改訂版『フォレスト・ダーク』(ニコール・クラウス著 広瀬恭子訳 白水社)書評

 テルアビブの海岸に建つコンクリートの無骨なホテル、ヒルトン・テルアビブが、ニコール・クラウス著『フォレスト・ダーク』の要となる場所だ。物語の舞台はニューヨークとイスラエル、主人公はエプスティーンとニコールの2人である。
 最初に登場する主人公はジュールス・エプスティーン。弁護士として名を馳せ、欲しいものは何でも、富も地位も名誉も幸せな家庭も手に入れてきた68歳の男性だ。常に人と議論を戦わす攻撃的な面を持ちながら、好奇心旺盛で多くの人を惹きつける精力的な人物である。ところが両親の死をきっかけに自らの人生の歩みに疑義を抱くようになり、自分に属する全てを、財産も結婚も地位も、手放しはじめる。生まれ故郷テルアビブへの旅も人生を見つめ直すためだった。たまたま出会ったユダヤ教指導者に導かれるようにして、やがて自身までも手放したかのように姿を消す。
 もう1人の主人公は、著者と同じ名前を持つ39歳の女性作家ニコール。子供のころから1度に2つの場所にいる感覚を覚えることがあり、現実に揺らぎを感じていた。進まない執筆と夫婦関係の破綻に苦しみ袋小路に迷い込んでいたとき、ラジオでマルチバース(多元宇宙)の話を聞き、自分は命を授かったテルアビブのヒルトンホテルにから動かず、そこから人生全てを夢見ているだけのような気がしてくる。それならヒルトンが難局を打開してくれるはずだと考えてイスラエルへ向かう。そこで叔父に紹介されたテルアビブ大学元教授のフリードマンから、カフカにまつわるプロジェクトに誘われる。
 章ごとに入れ替わる2人の主人公の共通点はユダヤ系アメリカ人であること、ニューヨーク在住、テルアビブに対する思い入れ。だが、2人の物語が現実的に交わることはない。その代わり、目の前のできごとに触発された2人の思考が物語の進行の合間に連綿と綴られ、それがこの小説の横糸となっている。人生とは、家族愛とは、命とは、宗教とは、宇宙とは…。ユダヤ教をベースとして展開される2人の思索は、日本の読者には目新しい部分も多いだろう。
 そして小説を鮮やかに彩る縦糸が、ユダヤ系の小説家フランツ・カフカだ。いつの間にかプロジェクトに引き入れられたニコールがフリードマンから聞かされるのは、カフカの遺稿にまつわる突拍子もない話。ありえない内容を聞けば聞くほど、しかし、真実かもしれないという思いが募る。そして世界を驚かす秘密の証拠を運搬中、検問所で不用意なことを口走ったがために連行された先は、砂漠の一軒家。果たしてそれは途方もない秘密が行き着いた場所だったのか。
 夭折の作家カフカを巡るミステリ-として読むのもよし、いわゆる大人の自分探しの物語として読むのもよし、ユダヤ的価値観で世界を覗く窓として読むのもよし。読者の解釈の自由度の高い小説だ。
 最後の1ページにはどんでん返しが用意されている。最後の1行に、村上春樹の最新長編小説「街とその不確かな壁」を思い起こす読者もあるかもしれない。

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書評講座第4回に提出したものに関して、合評でご指摘いただいた点をいくつか修正しました。
独りよがりにならず未読の読者も分かりやすく書かなくてはいけない、といただいたお言葉は、字幕でも普段から気をつけなければならないこと。肝に銘じます。
どんでん返しを明かすかどうかは難しいのですが、私自身が読んだ時、最後の1行でだいぶびっくりしたので、これからの読者にも最後のページを覗かないで頑張って読んで欲しいと願って、書きました。

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