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ブックレビュー「欲望という名の音楽 狂気と騒乱の世紀が生んだジャズ」

今年最初のブック・レビューは音楽モノから。

本書は、昨年7月に出版されたもので、日米の二十世紀のジャズの「裏面史」を掘り下げ、ジャズの毒を絞り出すことを探求した本だ。

米国では、ニューオリンズの地方音楽だったジャズがシカゴ・ニューヨークを皮切りに全米に広がっていったことで20世紀を代表とする大衆音楽になっていったのがいわば表の歴史だ。その裏には戦争、売春、ドラッグ、酒、犯罪、人種差別、民族差別、リンチといった人間の「業」の結晶として生まれたジャズの歴史がある。

いまや世界で最もジャズが愛好されている日本では、戦後の合法的なRAA(Recreation and Amusement Association、「特殊慰安施設協会」)が占領米兵に慰安を提供する中でジャズが普及していった。

ジャズのオーディエンスであったアメリカ人たちは性サービスの享受者でもあり、4年弱で活動を終了したRAAの解体後は民間の事業者がそれらのサービスを引き継いでいった。

52年の占領終戦後、54年にハナ肇らが仕掛けた伊勢佐木町のナイトクラブ「モカンボ」での一大ジャム・セッションは秋吉敏子と並んで日本のビ・バップの先駆者の一人、守安祥太郎の演奏を垣間見ることができることで日本ジャズ史をゆるがすものとして後世に伝わっている。

本書は、そういった流れの中、日米におけるジャズとドラッグ・セックスの関係、日本における戦後芸能での反社との関係、米国におけるジャズの庇護者であったマフィア(シチリア島出身者の犯罪組織にのみ使われる)、ギャング(ニューヨークのユダヤ系犯罪組織やナポリ出身のアルカポネが代表例)との関係、フランク・シナトラとシンジゲート(サム・ジアンカーナ)との関係、ユダヤ人と黒人の連帯と共闘について興味深いエピソードを関係書籍を紐解きながら提供している。

個人的に興味深かったのは米国でのミンストレル・ショーでのアイルランド系白人や日本でのシャネルズによる顔を黒く塗ったデビューなどを「恣意的想像」、すなわち過酷なアメリカ社会を生きてきた黒人のリアリズムから遠く隔たった「幻想の黒人」のイメージがあったものとして指摘している点だ。

ただし著者はそれらを安易に糾弾するのでは無く、自分自身も、「この「恣意的想像」からどれほど自由であるか」、と疑問を呈している。私の世代のようにロック音楽から米国文化への憧憬を抱いていた者たちにとって「「恣意的想像」からの自由」度は的確な指摘である。

さて本書で触れたジャズ曲からここに印象的な10曲を紹介したい。

1. Walkin’ by Miles Davis

ヘロイン中毒になったMiles Davisが父親の救いでコールドターキーを断行し中毒から脱し、本録音を皮切りに快進撃を始める。

2. Livery Stable Blues by Original Dixieland Jass Band

ジャズの歴史上最初に発売されたレコード。録音は1917年で、アメリカが第一次大戦に参戦し、ニューオリンズの売春街区ストーリーヴィルが閉鎖された年だった。まだJazzという言葉が定着していなかったためJassと表記していた。Jazzという言葉に変わったのはその後シカゴでその音楽が育ってからだと言われる。

3.The House of Rising Sun by Nina Simone

The Animalsが1964年に歌った「朝日のあたる家」では、”many a poor boy"と歌われた本曲は元々"girl"で売春宿に落ちた女性の哀歌であった。が、同時に刑務所や孤児院をテーマにした"boy"バージョンもThe Animals以前からあったことがわかっている。

本曲の決定的バージョンといわれるのが、Bob Dylanがレコーディングした同じ年1961年の初頭にライブで歌ったNina Simoneのバージョン

日本では、浅川マキが1971年にライブ録音した。

4. Pres and Teddy by the Lester Young & Teddy Wilson

 アル・カポネ支配下にあったシカゴで、ナイトクラブの雇用主だったギャングをパトロンとして、1930年代から数多くの録音を残した黒人ピアニストにTeddy Wilsonがいる。

5. One O'Clock Jump by Count Basie and his Orchestra

音楽に次いで社会活動にも熱心だったJohn Hammondが1936年にCar Radioで流れてきた驚異的なサウンドがCount Basie Bandのライブだった。その後音楽雑誌に称賛記事を書き、あらゆる業界関係者にその素晴らしさを吹聴し、MCAとの契約を後押しした。これを機会にKansas CityスタイルのSwingジャズが全米に浸透していった。

6. From Here to Eternity by Frank Sinatra

曲をスタンダード化し、聴衆との一体感を生み出す親密な声。Miles DavisがTrumpetの歌わせ方を学んだといわれるFrank Sinatraの”The Voice”。

そのFrank Sinatraの人気に翳りが見えていた1950年代初頭に戦争映画「地上より永遠に」への出演を悲願し、コロンビア映画の独裁的経営者だったHarry Cohnにさまざまな形でアプローチし、はした金で出演を勝ち取った。

結果、イタリア人兵士の役柄がSinatraのイメージにフィットし、「哀れを誘う」ことでアカデミー賞助演男優賞を勝ち取り、結果”Reputation Laundering”(評判のロンダリング)に成功、シンガーとして黄金時代を築くことになった。

7. Bossa Nova Medley by Frank Sinatra & Tom Jobim

 Frank Sinatraのキャリアの最初の頂点だった1940年代後半から50年代初頭にかけて彼を「神」と崇めていたブラジル。そこでは「シナトラ・ファルネイ・ファン・クラブ」というファンクラブが立ち上げられ、その会員には後のBossa Novaシーンを支えたミュージシャン達がたくさんいた。

ファンクラブ以外にもAntonio Carlos JobimがFrank Sinatraを敬愛していた。1966年にFrank Sinatraから突然の電話ももらい、翌年「Bossa Novaの国際的な永遠性が保証された」と言われるアルバムが完成した。

8. George Gershwin-Rhapsody in Blue by Leonard Bernstein

 ニューヨークのブルックリンに生まれたGeorge Gershwinは10代から黒人霊歌、ゴスペル、ジャズに興味を持ち、Tin Pan Alleyの作曲家であったIrving BerlinやJerome Kernに傾倒した。

1924年に「延々と長時間にわたる退屈なコンサート」の23曲中22番目に演奏されたのが”Rhapsody in Blue”で、これによりアメリカ人を欧州クラシック音楽へのコンプレックスから解き放ったと言われる。

9. Porgy and Bess by Miles Davis

先天的に両足が不自由で、物乞いで日々を凌いでいるPorgyと殺人を犯したヤクザ者の情婦であったBessの物語を三時間のOperaにGeorge Gershwinが仕上げたのは1935年だった。

当初は評価が分かれていたが、50年代になるとJazz Musicianがこぞって本Operaの楽曲集を取り上げるようになった。その中でもMiles DavisとGil Evansによる本アルバムは全く新しい作品に生まれ変われたといわれる。

10. Strange Fruit by Billie Holiday

1930年にIndiana州で起こった黒人男性のLynch事件を元にユダヤ人高校教師だったAbel MeeropolがLewis Allenの名前で発表した”Bitter Fruit”。彼はこの曲をJazz Club ”Cafe Society”に出演する黒人女性シンガーに歌って欲しいと同ClubのOwnerだったBarney Josephsonに懇願した。

Barneyはその内容に打ちのめされ、黒人女性シンガーBillie Holidayに歌うようになり、1939年7月のBillboard Chartで16位にまで昇りつめた。


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