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ブックレビュー「親父の納棺」

元日経BPの編集者で、現在東京工業大学のリベラルアーツ研究教育院教授である柳瀬博一さんの「国道16号線」に続く単著二作目はコロナ禍の真っただ中に亡くなられたお父様とのお別れを綴ったエッセイ。

コロナ禍という特殊事情でそれまでと同様の「普通のお別れ」が出来なかった方は当然のこと多い。私自身昨年11月に若い頃からお世話になった従兄を亡くしているが、コロナの波間をとらえきれずで、まだ線香を挙げに行けていない。

柳瀬さんはこの人類史上稀に見る特殊な環境でのお父様とのお別れを嘆くのでは無く、新たな学びに目を向けている。

もちろん「コロナのせい」で亡くなる前に入院先では自由に面会できなかったし、亡くなった後も通夜は家族だけで行い、葬儀も参列した人は数えるほどだった。しかしそれは「さみしい別れ」では無く、むしろ通常ではありえなかった濃密な時間を過ごした、という。

映画「おくりびと」で脚光を浴びた納棺師という職業だが、柳瀬さんが実際に出会った納棺師は映画で見た寡黙なイメージとは大きく異った。彼女は自らの仕事を「ケア=身の回りのお世話」と呼び、積極的に死者に語り掛け、親族へ「ケア」への参加を呼び掛ける。

柳瀬さんはお父さんに対するこの「ケア」に参加することで、具体的な「死者との対話」を経験し、その結果お父さんを「さわる」(物的なかかわり)が「ふれる」(人的なかかわり)に変わる経験をした。参加した「ケア」は死者に対するものだけでは無く、残された家族のためでもあることを実感した。

本書の表紙絵はエッセイ漫画「ひぐらし日記」、「新ひぐらし日記」を執筆した日暮えむさんによるもので、「死者との対話」により亡くなったお父さんと残された家族がお互いケアする姿がよく伝わっていると思う。

またお通夜も葬儀も対面で参列したのは近い親族のみだったが、柳瀬さんは一年前に経験した伯父のお通夜と葬儀での経験もあり、ZOOMを駆使して、単に中継するだけでは無く、その場にいない人達が語りかけることができる双方向なものにすることに成功した。

こういった経験は「コロナのおかげ」である、というのだ。

そして本編の付章として加えられている、おくりびとアカデミー代表の木村さん(映画「おくりびと」を監修した納棺師のご子息)と柳瀬さんとの付き合いが長い養老さんとの対話が柳瀬さんの経験からの学びを後押しする。

木村さんは東京は物理的に自宅でお別れの時間を費やすことができる一軒家に住む人が少なく、葬儀場で納棺するため「お別れの質」がまだ低く改善の余地が大きいという。

養老さんは自らお父さんとの死を引きずった経験から、柳瀬さんが濃密な別れで経験したことで死者が「三人称」が「二人称」になったと指摘する。そして「お別れの質」が低いと死者に正しく「さよなら」が言えず、亡くなった人間がバーチャルに「二人称」として現れ続ける、すなわち「成仏しない」、ことが起きうるのだ、という。

これらの指摘を受け、最後の章で柳瀬さんは、われわれは死者へのケアの労働部分は外部化するとしても、ケアの本質であるスピリット、積極的に手でふれ、手を差し伸べることには積極的に関与していくべきであることを指摘する。「お別れの質」を高めてこそ、死者に正しく「さよなら」が言えることを忘れてはならない、と。

本書を読んで、私はこれから直面するであろう数々の死とこのスピリットの部分をうまくやっていけるようにしよう、そうやって「別れの質」を上げるのだ、と決意することができた、ような気がしている。

そのためにはこの決意を忘れないように毎年本レビューを9月20日に反芻することを誓います。マジで。


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