返るという企画で、フォーク嫌いを強調して久米宏にスルーされていたが、それでも持論を果敢に喋る姿はまさにロックンローラーだった。このYouTubeでは同じ番組で久米宏が水と油の二人の違いを面白がっている様子を見ることができる。

正直好き嫌いの激しい人であり、そのせいで随分損をして来たのかもしれない。それでも「違う角度から戦いを挑む」気力を持ち続けたことに関心するとともに、これからも鋭い舌鋒と果敢な戦いで新しい音楽に挑戦することでロックンローラーを見せつけ続けて欲しい。

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