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ブックレビュー「親が亡くなった「ぼくは、どこで暮らしたらいいんや」-きょうだいからみた”知的障害者の地域生活の現実”とその根っこの問題」

ここ数週間はすっかり日常に埋め込まれたレギュラー項目に加え、イレギュラー業務が重なって業務関連以外の書籍を手にする時間が少なくなってしまっていたが、今日は久しぶりに2021年6月に発刊されたこの本をご紹介したい。

本書は3歳年下の知的障害者の弟を持ち、現在は実家をシェアハウスに改装し、経済支援と地域交流福祉活性のための場として開放している山下幹雄氏が執筆したものだ。山下氏は元々工学博士号を持つ方で、現在も大学で客員教授を務めている御年75歳の方で、本書は技術系らしい理路整然とした構成になっている。

知的障害者の兄ではあるが、「(障害者)当事者でもなく、親でもなく、単なるボランティアでもなく、支援介護専従者でもなく、福祉専門学者でもなく、医療専門家でもなく、人権法的専門家でもなく、政治家でもない」著者は、むしろ「素人で中途半端な立場」ではあるが、その代わりセクショナリズム的な個別分断的な壁」を越えた立場を意識して本書を執筆する。すなわちそれらの障害者のまわりにいるステイクホルダー同士の「隙間とそれら間の連携」こそが新たな方向性を見出すための重要なポイントだと主張する。

第1部は「現代の家族による障害者殺し」という冷徹な現実分析から始まり、第2部と第3部では著者自身の経験に基づいた「地域での当事者の各種居住場の模索」と「障害に応じて当事者自身が自分で多様な意思を日々決める始まりの支援」の実例を挙げる。

そして第4部で「公的支援の欠如と課題解決への未知」、「”当事者及び親”と”きょうだい”との関係の長い道のりの変化過程」、「私のささやかな地域活動」を紹介し、最終章で第1部から第4部で明らかとなった問題解決のためにその必要性を示唆する地域社会、「具体的な多層構造連携共生地域社会構築のための中身」を論じ、四つの最低限の提言を列挙する。

知的障害者が主体的に生きていくための保障として、著者は「(1)居住場の保障」に加えて自らの経験から「(2)知的支援の保障(意思決定支援の保障)」「(3)手足論的支援の保障」を挙げる。

しかし現実には知的障害者で公的に支援介護が保障されている居住場を利用できているのは、わずか11.1%で、残りの約90%=96.2万人が自宅で暮らしている。さらに18歳以上の知的障害のある成人在宅生活者は96.2万人のうち75.8%の72.9万人。

著者は、まず先の(1)の保障、障害者が地域で安心して自由に暮らせる、障害、年齢等に合わせて選べる多様な、親亡き後を見据えた居住場を保障すべきだ、と指摘する。そして、施策にあたっては家族の同居、居宅介護支援をなくすべきだ、とする。家族の同居による支援は、同居主因による問題発生、当事者の自立過程を阻害、支援の目が入りにくい、親亡き後の支援付き居住場への移行を困難にする、等があるからだ。

そして(2)と(3)の保障については、当事者の要請を窓口で待たずに積極的に在宅訪問により当事者の親亡き後までのライフプランづくりの支援を行うべきだとする。そのためには①公平・平等な第三者委員会の設置、②公による人的支援の保障、③公による当事者の基本的人権の保障、④支援者数の不足と力不足の公による解消、が必要だと訴える。

知的障害者の親の立場である私にとって親亡き後、すなわち居住介護の主体である自分たちが死んだ後の当事者の居住場は痛切でありながら日常の対応に追われて後回しになりがちな課題だ。著者は親では無い兄弟の立場でありながら、親亡き後(さらに姉が病に倒れて)居住場探しに帆走し、その試行錯誤の意思決定から学んだこと(特に当事者本人の意思尊重の必要性)を「セクショナリズム的な個別分断的な壁」を超えて冷静に指摘する。そこに流れるフィロソフィーは「障害者のまわりにいるステイクホルダー同士の「隙間とそれら間の連携」」だ。

米国で私が親の立場で経験した高度専門職間を橋渡しするファシリテーター不在の問題と似ているが、おそらく違うのは日本ではボランタリーなリーダーの出現、あるいはリーダー不在ではあるが当事者指向の集団意思決定という独特の事象が期待できるからではないだろうか。

重度の知的障害者でコミュニケーションそのものが成り立ちにくい自閉症の場合当事者主体の意思決定が親という代弁者無にどう成立しえるのか、当事者の兄弟の役割を含めて改めて考えさせられたし、高齢者を迎えた著者からは「残された時間は意外と長く無い」とも指摘された気がする。私も前を向いて試行錯誤を粘り強く続けて行こうと思う。






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